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「イスラームの日常世界」 片倉もとこ

岩波新書  岩波書店

 人間の権力欲への挑戦が、イスラームの歴史であるといってもよい。人間の権威による秩序を否定するのである。近年のイスラーム原理主義者を為政者、体制側がおそれるのも、そういう事情からである。 
(p70)
 彼女たちは、一般に「見られる自分」より「見る自分」の方に関心がある。好奇心旺盛で、いろいろなものを、よく見ている。 
(p90)


どちらの文も今まで漠然としか知らなかったことについてはっとする指針を与えてくれる文章。後者のイスラームの女性に関しては、西洋近代化世界の方が女性たちを男性側から見た商品化のまなざしで見ている(西洋側の研究からも指摘がある)という。 

 ムスリム社会では、ストックよりフローに重点がおかれる。ストックすることに対する挑戦のようなものがつねにみられる。モノをよどませておくことは罪悪である、一つのところに停滞させておくことはよくない。 
(p165)
 水も淀んでいるのはダメだし、利子も禁止、政治体制だって… かれらにとって、時は過去・現在・未来とが因果関係によって固定されない。一瞬一瞬が、神の創造にかかっている。この一瞬とつぎの一瞬とは、つながらない。過去のできごとによって、現在がしばられるわけではなく、未来は神の領域に属する。 
(p171)


前も似たこと取り上げたかも。ここからインシャアラーが生まれてくる。ムスリムのワクト(時間…というか、生活様式といった方がいいか)は、ジョグル(労働)・ラアブ(遊び)・ラーハの3つに別れるが、ムスリムが一番重要視するラーハとはどんなものが含まれるのか、というと… 

 家族とともにすごすこと、人を訪問すること、友人とおしゃべりをすること、神に祈りをささげること、眠ること、旅をすること、勉強をすること、知識をうること、詩をうたいあげること、瞑想すること、ぼんやりすること、ねころがることなど 
(p185)


これら3区分は厳格に別れているわけではなく、できるだけ他の2つにラーハの要素を入れようとする。こうしてできたのが例えばお店での値段交渉などになっていく。近代化にあたって労働と祝祭(同時に別れて生まれた)を分離し、労働中は祝祭時に行うことを禁じた西洋近代化とは違う近代化がここにはある。
あと、何故かメッカの入口にある「異教徒立ち入り禁止」看板には日本語(ハングルも)表記もある。今は中国語もあるのかな。

前に読んだ片倉氏の「イスラームの世界観 「移動文化」を考える」よりは前(1991年)の本。共通する面も多いけど、こちらの方はまだイスラーム世界の情報がそれほどなかった頃なのだろう。感化的側面が多く見られる(かな)。 
(2015 11/24)

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