「デカルト、ホッブズ、スピノザ 哲学する十七世紀」 上野修
講談社学術文庫
「デカルト、ホッブズ、スピノザ」序の「もの言う首」。上野氏はこの3人に惹かれる理由として、自動機械の不気味さ?を挙げている。
周りの人は皆自動機械なのではと懐疑したデカルト
人間には行為の選択の意思を感じなくとも行為の痕跡そのものが彼に責務を負うとするホッブズ
そして全てを自動機械に帰してしまったらしい?スピノザ。
そもそも、アリストテレスにしてから目的因以外になんだか知らないけど自動で発生してしまうもの、という分類があったらしい。
この時代、人間は自分自身内に他者というか得体のしれないなにものかを招いてしまったらしい…
(2014 09/24)
「残りの者」
各個人が持っている恐れ・不安そして期待をからなんとなく?集まった群衆。個人と「残りの者」その相互作用で社会が循環形成したのであり、決してホッブズの言う契約などしなかった、というのがスピノザ「政治論」。こうやって社会そして国家ができるけど、それらも相互作用の中で規制されている。法令とか命令とかは擬制された神の声…とのことだが、ホッブズはこの面を強調していたのではないか、という疑問が湧いた。
(2014 09/27)
最初の「もの言う首」からはここを。本当は全部引用したいくらいな刺激的な導入部なのだが…「それ」とは前にも書いた自動発生する機械。あの命題はデカルトのスリリングな賭けであったのだ。
「残りの者」とは社会と言い換えてもいいのかもしれない。スピノザはデュルケームの社会的事実につながる道筋を開いた。
ホッブズの意志論
続いて今読んでいる途中のホッブズの意志論から彼の意識の定義を。
内面の意識を越えた個人間のレベルでの意識…それは言語コミュニケーションを彼は内面とは切り離して考えている。
ホッブズも意志なるものは「後付け」のものである、こういうことをした、言ったから、遡及的にそう思っていただろうと考えている。
p73の盗賊の例は、盗賊に生死権を委ねられている時に誓った言葉でも、それは自由意志によって発せられたと解釈され、約束の内容を履行しなくてはならなくなる、というものだが、これを人間が生れ落ちた時について応用してみると、人間の生きるという仕組みが立ち上がって見えてくる。親権者に死なされなかった故に、自身の生死についての自由はなく、生き続けなくてはならない。
息苦しい考えだけれど、身につまされるような真実味がある。
(2014 10/02)
スピノザとラカン?
「われらに似たるもの」。
ここは、自己の根源(衝動の根源)から切り離されてしまった人間が、その為に自分を「自由」だと誤解し、成長していく、という話。ちょっとだけ名前が出てきたラカンとも比べてみたい。
いきなり結論出してきたが…感情の源は自分の存在の始まりを自分が見失っているというズレにあるらしい。
双数とか虚焦点とかいうのは数学あたりから借りてきたものかな。とりあえずまだこの文章の1%も理解できていない(笑)…
(2014 11/02)
書き込まれた自己
「精神の眼は論証そのもの」より。認識には三種類あってその第三の直感知というのが、「エチカ」で論証し、されている自己認識だ、という。講談社現代新書の方でもこういう展開があったような…そして直感知は享楽と結び付く。もちろんここでいう享楽とは神の存在を知る静かなものなんだけどね。
(2014 11/06)
スピノザと自己
昨夜、結構強引に「デカルト、ホッブズ、スピノザ」を読み終えた。
ラスト2つの論文はやはりスピノザに関して。前のは「エチカ」冒頭の実体と属性の定義について。実体はただそれだけで存在し属性は単一で無数に存在する…が、その後で属性を全て持ち得るような存在の定義も出てくる。これを巡ってあらゆる議論があったが、上野氏はこれを「反復」するものととらえればいいのでは、と考えている。
続いて、最後の論文から。
そうした消失については前の論文見ていただくとして、ここでも反復がキー概念としてあるような。「すぎない」けれど、実はその「すぎない」ところからこそ人間の可能性というものは生まれてくるのでは。寂しい表現であると同時に…
(2014 11/25)
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