「越境を生きる ベネディクト・アンダーソン回想録」 ベネディクト・アンダーソン
加藤剛 訳 岩波現代文庫 岩波書店
三鷹uniteで購入。
(2023 07/02)
最初に
昨日チラ読みした時の気になりポイントは、英語のことを「イギリス語」と表記しているところ。仏語、独語とはもう言わないのに何故英語だけ?という日本側の疑問から。
ということからわかる(?)ように、この本元々日本側の依頼で、若い研究者などに向けてという依頼からできたもの。それを何年か経ったあと「英訳」(イギリス語訳?)する話になって、もうすぐイギリスでも出版されるという時期にアンダーソンが亡くなってしまう。
(2023 07/03)
生誕からコーネル大学まで
アンダーソン氏はこの本の中で幾度も「幸運なことに◯◯の最後の世代(コホート)だった」と述べる。例えば子供時代はテレビは無くラジオで朗読などを聞き、旅芝居もよく見たとか、学校では西洋古典文学や詩の暗唱などをしたとか。数年後の妹の世代では既にそうではなかったという。
父方のアイルランド系と母親のイングランド系の間に生まれる(1936)。生まれたのは昆明。父親が中国からの賠償金管理をしていたところに勤めていた(といっても、この時期にはだいぶ中国寄りな政策だったらしい)。その父の健康状態が悪化し、アメリカ経由でアイルランドへ。中国では息子(つまりアンダーソン本人)に世話する女性がついたがその人はベトナム人。アメリカに渡る時、一家はこのベトナム人女性も連れて行こうとしたが、アメリカの反東洋人政策で実現せず、後に母は彼女を探したが行方は知れず。
その後、父は亡くなり、母親が一人で養っていく。この母親、アンダーソンに結構重要な選択をしていく。母親本人はイングランド人なのでアイルランドに留まることはなかったのだがアイルランドの田舎町でそのまま暮らし、学校第二外国語?選択はアイルランド語ではなくラテン語。高等教育はイングランドに渡り(後に政治学者になる弟も)、イートン校→ケンブリッジと進む。
アイルランドの生活は周囲の人々とはまるで違う、中国やベトナムの写真や衣服などが多かった。イートン校では、彼ら奨学金でなんとか入ってきた人達と、上流階級の子弟が一緒に学ぶが、生活している下宿は全く別のところ。また、上級生が下級生に対して伝統的にやっていた体罰を、自身が上級生になった時、友人達としめし合わせてやらなかった、と回想する。
こうして、ケンブリッジを出たが、その後どうしていいのかわからない時期があったという。そこに弟や友人が勧めてくれたのが、アメリカコーネル大学。当時インドネシア地域研究の草分け的存在がそこにはいた。
(2023 09/27)
当時の東南アジア研究
第2章残り。
コーネル大学東南アジアプログラム創成期の課題をアンダーソンは挙げている。このコーネル大学の人材が、後にアメリカの各地の大学に入り込んだことにより、この課題はアメリカの東南アジア研究の課題となる。
1、この当時の東南アジア研究は、政治学と人類学にほぼ二極化していて、双方にまたがる社会学や文化研究は進まなかった
2、(研究対象の)一国主義的傾向。インドネシアとシャム(「タイ」という国名は、軍事政権が提示したもので、タイ族中心主義でもある、という理由からアンダーソンはシャムという国名を用いている)以外は英語かフランス語で研究が済む。インドネシアとシャムの場合は言語習得のおかげです、一国主義的傾向がかなり強い。インドネシアの研究者はスカルノの影響か左翼的で、シャムの研究者はそれより保守的。ヴェトナム戦争時、前者は戦争反対、後者は始めの頃は戦争を支持したという)。
アンダーソンはケーヒン教授の勧めで、博士論文ではインドネシアにおける日本占領期の調査をすることに。この前にアンダーソンも述べているように、東南アジアの日本占領期というのは他地域には類を見ない特殊な状況だったという。これが彼の現地調査の始まりになる。
(2023 09/28)
第3章「フィールドワークの現場から」
この時期のアンダーソンの立ち位置…その1、ジャワのムスリムは、「白」と呼ばれる敬虔なムスリムと、「赤」と呼ばれる名目的にはムスリムだが昔からの伝統に基づいている人々との対立があった。アンダーソンは「白」のムスリムの友人を多く持ち、古いモスクを一緒に訪れたりしていたが、アンダーソンが「恋した」ジャワは明らかに「赤」。後にいろいろな研究者が「的確にも」アンダーソンのこの面を批判した(と当人が書いている。その2、インドネシアの政治や経済等についての関心と、文化や伝統、社会規範等人類学的関心。アンダーソンはこの両者を、当時としては珍しく「複線的」に持っていた、という。
暗くなると、歩道がチェスを指す人で一杯になる。このジャカルタの夕方のチェスの情景は、この本の中ではかなり印象的な場面になると思う。
こういう光景も、スハルト時代には、背景にある平等主義と一緒に消えてしまった…
(2023 10/02)
シャムとフィリピンへ
第3章続き。
最初のフィールドであったインドネシアから27年間入国拒否、その間にちょうど民政移管の時期であったシャムと、マルコス政権崩壊前後のフィリピンへ赴く。シャムの場合は現代小説から、フィリピンの場合はスペイン時代の小説から、言語やフィールドワークを始めた。フィリピンの農村部(そこは共産党勢力が強い地域)に招待された時、アンダーソンに付き添ってくれて10代の少年2人は、後に共産党上層部?によって殺されたという。
一方、インドネシアの方は、コーネル大学やベルリンなどに来ているインドネシア人(ここでは5人紹介されている)との交流で情報を新たにしていった。
これ、他の国の文学読む時も参考になりそう。というところで、第3章終わり。
(2023 10/03)
第4章「比較の枠組み」
ここで「想像の共同体」などが出てくる。
アンダーソンは長い間寝かせてから一気に書き上げるタイプらしい。「想像の共同体」書く前に役だったといって挙げている3つ。まずは弟ペリー始めとするイギリスの「ニューレフト」の若者。この人々、特に弟やトム・ネアン(スコットランド出身のナショナリズム研究の最左翼)は、これまでのイギリスの左派にはあまりなかった大陸思想を導入した。アンダーソンが特に影響受けたのはベンヤミン。続いてコーネル大学の同僚であったジム・シーゲル。彼はアンダーソンに、アウエルバッハの「ミメーシス」や、インドネシア作家プラムディア・アナンタ・トゥールの作品などを紹介してもいる。最後にアンダーソンの学生。
一方、「想像の共同体」が標的にしたのは、まずヨーロッパ中心主義者、続いて伝統的なマルキシズムとリベラリズム。前者への論点は、ナショナリズムという思想自体が南北アメリカ(そしてハイチ…と特筆している)であること、後者への論点は、彼らはナショナリズムという力を過小評価しているというもの。著者の主眼であったイギリスの読者層のために豊富にあった目配せや洒落は、日本語訳始めるにあたって、アンダーソンが白石氏にそこは日本語に合うように変えていいよ、と伝えたという。
第4章最後に(あまり主題とは関係ないが)印象的な表現を引用しておく。
「ロンアン」…いいわぁ…どうしてこんな概念が生まれるようになったのか(家の中で害虫やサソリ?など)がよくいる場所だからか。ちなみにここで言う「ジャワ語」は、インドネシア語とは違うもので、ジャワ島で話されているもの。雅言と俗語に分かれる。
(2023 10/04)
第5章「ディシプリンと学際的研究をめぐって」
今日は「大学をめぐる量的変容と質的変容」まで。
概論的な箇所なので気になるところを一箇所だけ。日本の2004年で、海外留学する日本人が8万人、海外から日本へ留学する外国人が9万人くらい。これがもうすぐ逆転するのではないか、と著者(ここはアンダーソンというより日本語翻訳者側だろうけど)は危惧している。
(2023 10/05)
ここでいうディシプリンとは、「学部」のこと。それも経済学部とか法学部とかある程度固まった研究方法の蓄積がある学部。それに対して「地域研究」は学際的傾向を持ち、アンダーソンも集まってきたいろいろな主専攻学部出身の学生に対し、わざと違う専攻の課題を与えたりしていた(経済学部の学生に文学部的な課題とか)。
「想像の共同体」出版時(1983年)には、イギリスでは好意的な評もあったものの、アメリカではほとんど反響がなかったという。それが、冷戦の終結により、アメリカが「仮想敵」をソ連からナショナリズムに変えたことで、急速にアンダーソンが認知され始めた(冷戦下でソ連研究をしていた国策的な研究団体が、アンダーソンのところに電話してきて「ソ連関係の仕事がなくなったのであなたの力が必要になりました」と言ってきたこともあったそう。アンダーソンは「行かなかった」らしい。外野的には行ってもいいんじゃない?とも思うけど、まあいろいろあるのだろう)。
(第5章は、断続的に読んで昨夜まで)
第6章「新たな始まり」
そしてこの章とそれから訳者あとがき、岩波現代文庫版あとがき読んで読み終わり。
この第6章は、最初の構想にはなく、後で訳者加藤氏が付け足して依頼した分。1996年、軽い心臓発作があってのち、アンダーソンは一年の半分をコーネル大学イサカで、もう半分を(インドネシアはまだ追放の身だったので)バンコクで、それぞれ過ごす(行き帰りには日本にも寄ったという)。この時期は、小説仕立ての研究書「三つの旗のもとに」(これ訳されている。山本信人訳 NTT出版)、タイ映画との関わり、そして東ジャワの華人クウェ・ティア・チン(郭添清)の「炎と灰燼の中のインドネシア」を、古本で作者が分からないところから同定して訳すという3つのことを主にしていたという。
望遠鏡を逆にしてみる…か。今まではやってこなかった、ほぼ固定の視野のままだった、と自分を振り返って思う。
「声の文化、文字の文化」(オング)にも通じるとともに、第1章の詩の暗誦の話にも戻ってくる話。アンダーソンの妹の時代ではもう廃れ始めていたというくらいだから。
ナショナリズムやグローバル化を一方的に断罪しない、その中含有されている力を育んでいこうという柔軟な考え方。融合となると、今まで正反対だと思っていた概念なだけに今はそのきっかけも思い浮かばないが…
あとがきでは、日本にアンダーソンが来た時(1970年代)に、高知にアンダーソンと訳者とタイ人同僚と三人で自転車旅行をしたこと。それから、2015年12月に東ジャワで亡くなり、遺灰を海上で散骨したことなど。
(2023 10/09)