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「カンギレムー生を問う哲学者の全貌」 ドミニック・ルクール

沢崎壮宏・竹中利彦・三宅岳史 訳  文庫クセジュ  白水社


症状を治癒するということは、元の身体に回復することではなく、新たな身体と環境関係に身を置くことである。
科学認識論において、カンギレムは大筋でバシュラールの論に合意する。ただ「否定の哲学」にあるような哲学は科学に同化すべき(?)というバシュラールの考えには反対する。それは医学に対する個人というカンギレムの考えから来ているのだろう。また現場の医療機関での研究を重んじたところは、バシュラールにはなく、カンギレムからフーコーへと受け継いだところだろう。

時代的断絶の考え方は、全く関係のない似たような考えを持つ人を「先駆者」としてしまう誤りを除去する為に出されたのか。
反射概念の形成(なぜ誤ってデカルトがその祖と結びつけられたのか→反射概念は神経系へと発展する)、科学的管理法(テーラーシステム)に対する反論、デカルトと望遠鏡(技術上の必要から新たな概念・考えが生まれる、そしてそうした新しい技術が、その対象たる現象を見つける(先の反射もそう))
(2019  01/08)

  科学は補正機能しかもたない。その仕事は「減速機」であり、創造的な力が失敗に突き当たることで科学が生み出され、今度は科学が失敗の危険を予告するのだ。
(p81ー82)


行為が認識(科学)に先立ち、認識(科学)は行為行動が危機的状況になってから動く。これはクーンのパラダイム理論にも図式的に近いが、クーンの方は日常的な営みの方に、カンギレムの方は危機的の時の方に力点が置かれているような気がするけど、違うか?
とにかく、水中の棒が曲がって見えることから、重大な環境問題まで、行動と認識のせめぎ合いが続く。

錯覚や感情が生理学的に身体や脳に刺激を与え体調を変えていく、このことを師匠のアランやカタロニアの生理学者テュロから学んだカンギレムは、それを立証する為に医学の研究を始めた、と回想している。
生命が自らの環境を自らで切り取り改変していく(ゴールドシュタイン「有機体の構造」(1934)この本は一方ではメルロ=ポンティの「行動の構造」(1942)にも影響を与えている)、この考えから始まった動物心理学、動物行動学等をカンギレムは高く評価している。
(2019  01/11)

第4章読み終え

  社会は固有の合目的性をもたない。「それは一つの手段なのだ。社会は有機体の種類に属すというより、むしろ機械や工具の種類に属すのである」
(p94)
  われわれが観念と呼んでいるものは、行動の全体であり、われわれが心理学の現象と呼んでいるものは、全体としてとらえられた個人のことなのである。だからわれわれは脳で思考するのと同じく手で思考し、胃で思考し、全体で思考すると言える。言い換えれば、バラバラに考察してはならないのだ
(p97)
  意味とは…のあいだにある関係のことではなく、…への関係のことである
(p98)


この「カンギレム」という本、書評などでは「知られていたカンギレム像をひっくり返す」というのが結構あったのだが、それはひょっとしたらこの辺か?
(2019  01/13)

カンギレム読了
文庫クセジュの「カンギレム」さっき読了。通常この人の特徴とされる科学認識論と正反対と一般的にはされる生の哲学の要素をここで捉えた。「立って考える」とはどんなことだろうか。
(2019  01/16)

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