「ヴァルター・ベンヤミン-闇を歩く批評」 柿木伸之
岩波新書 岩波書店
プロローグ
第一章 青春の形而上学-ベルリンの幼年時代と青年運動期の思想形成
インテルメッツォⅠ クレーとベンヤミン
第二章 翻訳としての言語-ベンヤミンの言語哲学
第三章 批評の理論とその展開-ロマン主義論からバロック悲劇論へ
第四章 芸術の転換-ベンヤミンの美学
インテルメッツォⅡ アーレントとベンヤミン
第五章 歴史の反転-ベンヤミンの歴史哲学
エピローグ-瓦礫を縫う道へ
ヴァルター・ベンヤミン略年譜
主要参考文献一覧
あとがき
檜垣立哉他「ベルクソン思想の現在」より。
最後にベンヤミン。ベンヤミンとベルクソンはほぼ同時期にパリにいて、ベルクソンは国際的な様々な運動をしていた人だけれど、ベンヤミンはベルクソンを引用しているのに、ベルクソンは何もしていない。フランクフルト学派の社会研究所のパリ支部設立をベルクソンは支援していたようなので、今後書簡などが出てくる可能性はある。
これは会場に居合わせた、柿木伸之氏の言葉。岩波新書でベンヤミン論有り。
(2023 01/08)
というわけで…
プロローグ
細かく裏に潜んでいるのを見るのが批評の始まり。ここは雑多なものを渡り歩いて見る姿勢とともに自分に割とあるとは思うが、決定的にないのが統合する力。それこそが批評なのだと思う。あの様々な「パサージュ論」の素材をどうやってまとめ上げるのか。見当もつかないけれど、宙に浮いた期待もする。
一つの像として固定してしまうのではなく、細分化し続けて束の間現れた結晶を掬い上げる、というわけか…言うは易し…という。
(2023 01/22)
第1章「青春の形而上学」
学校改革の主唱者ヴィネケンとの出会いと決裂(戦争が若者を成長させるというようなヴィネケンの主張が最終的にベンヤミンは絶縁状を送る)、友人であり詩人であったハインレの自殺(ベンヤミンがどっちつかず?で1914年の8月、軍隊に志願しようとしていた時期の事件)などを経て、第一次世界大戦へ。この時期のベンヤミンの作品として「青春の形而上学」があり、「対話」「日記」「舞踏会」の三部構成となっている。
沈黙の言語とは難しい表現だが、これと対比されているのが、男同士の論争、弁証法の言語というところから考え出してみるのがいいのではないか。ベンヤミンによれば、こうした対話の相手として考えていたのが娼婦であるらしい。娼婦というテーマがベンヤミンの中でどう変化するのかも、読みどころの一つかもしれない。
(2023 01/25)
インテルメッツォ1「クレーとベンヤミン」
この二人、結構似ている生涯でもあるのだが、面識はなかったようだ。まず「奇跡の上演」というクレーの絵を妻ドーラから贈られている(1920)。そして翌年画廊にあった「新しい天使」を購入する。
「新しい天使」の方はベンヤミンの亡命直前まで、居室に飾ってあった。パリを去る時に、「パサージュ論」の草稿などとともにジョルジュ・バタイユに託し、国立図書館の奥に隠していた。戦後、この絵はアメリカに亡命していたアドルノへ、そして彼の死後はショーレムへと渡り、その死後はイスラエル博物館の所蔵となっている。一方「奇跡の上演」は亡命準備中に売却してしまい、現在はニューヨーク近代美術館が所蔵している。
2016年ポンピドゥー・センターでのクレー回顧展で、この両者は再会している。それを著者柿木氏も見たという。
第2章「翻訳としての言語-ベンヤミンの言語哲学」
ショーレムとの出会い。マルティン・ブーバー批判(ブーバーは戦争でユダヤ人が共同して住める土地を得ようと、戦争賛成の立場をとった)。こうしたシオニズム的思想も批判。
言語イコール生きること。生きるために必要な道具というより、生きることそのもの。ベンヤミンは言語をそう捉えているようだ。
言葉をいうこと、それはそのことにより無条件に肯定することだ。
サン・ジミニャーノはイタリア・トスカーナ、塔が林立する古い町。この銅版から打ち出す像というのが、自分のイメージに食い込んでくる。
「一つの大いなる言語」…これは「純粋言語」とも呼ばれるが、ベンヤミンが考えていたのは、バベルの塔の際に諸言語分断される前の、p80の文章で言われている言葉。翻訳は成果を一つの継ぎ接ぎのない完成しているものにするのではなく、原作も破片の継ぎ接ぎならば、一つ一つの破片をそれに呼応するように探し、また別言語の破片の継ぎ接ぎとして提示すること、なのだという。そしてその時、双方の言語に少しずつ変容が浸透してゆく。
(2023 01/26)
第3章「批評の理論とその展開-ロマン主義論からバロック悲劇論へ
作品に内包され、自己展開しながら再布置していくものかな。
ゲーテの「親和力」論で、ベンヤミンが着目するのは、本編ではない挿話「隣どうしの不思議な子どもたち」。本編だけだと作品の神格化と死の賛美につながる。それをこの挿話があることによって、双方破片化しつつ配置される。
これは「ドイツバロック悲劇」から。引用文を再布置してその作品に語らせる方法は、のちの「パサージュ論」へと繋がっていく、ベンヤミンの批評姿勢。
ここで引用してこなかった第2節、「暴力批判論」は、神話的暴力を批判し神的暴力を受け入れるというこの論は、ベルクソンの閉じたものと開かれたもの、それに続いてレヴィ=ストロースの冷たい社会と熱い社会などと繋がる。前にはソレルの「暴力論」があり、後ろにはデリダの「法の脱構築」へとつながる。
ベンヤミンはリルケとも会って仕事を斡旋してもらったり、ホフマンスタールは論文を受理してくれなくて困っていたベンヤミンを助けて自分の雑誌に全文掲載したりもした。そしてこの章最後にはアドルノが。1930年代後半には、自身の批評姿勢を形成する手助けになったベンヤミンを批判することになる(らしい)。
(2023 01/27)
第4章「芸術の転換」
「ナポリ」より。この作品はベンヤミンがカプリ島で出会ったリガ出身のアーシャ・ラツィスとの共同執筆。
ベンヤミンはブルトンらのシュルレアリスムの運動にも注目していた。自分的にはあまり今まで結びついていなかった両者なのだが。それに関連したモンタージュの手法を使った、p135の「一歩通行」の表紙(サシャ・ストーン)がかっこ良すぎる…
(ちくま学芸文庫版「写真小史」の表紙にはこの写真が使われている)
続いて「カール・クラウス」から。
ベンヤミンはブルジョアの壊滅を望んでいた。ブルジョアがまた帝国主義者とともに戦争という導火線に火をつけている。その導火線を切断するために、ベンヤミンは技術、複製を芸術に転化(でいいの?)していくのだが…ここにアレゴリーが加わる。
(2023 01/28)
技術変化・社会変化によって人間の知覚が変わり、それに対する反応・行動も変わる、という観点は自覚していなかった(前にもどこかで見たような気も)。
「触覚」というのは、知覚の触覚だけでなく、瞬間的な刺激全体をおそらくは指すのであろう。ここでベンヤミンに惹かれるのは、だからもう一度芸術作品にゆったり触れる時間と態度を取り戻そうというのではなく、この時代にはこの時代に到達しうる方法があるはずだ、と考えているところにある。あと、ここで「芸術の政治化」と言っているのは、(現在すぐ思い出すような芸術が政治に奉仕する、といったような意味ではなく)アーレントの「政治」と同じく、社会に参加する個人のありようといった意味。
前の映画のところではよくわからなかった「ほぐれた大衆」(p154)がここでやっとわかってきた。けれど、ベンヤミンがブレヒトに接近することを、友人のショーレムもアドルノも懸念していた…のはなぜだろう。プロレタリアートに過信し過ぎというのもあるだろうけれど、アドルノが見逃していたと柿木氏が言うベンヤミンのもう一つの弁証法「静止状態にある弁証法」(p161)とは何だろうか。
インテルメッツォⅡ アーレント
ベンヤミン側ブレヒト側にたぶん見解があるのだろう。アーレントはベンヤミンから渡された手稿を渡米してから社会研究所のアドルノに渡すが、いつまでも刊行しない為に彼らは握りつぶし横領しようとしている、と疑念と怒りの手紙を書いている。
第5章「歴史の反転-ベンヤミンの歴史哲学」
ベンヤミンをパサージュに導いた最大の要因は、ルイ・アラゴンの「パリの農夫」だという。アドルノへの書簡によると、2、3ページ読み進めるうちに動悸がして、それ以上読めなかったくらい興奮したという。
「静止状態にある弁証法」とはこのようなことだろう…どうだろう…自分はアドルノ側にいるのかな、でもだからこそベンヤミンの思想が魅力的に見えるのだろう。不可能に見えることに固執し凝視するその姿勢にも。
p178からの、人類の救済を目的に掲げる「救済史」をベンヤミンはあくまで斥ける、というところは、第3章でよくわからなかった「暴力批判論」から「ドイツ悲劇の根源」それから「技術的複製可能性の時代の芸術作品」を貫く主題であったことが見通せた箇所。
「技術的複製可能性の時代の芸術作品」より
カフカの「オドラテク」や「毒虫」が蠢く、そこから。
(ベンヤミンは中断、休止だけど、ベルクソンは持続、連続だよね)
「任意ではない」というところに注目。それは突然見えてくるもの。カントの「汝なすべし」と同じ。あちらは行動、こちらは像。
ギンズブルグの「歴史を逆なでに読む」の「逆なで」は、ベンヤミンの「歴史の概念について」から取られたと思う。ここでいう「歴史主義」はベンヤミンの用法では、因果の連続で語られる「公式」の歴史の手法のこと。「神話」がそれにより作られる。
エピローグ
まずは扉の「破壊的性格」から。
ベンヤミンはやはり瞬間の人。そういう精神構造でもあったのだろう。そこは自分と似ているかも。
ベンヤミンが自殺したスペイン側にあるポルボウの町。アーレントが1941年(自殺後4か月)訪れた時には彼の名を見出すことはできなかった(墓地使用料は5年分払っていた)。現在、記念碑やモニュメントがある。「文化財なるものは、同時に野蛮の記録であるということなしに、文化の記録であるということはありえない」(「歴史の概念について」)と記念碑にはある。そのこと自体が「文化財」なのだが、いついかなる時にもそれを問うべき、というメッセージも含まれているように自分には思える。
ここでの「物語」は因果を俯瞰する、支配者に同一化した「物語」。ここは野家啓一氏に聞いてみたいところ。「物語」の可能性と危険性といったところか。たぶん、人間は物語無しには生きられないから、物語が「物語」化しないように。それとも「像」と物語(「物語」ではない)は等値あるいは包合関係?
「瓦礫を縫う道」は先程の「破壊的性格」の続きにある言葉。道を切り拓いても、すぐに後ろの道は塞がれてしまう。ベンヤミンは実際にはもっと早く亡命できたはずだ。しかし、一度収監された後でさえパリに戻って図書館に籠る生活に戻る。それは「パサージュ論」のために声を聴く為に踏みとどまったのだ。この時代の様々な亡命の中で、ベンヤミンのケースは稀有な例といえるだろう。
今日みっちり読んで、この本読了。
(2023 01/29)