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「解釈学」 ジャン・グロンダン

末松壽・佐藤正年 訳  文庫クセジュ  白水社

この本での解釈学の大まかな流れ


古代(アウグスティヌスなど)→シュライエルマッハー(19世紀前半)→デュルタイ(19世紀後半)→ニーチェ・ハイデガー→ガダマー・リクール→後継者たち

シュライエルマッハー・・・テクストの解釈し損ないを防ぐための「補助学」としての解釈学。
デュルタイ・・・科学実証主義と観念論との間で人文諸科学の一般方法論としての解釈学。トロイゼンの「説明」と「理解」(前者が自然科学、後者が人文科学)の概念を取り入れる。

現代でもベッティやハーシュといった解釈学者は、このデュルタイの人文諸科学の方法論としての解釈学という立場を取っている。
そして、シュライエルマッハーもデュルタイも何故か晩年には、解釈学の範囲を拡大し人生の実存そのものの解釈という立場も取ることになる。それは上記のニーチェやハイデガーと同じ立場となるのだが。
(2019 03/19)

ハイデガーとブルトマン


ハイデガーは相変わらずわからん(笑)が、解釈学の流れからすれば、テクストの解釈という前提を離れ実存そのものの生と解釈に焦点を合わせたということと、解釈にはその人が置かれている歴史的状況的「前解釈」から逃れられず、それを受け入れ拡大していくことが重要であるということ。

後継者たちはこのハイデガーの解釈学を、テクストの解釈に接ぎ木した。そこではデュルタイの方法論としての解釈学を超えることになる。後継者第一はルドルフ・ブルトマンで、この人は神学の分野で有名で、聖書の解釈に上記ハイデガーの視点を使う。
(聖書を文学構造として扱う今日の聖書解釈学の立場からは批判されているらしい(ウィキペディアから))

 「解釈学の問題」の中心にあるこの実存の可能性は、理解の二つの極において現れ、それは今や対話の問題となるのである。まず私は常に私の実存から発して理解し、そして同時に私が理解することとはまた、テクストによって開示される実存の一つの可能性でもあるからである。ブルトマンの思想の影響を強く受けたポール・リクールは後に言うであろう。理解は、作品が私に開きかつ私に住まうことを許す世界に及ぶ、と。
(p58)
  前理解の修正は常に可能であって、解釈作業において生じるのはこの修正なのである。
(p59)


ハイデガーからデュルタイ側に接ぎ木するにあたり、実存から逃れられないとするハイデガーからやや客観性を取り戻す概念がこの「修正」なのだが…どうやって可能なのだろうか。ブルトマンの「参加的な理解」概念は、「適用としての理解」(ガダマー)や「世界の開きとしての理解」(リクール)につながっていく。
(2019  03/31)

ガダマーとハーバーマス

  したがってゲームは、ガダマーにとって純粋に主観的なものでは決してない。まったく逆に、ゲームするものはむしろ「彼を超える」現実の中に運び込まれる。あるゲームに参加するものはそのゲームの自律性に順応する。
(p65)
  この過去と現在との絶えざる媒介は「諸々の地平の融合」というガダマー思想の根本にある。過去を理解するとは、過去の地平へと自己を置換えるために、現在の地平およびその先入観から外に出ることではない。それはむしろ現在の言語で過去を翻訳することであって、そこにおいて過去の地平と現在のそれとが融合するのである。そのとき融合はみごとに成功して、過去に属するものも現在に属するものももはや識別できなくなるのであって、そこに「融合」という考えは由来する。けれどもこの現在と過去との融合はまた、より根本的に解釈者と彼が理解するものとのそれでもある。
  客体に属するものと理解する主体に属するものとをもはやほとんど区別し得ない。
(p74)
  対話から始めて理解される言語活動は、理解することの可能なすべてのものへと、また我々のそれを拡大することになる別の言語活動の地平へと開かれ得るのである。
(p77)
  (言語活動は)存在と理解とがその中に浸っている普遍的な要因なのである。
(p80)


言語活動は物理学でいうところの光のようなもの。

  言語活動にはむしろそれ自身を超える能力が付与されている。
(p85-86)


ハーバーマスは、人文科学分野でガダマーが先入観の必要不可欠性・言語活動の開放性を説いたように、社会科学分野でそれを行う。後のハーバーマスによるガダマー批判では、ガダマーは文化を伝統にまつりあげて社会の臨床医(誤った先入観を取り除くこと)たり得ないとする。しかしこの本の著者グロンダンは、ガダマーはそうしたイデオロギー批判レベルを超えて伝統を反省し練り上げることを含んでいるとし、後年のハーバーマスの思想はそちらに向かっていると論じている。
ちらっと思ったけど、言語活動の開放性・翻訳性というのは、ひょっとしたら「ソラリス」の壁をも乗り越える力があるのかな、それともないのか。

リクールの道のり

上に引き続き、夜はリクールの章を。ガダマーが解釈学のために現象学を援用したとすれば、逆にリクールは現象学のために解釈学を援用した。前章で見た、ガダマーとハーバーマスの論争は、リクールに言わせるとどちらの視点も内在させないといけないもの。

  つまり自己は語りの形象の仲介によってしかその根源的で超え難い時間経験に意味を与えることはできないのである。「砕かれた」-かつそのことを知っているー「自己」はそのとき、自分の謙虚な、けれども自分固有の世界を象り直す現実的な「能力」に気づくことができる。
(p107)
  内観哲学の問題「私とは誰なのか」は、倫理学的であるに劣らず解釈学的な「私に何ができるのか」という問題に席を譲ることになる。
(p109-110)
  私は話すことができる、私は行為することができる、私は物語ることができる、私は私自身を私の行為に責任ある者として、その真の行為者としてその責を負わされることができる
(p111)


言語行為の哲学、行為の哲学、物語の理論、道徳哲学…この書き順、道のりはそのままリクールの哲学の道のりなのかな。こうしてリクールは遠ざけていたハイデガーの存在論にたどり着く。ハイデガーにとって存在論がその出発点なら、リクールにとって存在論とはその到達点であった、と。
著者ジョン・グロンダンは同じクセジュに「ポール・リクール」もあって、一番の専門はそこかな((杉村靖彦訳)、そこにグロンダンの経歴や業績が詳しい)。他にやはりクセジュに「宗教哲学」も。
(2020  01/26)

ガダマーとデリダ、そして後継者

「解釈学」を約1年ぶりに読み出して、やっと今日読み終えた。150ページなのにね。
ここではガダマーとデリダの討論についての章から。

  私が他人を理解するとき、私は彼を理解しているのか、と。
(p125)


彼について理解していたと思っていたところが、実は他人一般についての理解を押し付けているだけなのではないかと。

  理解は真に他人に合流するのであろうか。それは否が応でも、諸々の記号の下に埋もれて、決して言われるには至り得ないものを遮蔽する様々の体系や構造や記号によって囚われたままであり続けるのではないだろうか。
(p126)


(この次の節最後の一文が何を言ってるのかわからないのだが…)

  世界は去り往きたり。君を抱えてゆくは今や我が務め
(ツェランの詩句から)
  そこで生残った者は自己のうちで亡き友の声を語らせなければならない
(p130)


次の章の後継者のローティとヴァッティモ。前者はプラグマティズムと、後者は虚無主義と、それぞれ解釈学とを接木する。ローティは英語圏に解釈学を伝えた功績者ともなっている。後者の場合、ガダマーの理論を行き進めるとこうなる、とヴァッティモは言っているがどうか。

最終章

  この意味は常に、事物それ自体の、それが言うところを欲しているところの意味であり、無論我々の諸々の貧弱な解釈および限られた地平を超える意味である。とはいえ有難いことに、その地平は我々の言語活動によって拡大し得るのである。
(p150)


著者グロンダン自身の解釈学のビジョンなのだろうけど、こう見ると、前にリクールのクセジュがあるからリクール寄りなのかと書いたけど、ガダマーにより近いのかな。まあ、そんな単純な図式化はよくないけど。
(2020  01/30)

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