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「ブルックリン」 コルム・トビーン

栩木伸明 訳  白水社エクスリブリス


映画化もされているという。
アイルランドの片田舎エニスコーシーに母と姉(父親はそこにいるのか今のところわからず)と住む娘が、町の(高級)食料品で働き出す、ところから物語開始。やがてタイトルにあるようにブルックリンに移住するみたいだけど。
(2019  11/26)

二度と戻ることのない、場所

今のところ(昨日まで)、アイリーシュがアメリカ渡る直前のところまで。p37のアイリーシュの思考の流れは細かくて読みどころの一つ。

 そして、この部屋、姉、それからこの光景全部を額縁に入れて覚えておかなくてはいけない、と考えはじめている自分に気づいた。
(p37)

考えているのに、最初は気づいていない、というこの一見矛盾しているような状態。その次の段落のアイリーシュの食卓を盛り上げようとする考えと、母や姉のその受け止め方がずれていることに気づいたアイリーシュの思考を追う読者もまた、一つの脆い壁みたいなのが崩れていくような、そんな印象。


 アイリーシュは、こうした物思いが次から次ヘと来ては去るのに身を任せてはいたものの、心が本物の不安や恐怖のほうへ雪崩れていきそうになると踏ん張った。この世界とさよならしなくてはならない、とか、なじんだこの場所で普通の一日を過ごすことは二度とない、とか、これからの人生は不慣れなものと戦い続けていくしかないとかいう思いに向かって雪崩れていく心を、なんとかして食い止めようとしたのだ。
(p45)

こういう食い止めようとする人間心理の発現は実は誰にでもあって、それへの対処法が人それぞれ違っている、というようにも考えられる。自分の場合は何かに過剰に自分を移入するのを避ける、とか、立ち止まらずに次々いろいろな場所、物を見ていくようにして窒息感を避ける、とか。英米系の小説家はこうした描写がオースティン以来細かくて巧みな印象があるが、トビーンもその系列に連なるものなのだろう。
(2019 12/06)


第一部読み終わり。最後はニューヨークへの船から降りる直前に、相客ジョージーナがアイリーシュに化粧をするところ。

 こんなふうに化粧できるなら、知らないひとたちー一度は会うけど二度は会わないだろうひとたちーがいる中へ出かけていくのもずっと楽になりそうだ。でも、おしゃれが緊張を解いてくれるのは確かだけれど、別の種類の緊張をかきたてることもあるんじゃないかな。だってこんなふうに毎日盛装してブルックリンの町を歩いたら、本当とは違うわたしをわたしだと思われてしまうかも知れないからーアイリーシュはそんなことを考えていた。
(p71ー72)

本当のわたし・・・って本当にいるの?

ま、それはともかく、ここの文章、これ以降の物語の展開にも関わってきそうな感じ。事あるたびに参照しにいくような。
(2019 12/15)

第二部開始

 他方、勤務を終えて帰宅し、夕食を食べてベットに入り、一日のできごとを場面ごとに総ざらえしてみると、今日こそ人生で一番長い日だったのではないかと思えてくる。いろんなできごとの細部がことごとく心に住みついている。無理矢理他のことを考えようとしたり、心を白紙に保とうとしても、その日あったことが勝手に心に溢れてくる。一日分のできごとをじゅうぶん反芻した後完全にしまい込んでしまうためには、もう一日たっぷりかかる、と彼女は思う。下手をすると夜一睡もできなかったり、夢の中で昼間の一瞬がさっとよぎったり、いろんな色や人混みが洪水になった意味のわからない一瞬がよぎったりする。そんなときは、何もかもがすごい速さで狂奔していくのだった。
(p81ー82)

結構長めの引用。

移民船、ブルックリンの下宿と同居人、人混みの交差点と一呼吸置いて歩き出すアイリーシュ…と細かな世相を描き出すところがこの作品の読みどころ、かつ歴史把握にも役立つ。

(2019  12/19)

第2部はアイルランド移民の溜まり場の教会での、炊き出しと老歌手の歌。クリスマスにちょうど重なって。

第3部はアイリーシュの部屋の引っ越しから始まる。半地下のこのアパート内では一番よい部屋へ。提案したのは家主のミセス・キーホーからだった。

 ミセス・キーホーは突っ立ったままアイリーシュを見つめていた。自慢げなその目にはやさしさと悲しみも湛えられていた。アイリーシュはふと、この部屋のしつらえはミセス・キーホーの旦那さんがいなくなる前に整えられたに違いないと思った。
(p133)

不意に挿入されるアイリーシュの推理。どうしてそんなことを思えるのかが不思議なまま読み進めると、次のページには「世の中への根深い恨み」とか「その怨念を元あったところへ注意深くしまい直そうとしている気配」と、アイリーシュがミセス・キーホーに読み取ったのは、過去の何かに辿ると出てくるような。

でも、なんか引っ越しの話はまた別の理由があるみたいで…
(2019  12/26)


移民世相様々集積小説


 アイリーシュは、老人が彼女に帰ってもらいたがっているのを感じた。彼女にはもはや、閉じてしまった老人の心を開くことはできなかった。
(p163)

ホロコーストを初めて知ったアイリーシュと、それを伝える書店の老主人。1950年代の設定だから、それから10年くらいしか経っていないわけで…


 次の週、バルトリッチ百貨店からブルックリン・カレッジへ向かう道を歩いていたとき、アイリーシュは、いつも楽しみにしていたことを忘れている自分に気がついた。彼女は、故郷のさまざまなイメージをとりとめもなく思い浮かべるのが大好きだった。ところが今心に浮かぶのは、先週出会った男に迎えにきてもらい、ホールへ行ってダンスを楽しみ、帰りは家まで送ってもらうという、金曜の夜のイメージばかりである。彼女はどうやら、故郷への思いを心から閉め出すようになってしまっているらしい。近頃では、故郷のイメージが心に湧き出すのは、手紙を書いたり受け取ったりするときと、故郷の夢を見た後目覚めたときぐらいのものだ。さすがに夢の中には、父親や母親やローズや、フライアリー通りの家の部屋べやや、故郷の町のいろんな通りがあらわれた。
(p178ーp179)


 アイリーシュは次に書く手紙ではローズに教えてやろうと思い定めたートニーはそういう人間ではありません。エニスコーシーと違って、ブルックリンでは人間の品性や気質を職業では測れないのです、と。
(p190)

この小説、移民を中心とした世相を知る手がかりとしてもなかなか面白いのだが、今日のところでは、アイリーシュがトニーの家に食事に呼ばれるところ。
アイルランドとイタリアというどちらも移民の代表格みたいな民族の微妙な違い。
アイリーシュはパスタをフォークだけで食べられるよう前もって下宿で練習している…ということはイタリアではそうなのか…なんだ、自分はイタリア流であったのか。
一方、トニー兄弟(父母の代からブルックリンに移住してきたイタリア系)の末っ子フランクは、いきなり「僕たちアイルランド人嫌いなんだよ」と叫んで家族を困惑させる。なんでも兄(トニーの弟)モーリーがアイルランド人達に殴られたというのがその理由なのだけど、「赤毛で足が太いヤツらばかりだったよ」と民族ステレオタイプそのものの発言のフランクに対し、当のモーリーは「でも、皆赤毛で足が太いわけでもなかったろう?」と反論する…否定するのは、そっちかよ(笑)(2019  12/29)

季節と海

「ブルックリン」今読み終えた。昨日読んだところでローズが突然死し(本人は既に自分の運命を知っていて、だからその前に妹を送り出させたかったようだ)、一旦アイルランドに戻る。その時にトニーはアイリーシュに「行く前に結婚してくれ」と頼む。

第4部では、アイルランドの田舎町に戻ったアイリーシュがだんだんブルックリンやトニーのことを夢だと思っていく中で、母親とジム(第1部ではあまり好かれていなかったけれど、ここでは慎重に自制した好青年として描かれている)辺りでの様々に絡み合った策略?
で、トニーを忘れジムと一緒になりそうになる。が、この小説冒頭に出てきた食料品店のミス・ケリーが実はミセス・キーホーと親戚でトニーとの結婚を知らせてきたということを知らされ、急いでニューヨークへ戻る。
帰りに寄ったジムの家にそのことをメモした紙を挟んで…それを知ったジムとアイリーシュの母親との対話を想像するアイリーシュ…

 そんなことを考えながらアイリーシュは、自分の顔に微笑みに似たものが浮かぶのを感じた。彼女は目を閉じて、それ以上想像が広がらないようにした。
(p335)

この文章で作品全体が閉じられるわけだが、微笑みに似たものとはなんだろう。今までのいろんな心理描写では描写の巧みさ繊細さには感心したものの、そういう心理状態そのものには素直にうなずけるものが多かった。でもここは…ひょっとしたら、ここの主語はアイリーシュではなくて作者トビーンなのでは?もしくはアイリーシュが自分の物語を少し距離を置いて物語作者がするように感じることができた、ということかも。

ちょっと前に戻ってもう一文。ローズの墓参りに来た場面。

 死んでしまったひとびとが町はずれのこの場所に集まっている。ここにいるひとびとのことを生きている人間たちが覚えているのは、ほんのしばらくの間に過ぎない。季節がひとつ、またひとつと移っていくにつれて、記憶はしだいに薄れていくのだ。
(p323)

春が来て、夏が来て、秋が過ぎ、冬になる。こうした回帰していく季節をアイリーシュが思い浮かべるところが前にもあった。この小説の隠れ主題は時間とか季節では。あ、そうそうあと主題といえばニューヨーク、アイルランド双方に出てくる海の描写も。

映画と小説とでは結末を変えてある、とのこと。では映画の方はブルックリンには帰らず、アイルランドでジムと結婚するのかな。それとも…
(2019  12/31)


作者トビーンについて補足ほか

海の描写の例。第4部から。

 小道の行き止まりまでたどりついて崖っぷちから下の海を見渡すと、とても穏やかでほとんど波が立っていない。水際に近い浜の砂は黒ずんだ黄色に見える。海鳥の群れが列をなして海のすぐ上を飛んでいく。海面にうねりはなく、低い寄せ波がほとんど音もなく砂浜に砕けている。水平線と空の境目あたりにぼんやりした靄がかかっているが、青い空には雲ひとつない。
(p296)

この小説の大きな構造ーアイルランドの田舎町エニスコーシーとニューヨークブルックリンとの、合わせ鏡的な対照構造ーによって、このアイルランドの海の描写も第3部のコニーアイランドの浜辺と向き合っている。そしてジムに婚約してほしいと告白されたこともトニーとの対比。作者は簡潔な対比構造で作品を極端に言えば戯画化しているようにも思えるのだが。

アイリーシュのその後でも空想してみようか。そうね、アイリーシュがトニーと一緒になって、それからずっと仲睦まじく暮らしましたとさ…とはやっぱりならないでしょうね。いろんな人に出会って、修羅場もいくつか。今回だって、結果的にみれば、ミス・ケリーに指摘されなければ事態は泥沼化してたことだろうし(アイリーシュはミス・ケリーに感謝しなければね)。でも、ジム含めた4人の写真を捨てずに荷物に入れてるところをみると、まあ、また(以下略)。

でも、そういうなんか流されてながらも、その時その時を観察し楽しみながら健気?に生きてくアイリーシュを、作者もおそらく読者も非難はしないでしょう。そしてアイリーシュ自身も。
なんだか、アイリーシュの歳重ねておばあさんになったところを想像してみると、最初は口固いけど、誰かに聞かせる為にゆっくりしかしとめどなく、ひとつひとつ想い出をかみしめながら語っている姿が浮かんでくる。もしかしたら、こういう時のために、ジムとの写真を捨てていかなかったのでは。

で、ようやくトビーンについて。ここまで来てなんとなくわかるけど、彼はやはりこのエニスコーシー生まれ。他の作品でもこの町を登場させている。
英文学やアメリカ現代詩をおさめたあと、バルセロナで英語教師をしてたり、アルゼンチンでジャーナリストしてたり。その所縁か、小説第1作はスペインが舞台。和訳のある第2作「ヒース燃ゆ」(伊藤範子訳、松籟社)はダブリン高裁判事が退職を控えて人生を振り返る作品、第3作はブエノスアイレスの同性愛者社会、第4作はエイズにかかった若者のエニスコーシー帰郷の物語、第5作がヘンリー・ジェイムズの晩年を描いたものでいろいろな賞をもらった出世作。で、第6作がこの「ブルックリン」。

ここまで見てわかる通り、トビーン自身同性愛者。ノンフィクションものの著作も多く同性愛者芸術論なんてのもあるけど、個人的に興味をひくのが南北アイルランド国境徒歩紀行というもの。
(2020  01/01)

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