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「短編ミステリの二百年1」 モーム、フォークナー 他

小森収 編  深町眞理子 他 訳  創元推理文庫  東京創元社

霧の中 リチャード・ハーディング・デイヴィス
クリームタルトを持った若者の話 R・L・スティーヴンソン
セルノグラツの狼 サキ
四角い卵 サキ
スウィンドラー氏のとんぼ返り アンブローズ・ビアス
創作衝動 サマセット・モーム
アザニア島事件 イーヴリン・ウォー
エミリーへの薔薇 ウィリアム・フォークナー
さらばニューヨーク コーネル・ウールリッチ
笑顔がいっぱい リング・ラードナー
ブッチの子守歌 デイモン・ラニアン
ナツメグの味 ジョン・コリア
短編ミステリの二百年
序章『世界推理短編傑作集』の影の内閣
第一章 雑誌の時代に
訳者紹介
索引

セルノグラツの狼


木曜買った「短編ミステリの二百年1」から短めのサキ「セルノグラツの狼」を昨日読んだ。ミステリは要素的には好きなんだけど、ジャンル的には疎いのでマズいなあと思っていたところ。この短編自身はミステリというより幻想小品といったところ。「ミステリの背景としては完璧、これ使ってあなたの作品書き上げてみません?」って売れ込みそう(笑)
(2020 05/17)

霧の中


リチャード・ハーディング・デイヴィスの「霧の中」を昨日・今日で読んだ。80ページちょっとの作品。
この話は確かにミステリ。でも(ネタバレになるけど)デカメロンとか百物語とかのような奇譚披露の創作話。しかもそれには別の狙いがあって…という趣向のもの。

2つの疑問
1、第2のダイヤモンドネックレスの盗難の話って必要だったのか?
2、第1の話者の短編作家は、この場にチェトニー伯がいると知っててこの話をしたのか、それとも知らなかったのか。前者の場合は第1の話者がより巧者に、後者の場合は第3の話者(これが話の中では殺されたことになっているチェトニー伯)がより巧者。
まあ、こういう含みをじっくり読後も考える余白があるミステリが優れた作品と言えるのだろう。前に読んだ光文社古典新訳文庫などのモーム作品等のように。
(2020 05/21)

クリームタルト、四角い卵、とんぼ返り…


あんまりミステリという気がしない並びだけど…
昨夜寝がけに「クリームタルトを持った若者の話」、今日「四角い卵」「スィンドラー氏のとんぼ返り」読んだ。160ページくらいまで経過。
「クリームタルト…」はスティーヴンソン、「新アラビア夜話」の「自殺クラブ」連作の冒頭の話。この表題の並びもなんか異様だけど、自殺クラブなるものの会長と、ボヘミア王国皇太子とその供の大佐との対決というのが大枠の話。スティーヴンソンとしては初期の小説。ミステリというより冒険活劇だけど、この文庫シリーズの狙いは通常ミステリっぽくない「奇妙な味」(江戸川乱歩の言葉)の作品なのでこれで納得。自分としては一番面白い場面は皇太子と大佐が自殺クラブに入会する対話なのだけど。あと、皇太子と自殺クラブ会長というのは、ひょっとしたら「ジキル博士とハイド氏」の原案なのかも、とも思った。
次の今日の二編はますますミステリっぽくない。ミステリというより落語?「四角い卵」はなんかのマクラみたいだし、「とんぼ返り…」は「堀ノ内」に出てきそうな…
(2020 05/22)

ロビンソンの系譜

 まったく罪のないように見える人間が、人生の秘密を抱えていると考えるのは愉快なものだ
(p215)


サマセット・モーム「創作衝動」。英文学の孤高な作家で知的サロンを開く妻と、その横に大人しくいる夫。一応夫を立ててます、ということにはしてるけど…てな展開で、この夫に何かあるとは匂わせておいて。さて、どんな展開に。
この夫が料理女と駆け落ち?しかも住所入りの手紙つけて…サロンの人々に勧められてその家に夫人が行ってみれば、この二人、推理小説を何百冊(以上)読んで貸しあう仲間だった。おまけに推理小説書くように勧められて…というところで夫の言葉として出てきたのが冒頭の引用文。こういう「それお前のことだろ、ヌケヌケとまあ…」みたいなのはツボだよね、まさに。

こういう仕掛けというか人物配置というかは、以前読んだ「事件の核心」のロビンソンとか、英文学好みだよね…料理女は当然として、この夫の方も料理や家事が得意というのも作品の味付けのポイントの一つ。
「推理小説のアドバイスならしてあげるよ」とこれまたヌケヌケと言う夫の言葉に、妻は従ったのだろうか?まあ、元々腕はある作家だけに、それはないだろう、とまあ思うけど(最後のページの「アルバート?忘れてた」という言葉はそれを裏づけしそうだけど、果たして?)、時々深夜なんかに訪れて、インスピレーションを得ていた…なんて展開も想像するだけで楽しい…「推理小説の書き方」なんて別の作品の枠物語にもなる…
いずれにせよ、孤高で売れなかった作家が、この推理小説で読者、批評家の双方から支持されたというんだから、まあいいんじゃない?
(ロビンソンはいいけど、「ジェイムズ傑作選」の芸術家ものとかは共通点ある?ような気も…)
(2020 06/01)

ウォーとミステリ


今日はウォー「アザニア島事件」。「黒いいたずら」の後日談というか副産物というか…
これは(というか前のモームの作品もそういう視点あるから「これも」というべきか)ミステリを書くことについての視点。ここに出てきたプルネラという女性についての情報を限定し読者に方向づけるという手法も前のモームに共通。ミステリらしいと言えばそうか。ウォーはとあるインタビューで「クリスティのようなミステリを書いてみたい」と言ったこともありここはかなり意識的な書き方。

結局、このプルネラの誘拐事件なるものがある種のでっち上げで、変な暗号だとして解読したり、ジャーナリストが来て「感動的な」記事を「前もって」書いたり、とかミステリを仕立て上げる世間のなんとやらとか。
そんな記事を書いているところから。

 しばらくのあいだ、彼はプルネラが裸にされていたことにするか迷った。
(p241)


ウォーの批判精神と、SFやミステリのような分野とのちょっとしたミスマッチについて解説にはある。が、近年出版されたウォーの短編集で、解説者(今更だけど、この文庫の約半分がミステリ史・論と言える解説)はそのミスマッチが晴れたように思えたという。
(2020 06/02)

ちなみに「黒いいたずら」についてはこちら


薔薇とニューヨーク


フォークナー「エミリーへの薔薇」。フォークナーの中でも一番有名な代表作だけにじっくり読ませる。こんな文章、いかにもフォークナーらしい皮肉な味。

 生前からすでに、ミス・エミリーは一つの伝統であり、一つの義務、一つの厄介物であった。
(p252)


訳者深町氏は語りの主語が「we」という作品を訳したのは初めてでという。語り手の中の重層性がその「we」を支えている。

この文庫の収録作後半は、今までの著名文学者と違い、直球でミステリを書いていると思われる人の作品。その中のトップ、コーネル・ウールリッチの「さらばニューヨーク」は自殺未遂、殺人事件、逃亡劇…と直球の中の直球ど真ん中。

 まるで雪の吹きだまりを歩いているみたいに、足跡がはっきり残ってしまってる-
(p300)

 戻ることはもはやできず、同じところにとどまることは許されず、前に進めば自らの手で破滅をつかみとりにいくことになる。
(p317)


時にこうした文章が、殺人を犯して逃げる夫とともに行く妻という特殊事項を超えて、一般の人生認識に張り付く。
(2020 06/03)

「ナツメグの味」他2編


木曜日(06/04)に「笑顔がいっぱい」、昨日「ブッチの子守歌」、「ナツメグの味」と読んで、とりあえず短編集部分は読み終わり。全体の2/5か3/7かの分量を持つ解説部分も残すは序章の8-9、第1章の1と4。

戦間期アメリカのミステリというかクライムサスペンスというかの部分の4編(ってもフォークナー「エミリーへの薔薇」も同時期なのね)。

交通警官と若い娘のちょっとした交流と行き違いを描く「笑顔がいっぱい」、子守の金庫破りというスプラスティックコメディのような「ブッチの子守歌」と続いて(この二人、ラードナーとラニアンの作品集を共に加島祥造が短編集を訳し、若島正の「英米短篇講義」ではラードナーが取り上げられている)、それ以前のじっくり読ませる文芸から変化した様を見られる。この4編の中で一番面白かったのが「ナツメグの味」。ジョン・コリアという作家、元々はイギリスの作家。

なんかの研究所に勤務する語り手と友人の前に、リードというなんか神経質そうな男が現れる。好感を持った二人はリードに話しかけ、リードの側でも嬉しそうな印象を示す。が、語り手の友人の友人であるジャーナリストから「リードは未解決殺人事件の被疑者だったけど、動機が不明のため無罪となった」と聞かされる。語り手達がそれを知ったということを感じ取ったリードは語り手達を自宅に招待し、その事件のことについて語り始めるという話。

リードとその被害者の男はともにジョージア州出身で、仲良くなって被害者の家によく行っていたという。その日、仮眠して起きてみて下の階に行くとと死体があった。その家には彼ら二人しかいなかったけど、仲のいい友達を殺すわけがない…と話は終わり、語り手達はそうだそうだと納得し、リードがご馳走するというジョージア州の酒で乾杯する。

このお酒にはナツメグを入れるのがホンモノ、メースを入れるインチキがよくあって、とリードは語り出し、よほどこのお酒にこだわりがある…あるどころか、それはこだわりという域を超えて分別が無くなり…
という、ナツメグの味は微妙な味を生み出すのだが(実際にはそんなに変わらないという)、この終わり方が語り手達も悟ったのかどうかわからないまま、作者が読者に目配せして終わるという巧みな味。コリアはいろいろな作風の作品を書いているが、この目配せ技法もよく採られたものの一つ。終わり方も勿論ながら、こういう作品はそれまでの伏線もまた楽しみの一つ(これは「笑顔がいっぱい」でも楽しい)。

 普段はドライで控えめだが、ひと晩に一、二度目の覚めるような鋭いコメントを吐いて、内に火山のマグマのような激しいものを秘めていることを匂わせる-こういうタイプにわたしははなはだ弱いのだ。
(p365)


ここはまだ序盤の、リードに二人が好感を持ち始めるところ。ここからの伏線の張り方はなんか書くんだったら研究のしがいがありそう。あと、今引用していて思ったのだが、この語り手という人物自体はどんなヤツ(或いはどんな効果、機能)なんだろう。語り手の問題というと前の「ブッチの子守歌」やモームの「創作衝動」でも考えてみたい。というわけで、こういう作品はいろいろ考えられるので自分は好み。

そのついでに最後に、この終わり方の後どうなったのか。一二秒時間が止まって、そこから何気なく祝杯を再開した…ってのもいいんだけど、この二人が被害にあったというのも選択肢としていいんではないか、その場合、語り手はどうやって語っているのか。それも「死人の語り」として一つのテーマ(極論に近い読みだということは承知だけどね)。
(2020 06/07)

犯罪の成り立ち


残りを今日読み終え。
ウールリッチの解説のとこから一ヶ所引いて終わりにしよう。

 こうしたディテイルが順に積み重なっていくことで、人は初めて犯罪に走りうる。そのとき、人は正常でも異常でもありうる。常習者でも非常習者でもありうる。
(p504)


ウールリッチの他の作品では、だいたいにおいて犯罪者はなんらかの精神的傾向から何かの常習犯となっている。それに対し、この文庫に掲載された「さらばニューヨーク」の冒頭では貧困だけれど通常の夫婦が些細な事柄の連続により殺人・逃亡へと向かうさまが描かれている。だから解説編者小森氏はこの短編を推すのだ、と。
(2020 06/08)

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