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「スピノザの世界 神あるいは自然」 上野修

講談社現代新書

神を作り出す人間の本性

 衝動はなまの形で意識にのぼることは決してなく、いつも目的を伴った欲望に加工された欲望に加工されて経験される。
(p35)


衝動とはなんだか生物が(非生物もあるけど)持つエネルギーの対流みたいなもの。

 人間はどのみち「自分の本性よりもはるかに力強いある人間本性」を考えないではいられず、そういう「完全性」へと自らを導く手段を求めるように駆り立てられる。
(p36〜37)


次の章では、真実というものは、なんらかの方法があってそれに導かれて発見されるわけではなく、最初にもう明らかだと思われる真実があって、そこから方法が「自生」するのだ、とあった。
(2014 10/02)

スピノザとニーチェ

 神はつくらない。事物に様態化し、変状するのだ。
(p97)


「スピノザの世界」より。大学生の頃からお世話になっている小阪修平氏の「イラスト西洋哲学史」に出ていた吹き出しがつながったイラストはこれをイメージしていたみたい。さすがに難しかったけど、神あるいは自然、と考えるとまあそうなのかなという気にもなる。

 事物は現に産出されているのと異なったいかなる他の仕方、いかなる他の秩序でも神から産出されることができなかった。
(p102)


…らしい。これは「エチカ」の定理33。

さて、「努力」(コナトゥス)自己保存が事物の本質だとスピノザはしたのだが、これを評価しつつ変形したのがニーチェ。彼は力の放出こそが本質だと考えた。これが「力への意志」ということになるのか。

比較としてニーチェ「善悪の彼岸」から。
第17断片ではフロイトの「エス」の元ネタ?も出てくるし、第20断片では言語が思考を決める?というサピア=ウォーフ仮説のようなことも書いている。現代心理学等を経た今から見ると、意外に?ニーチェってまっとうなこと言ってるなあ、という印象。

 わたしたちがつねに命令する者であると同時に服従する者であること…(中略)…わたしたちは、この二重性を「われ」という総合的な概念で片づけ、ごまかす習慣がある
(p55ー56)
ニーチェ「善悪の彼岸」中山元 訳  光文社古典新訳文庫


ニーチェから「現代」が始まると言えるのかもなあ。
(2014 10/12)

エチカはなぜ「倫理学」なのか


今日は「スピノザの世界 神あるいは自然」の後半を一気読みした。
そこから主に「人間」の章を。

 われわれの位置にいる神の思考は前提が欠落して残った結論だけを見ている。「???だからこうなんだ」みたいに伏せ字だらけのテキストを見ているようなものだ。これは神の中にどうやってローカルな主観性が出てくるのかの説明になっている。
(p126)


スピノザの哲学はバリバリの演繹法なので、その世界に入るのは大変だけど、その前提を認めてしまえば至福の体験が得られる。神は唯一かつ全体で原因ー結果の連結が束に(時に交差しながら)なったようなもの、らしい。
そうしたものの一部がどうしたものか人間となり、他の一部が例えば猫に、家に、台風になったりする。そうした神の一部でありつつ全体を知らない人間の認識論。「目をあけて夢を見ている」ともされる。

こうした中でどうやって客観的な知識を得るのだろうか。全ての?事象に共通するものは自然科学のように体系化できるし、そうでなくても日常の事物との毎回の接触により(例えば椅子に毎日座ることによりそこに座るための椅子があるという認識を得る)「共通概念」が得られる。

「倫理」では物事は全て必然に起こるのだから、それをあるがままに「自由意志の否定」を認めて生きることが安らぎを得るために必要であるという。それは「何々すべし」という命令系ではなく、自分も他人も事物も神の一部であり必然であるということを(この本を読むことにより)認めて行くことから自ずとできること。だからこの本は「倫理学」となっているのだ。

 再び共通概念を思い出そう。あらゆる事物にはわれわれと必ず共通なところがある。一致するところがゼロ、カップリングの可能性がゼロという想定自体が不自然なのである。ならば二人の知恵を合わせて事物を研究するがよい。
(p154)


この後に続く「国家論」のところは(わりと流して読んでしまったけど)「デカルト、ホッブズ。スピノザ」の「残りの者」とも合わせてじっくり取り組んでみたい微妙なところ。次の「永遠」では「永遠」な私は超越したところにいるのではなく「今ここ」にいること自体が永遠を具体化しているのだという認識。
(2014 10/13)

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