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「フォークナー アメリカ文学、現代の神話」 大橋健三郎
中公新書 中央公論新社
(電子書籍版なので、引用箇所はここでは位置数字)
フォークナーの曽祖父から書き始めて、サートリス家やコンプソン家などの曽祖父、祖父は実業家としても生きる力があったのに、父の代はアルコール依存症などで家風は衰退していく。初期のフォークナー作品ではそれを反映してか、父の代の印象が薄いのだけれど、「響きと怒り」のミスター・コンプソンからはアンビバレンツなこの世代の複雑さを伺わせる人物の含みになっている。
その他、小説家になる前のフォークナーの(もともとは本業にしたかった)画家としての絵は、なんだかロートレックとかの路線で、フォークナー=アメリカ南部だと思っていると不意打ちを食らう。また自作の詩などをミニ雑誌方式にまとめた詩集をお目当の女の子に送ったという逸話もある。
第3作目「サートリス」(もともとフォークナーが付けていた原題は全く違うもの)。ここでヨクナパトーファ郡が(明示されているわけではないのだけど)
確かに年代記的な志向はあるのだが、それは年代順に、したがって因果律的に展開してゆくのではなく、むしろ年代順、因果律を解体されて、いわば現在の時間と併列され、現在にかかわるものとして語られるのだ。
(1055)
(2018 03/13)
とりあえず読了。
(2018 03/20)
「フォークナー アメリカ文学、現代の神話」の読了後のまとめ?
引用(というかマーカー付け)したところを。
どこかマーク・トウェーンの『ハックルベリー・フィン』を思わせる粗野な民衆的口語体で(フォークナーの母モードは、この独白を読んだとき自分の夫とそっくりのしゃべり方だと言ったという)、彼の現実感覚を強調する効果をもっている。
(1270)
「響きと怒り」(タイトルはマクベスから)の第3部ジェーソンの語り口について。
「人生は歩く影、…白痴の語るお話だ、響きと怒りに満ちているものの、何の意味もない」
(1320)
その「マクベス」第5部第5場より。
水はゆるやかに平坦地を流れる
(1387)
これはヨクナパトーファという言葉の意味。
そして田野の逃亡のうちに「大地」のもつ「平和とゆったりした心と静けさ」を感じとり、これこそ自分の求めていたものだと思うが、次の瞬間には今まで走りつづけたあの「舗装された街路」上にあり、やはりこの「街路」の「円」の外に出ることはついになかったと思い知る。
(1662)
「八月の光」のジョー・クリスマスから。
「何か激しい一瞬の推移の中から、完全に成長し、取り返しのつかぬほど成熟して飛び出してきた」「得体の知れぬ蝙蝠族の仲間」ー言い換えれば先の飛行機と見あういわば無の深淵から生れ出てきた人間なのだ。
(1812)
「標識塔」から。フォークナー自身も空軍経験をしたー飛行士の墜落事故を取材した作品。それを外側から見る「死者の世界から立ちあらわれたかのように」語られる新聞記者の描写から。
このあたりは、かの「計画」を実現して再び時に裏切られたサトペンが、みずから死を求めた感があり(大鎌は時計と共に「時の神」の持物である)
(1979)
「アブサロム」から。サトペンがウォッシュに殺されるところ。
それでもやっぱり自分は書くことができる、「抹殺の顔」を引っ掻いて「解読し得る傷跡」を何か残すことはまだ可能だ
(2216)
第二次世界大戦突入の頃のフォークナーの手紙より。
いわば遥か以前の『サートリス』や『サンクチュアリ』に登場したホレス・ベンボーの後身とも言うべき人物で…(中略)…彼は真実を大切にする真摯さを備えてはいるが、現実的な力を持たぬ南部知識人というイメージをもっている。
(2496)
「墓地への侵入者」のギャヴィン・スティーブンズから。この作品の中で彼は南部人の課題について「演説」めいたことを言うが、その一方限界も持っていることを読者にも示している、という。
最後。
平和主義は戦争と同じように害があると彼は言う
(2749)
「寓話」の解説から。彼はフォークナー自身なのだが…
??
(2018 03/25)