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「パタゴニア」 ブルース・チャトウィン

芹沢真理子 訳  河出文庫  河出書房新社


「カンポ・サント」ゼーバルトから


チャトウィン。付属の池澤夏樹のエッセイでも取り上げられ、繋げているゼーバルトとチャトウィン。ゼーバルトはチャトウィン(だいたい同世代)のどこに惹かれるのか。

 見つけた断片を、謎めいた、意味に満ちた、私たち生者が締めだしをくらっている世界を想起させるかたみへと変換した。チャトウィンの作家としての営みの、おそらくはこれが最深の層にあるものだろう。
(p161)


この章はチャトウィンを通した周辺読書のガイドにもなっている。フロベール「三つの物語」、ペレック「Wあるいは子供の頃の思い出」、バルザック「あら皮」、そしてチャトウィン自身の「ウッツ男爵」。
(2023 05/05)

ブエノスアイレスとロシア

 この街は私にロシアを思い起こさせた-アンテナを立てた秘密警察の車。埃っぽい公園で大股を広げてアイスクリームをなめている女たち。偉そうに突っ立っているどれも同じ彫像。パイの皮みたいな建物。似たりよったりの通りは完全に真っすぐではなく、街が果てしなく続いているような幻影を抱かせ、しかしどこにも通じてはいない。
(p14)


これからパタゴニアへと向かうのだから、「この街」とはブエノスアイレスのこと。だけど、ロシアの街とブエノスアイレスが似ているという意見は初耳…しばらく頭の中でこの二つを並べて考えてみたら、ベールイ「ペテルブルク」の父親の意識に近いのかなと思った。
続いては、南米で哺乳類そして人類が誕生し、そこから各地へ拡散していた…という説を唱えるアメギーノ氏のところから。作者が注釈付けている箇所。

 (このことは侵入があれば必ず逆侵入があることを示している)
(p18)


(2024 03/19)

キュビスムの手法

ダーウィンは「ビーグル号航海記」でパタゴニアの砂漠、イバラの薮の砂漠に心を強くとらわれてしまったことを書いている(チャトウィンは「あまり成功したとは言えない」と述べている)。その後ハドソンが渡り鳥の研究のためパタゴニアにやってきて、後に「パタゴニア流浪の日々」を書く。

 ハドソンは「パタゴニア流浪の日々」の全章を費して、ダーウィンの問いかけに答えた。彼は、砂漠をさまよう者は自身の中に原始の静けさ(純真な未開人なら知っていることだ)を発見し、それはひょっとしたら神の静けさに匹敵するものかもしれないと結論づけた。
(p32-33)


この後で展開する「アラウカニアおよびパタゴニア王国」?の話は本当だろうか。一フランス人が何故か知らないけどパタゴニアにやってきて、インカ帝国の時にも起こった伝説との混同などにより王を継承した…その後もいろいろな人が王位を主張している?とか。
続いてはウェールズ出身の移民の渓谷。ここでは、動くことすらできないジョーンズ夫人が、北ウェールズのパンゴアというところのチャトウィンの知り合い一家を知っていたり。はたまた、農家のナプキンに印刷された地図しかウェールズの地図を持っていないパウエル夫人に、故郷カーナーヴォンの位置を示したり。などなど。
解説池澤夏樹氏によると、チャトウィンはこの本を「あの土地のことをキュビスムの手法で書こうと思った」と言ったという。なるほど、絵画の真贋を見抜くサザビーズ美術部門に勤めていたこともあるから…チャトウィンとは「昇る螺旋」を意味するという。
(2024 03/20)

少しずつ読んでいるけどなかなか進まないこの本。今日でp124まで。
ここの主な話はグリンゴ(アメリカやイギリスの人々、だからチャトウィン自身もグリンゴなのだが、記述見てるとあたかも「自分はグリンゴではありません」と見せているような)、その中でもギャングの逃亡と警察(的要素)の追撃。
(2024 03/24)

よそ者であることを貫こうとする文学

なかなか乗らなかった「パタゴニア」だけど、百ページ越えて徐々に語り口がわかってきた。
今日読んだ最初のところ(第36章)は、博学の神父マヌエル・パラシオスの語る南米の古歴史。彼によるとアフリカのアウストラロピテクスよりずっと前、フエゴ島にヨシルという人類の祖先が住んでいた、という(この本のずいぶん前のところでそういう説を披露していた)。それに一角獣の話。ヨシルは20世紀前半に数回の発見記録がある。これはアウストラロピテクスより古い…というより先住インディオ(ユーラシア-北米を経て南米最南端パタゴニアへ)の一部が、他のインディオたちとも別れて独自に分化したのだろう。一角獣はこの後、チャトウィンが壁画を見に行く。

続いては、ウエメウレス渓谷へ歩いた時の記録。チャトウィンがその時書いたノートから引用している。

 一日じゅう歩いた。その次の日も。道路は真っすぐで、灰色で、埃っぽく、車は一台も通らない。風は情け容赦もなく、行く手を妨げる。ときおりトラックの音が聞こえてくる。はっきりとトラックだとわかる音。しかしそれは風の音である。あるいはギアチェンジの音。しかし、それもやはり風なのだ。
(p137)


人はなぜ歩くのか。チャトウィンは歩きながら考える。
2日目の午後、やっと風ではなくトラックが来て、目的地のウエメウレス渓谷に届けてくれた。そこでチャトウィンは、酒場の女主人から、1919年までチャーリー・ミルワードがここにいたことを聞いた。チャーリー・ミルワードは、祖母のいとこ、チャトウィンのこの旅の発端、祖母の家のガラス戸棚の皮の発見者。
また場所が変わりパソロバージョス牧場にて。

 「なぜ君は歩いているんだ」老人が私にたずねた。「馬に乗れんのかね」ここらあたりの人間は歩く者を嫌う。彼らは歩いている人間を頭がおかしいと思う。
 「馬には乗れます」私は言った。「でも歩く方が好きなんです。自分の足の方が信頼できます」
「同じことを言うイタリア人を知っているよ」
(p153)


この場面の少し前、チャトウィンを乗せた煉瓦運びのトラックの若き運転手パコ・ルイスの紹介の際も「歩くのは嫌い」とわざわざ付け加えている。地元の彼らが歩く人間が嫌いというのは、よそ者あるいは理解できない事象に我慢ならない、ということだろう。何かの予兆、あるいは何かの差し金なのかもしれない、と。
一方、チャトウィンやここで出てきたイタリアのガリバルディなど、歩くことを厭わない、歩くことは生きること、というようにどこまでも歩く人間もある一定数いる。そしてそういう人達の文学もまた存在する。それはよそ者であることを貫こうとする文学でもあるのではないか。
(2024 03/25)

今日読んだところは、アントニオ・ソートのアナキズムテロ活動と、ブルへリアという裏組織なのかカルペンティエール「この世の王国」みたいなものか…の二つの話題。この本の進行方法は、何か一つだけのキーワードという細いつながりで、次の章へ次の章へと繋げていくものなので、ここもブルへリアというのはそういう組織なのかと思っていたら、だんだん魔術的リアリズムに(笑)。
(2024 03/26)

ダーウィンとジェミー・バトン

昨日読み始めたところからフエゴ島へ。フエゴ島とは「火の島」の意味だが、煙しか見えなかったのに、スペイン王が「火のないところに煙は立たぬ」と「火の島」にしてしまったという説有り。
ここではフエゴ島からヨーロッパへ連れ去られ、またフエゴ島に戻った男の子、ジェミー・バトン(もちろんヨーロッパ名)の話。ジェミーを連れ去って、また戻ってきた船の名前はビーグル号。フエゴ島へ戻ってきた時の航海(第二次航海)にはダーウィンが乗っていた。

 それからいつの世にも人々に語り継がれるさまざまな物語-恋に落ちたアザラシ、火の創造、ただ一か所の弱点をもつ巨人、閉じ込められた海を解放したハチドリなどの物語を知った。
(p236)


少年がヨーロッパに渡る前のところ。こういう話はいかにもこの辺に伝承されてそうだが、「いつの世にも人々に語り継がれる」とあるのが気になる。確かに中務氏の「物語の海へ」にでも書かれていそうなタイプではあるが…

 フエゴ人の姿を見ただけで、人類が類人猿から進化し、またある人種はほかの人種よりさらに進化したという理論を想起することができたからである。ジェミー・バトンがほとんど一夜にして元の野蛮人に戻ったことで、ダーウィンはこの理論を確信した。
(p239)


ちょっと違和感のある要素のある文章であるが、ここではチャトウィンは静かに挑発を仕向けているようにも思える。ダーウィンにもその芽は胚胎していたし、読者にもあるのでは、そしてそこにはタブー視だけしては見落とす何かがあるのでは…といったような。
(2024 03/28)

航行システムと言語

トーマス・ブリッジズのヤガン語(フエゴ島インディオの言語)の辞書作りのエピソードから。

 自分でも驚いたことに、彼は、このような「原始的」な人々が持っていようとは誰も予想しなかった複雑な言語構造や語彙を明らかにしていった。
(p251)


複雑というのは、西洋の考えから見て複雑なだけであり、実際の言語の運用による進化というか放浪というかの結果。まあ、西洋の言語自体も同じなのだけれど。

 「原始的」言語の中に道徳観念を表わす言葉が見出せないとき、多くの人はそのような概念は存在しないものと見なす。しかし「良い」とか「美しい」といった西洋思想におけるもっとも本質的な概念は、具体的な事物に根ざしていないかぎり意味をなさない。初めて言葉を使った者はまず周囲にある素材に名前をつけ、それから抽象的な概念を示唆するためにそれを暗喩に変換した。ヤガン語、そしておそらくあらゆる言語は航行システムのような展開をする。事物に名前をつけることは位置を定めることである。それらを並べたり比較したりすることで、話し手はそれが次にどうなるかということを示す。
(p251-252)


抽象概念と位置づけ、航行システムと文法・語順。人間の深層に潜む何かがそこにはあるはず。あと、後半、航行システム云々のところ以降は、この「パタゴニア」という本の構造そのものであるような気もする(自分の得意技(笑))。
この後は例のチャーリー・ミルワードの人生と航海記。この本の中では長く連なるエピソード。
(2024 03/29)

石と蟹と…

 俺の父親が声をかけた。『へい、アルバート。ラバたちに何を積んでるんだ? 石か?』『石じゃない。ここにあるのは金だ』とアルバートは言った。でも、それは石だった。普通の石だったよ
(p353)


「パタゴニア」の最後の方には、このような「石」の主題が出てくる。この文は例の皮が発見された洞窟探索したエベルハルトの子孫が、砂金採りのアルバートを知っているか?と尋ねられた時の答え。この後にもサンチアゴから来た婦人下着のセールスマンの話も石関連。どちらも狂ってしまった行く末の象徴として持ち出される。チャトウィンの場合、こういった主題においても、常に物が仲介として示されるのがポイント。

次はプンタアレナスの一人のドイツ人の話。彼は蟹加工工場で働いている。

 殻やハサミの割れる音が聞こえ、うまそうな白い身がびっちりと缶に詰められていく。以前にも工場の流れ作業に従事した経験があるので、仕事は手早かった。彼は憶えているだろうか。これとは別の、物の焼ける匂いを? これとは別の、つぶやくような歌声を? そしてカニのハサミのように投げ捨てられた毛髪の山を?
(p361)


…この本、後味全くよくない話が多いのだが‥読む前に勝手に予想していた「パタゴニアの大自然と楽しい人々との出会い」とかいうのではまるでない、この旅でチャトウィンが惹かれていったのは、そういう側面を連関付けて呼び出すこと。
最後は、この旅の数年後に勃発するフォークランド紛争を予感させて終わる。

池澤夏樹氏解説より

「パタゴニア」を3月中になんとか読み終えた。では池澤夏樹氏の解説から一箇所(なんと偶然にもウスアイアでこの解説書いたという)

 『パタゴニア』を読んで気づくのは、彼の書きかたの奔放さである。まず土地があるのではなく、まず自分がいる。行った先の風土を観察する前に、その土地が自分の中に喚起する知的好奇心の展開の方を重視する。あの地域をあちらこちらへ動く記録の中に、それと関わってはいるが直接のその時その場で起こったことではない話題が大量に象嵌されている。彼自身の旅を縦糸とし、かつての他の人々の事績を横糸として編んだ布が『パタゴニア』である。
(p378-379)


前に挙げた「キュビスムとしての『パタゴニア』」と並んで考えてみたい…
…もう一箇所、というか、これは「パタゴニア」ではなくチャトウィンのオーストラリア紀行「ソングライン」から。

 信心深い彼らの人生の目的はただひとつ、土地をそれまでどおりの、あるべき姿のままにしておくことだった。“放浪生活”は儀式としての旅だったのだ。彼らは自分の先祖が残した足跡をたどった。そして一音一句変えることなく、先祖のつくった歌を歌い、そうすることによって“創造”を再創造していったのである
(p387)


これは、先人の歌枕の地を巡って旅をする松尾芭蕉と重なる。実際、チャトウィンに大きく影響を与えたのは「奥の細道」だったという。
(今回の読後感に芭蕉との「似た感」は、自分にはあまり感じられなかったけれど)
(2024 03/30)

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