「無限」 ジョン・バンヴィル
村松潔 訳 新潮クレスト・ブックス
夜明けと窓辺に佇む男と駅でもないのに停車する汽車
暗闇がふわふわと細かい煤みたいに大気からふるい分けられ、東からゆっくりと明るみがひろがりはじめると、よほど悲惨な人間でもないかぎり、だれもが元気を取り戻す。この毎日のささやかな復活劇を眺めるのが、われわれ神々の楽しみになっている。われわれはしばしば雲の城壁に集まって、下界のわが子たちを見下ろしては、彼らが起き出していそいそと新しい一日を迎えるのを見守る。そういうとき、なんという沈黙がわれわれの肩に降りかかることだろう。わが子をうらやむ寂しげな沈黙が。
(p5)
そう、この小説の語り手は神。それも神々とあるからキリスト教というよりはギリシャ的な神。ギリシャ神話だからどことなく人間的で楽しそう、という一読者の勝手な先入観とは逆になんだか寂しげ。
続いての汽車が止まるシーンはあまりに唐突なため、前回ちら読みした時身震いしたところ…結局、今日はそこからあまり進まず、男とその妹の会話(ネズミを見た、二人とも誰かのお古のパジャマを着ている、彼らの父親が死にかかっている…というのが、ここまでの情報)まで。
(2020 04/21)
複数、或いは無限世界の混じり合い
昨夜読んだところから。上下の文の「彼女」というのは、死を迎えているアダムの妻(結構夫と比べて若いという設定らしい、解説見るまで気づかなかったけど)で、今この家に来ていて下の文の「息子」であるアダムの母(両方ともアダムだからわかりにくい(笑))。そしてこういうなんだかいろいろな次元が混ざり合っていて、逆にいまいるこの次元自体がなんだかあやふやな小説世界…この小説世界だけでなく、この自分もたまというかよく、そんな思いに捕われることある…そしてこういう混ざり合い世界観はどうやら今死につつある方のアダムが「発見」したものであるらしい。
補足いろいろ3つ。
前に挙げた列車到着のシーンで息子のアダムは、列車の中からじっと見ている男の子を見つける。この列車の中のアザラシの頭と表現されている少年がどうやら父親アダムらしい。屋敷を見ているのは「この屋敷みたいなところに住めたらいいな」という願望から。
父アダム、息子アダム、母親アーシュラ…等々いろいろな人物に、そして背景に縦横無尽に入り込んでいく物語視点は、視点や語りを限定、厳密化して読者に考えさせる現代の多くの小説と異なって、かなりアクロバティックな手法に思える。この語りがこの作品の醍醐味の一つ…19世紀の小説の「神の視点」を上回る…あ、この小説を語っているのは「神」だったんだっけ。
光と場
父アダムは有名な物理学者だったらしい。で、これが前に書いた相互干渉的な世界観へとつながる。
死を目前にした父を前にして、息子アダムは嗚咽する、しかしそれでも別に吹き出しそうな気もしている、とある。
暗闇だけが別世界の粒子に溢れているわけではない、光もそう。キリスト教世界からすれば、異教の光。この小説ではそこに「神」がいるのだから謎はそのままそこに落ち着くのだが、もし、この小説世界を離れたとしても、この光の謎は自分たちに直接残る。
(2020 04/26)
「無限」というタイトルの言葉出てきた。これは実は子供の頃の老アダムが知恵の輪らしきものを解いているところ。「たがいの内側」というところもなかなか鍵になるような気も。
(2020 04/27)
時間と視点、その他
彼ー息子のアダムの視点なのだが、どうして、アダムの考えは自分の立ち位置が「列車に乗っている人」ではなく、「駅にいる人」なのだろう。なんとなくだが、自我の視点からすると、「列車に乗っている人」の視点を最初に直感するような気がするのだが。それがアダムという人物が持つ独特の視点なのだろうか。
この2文は老アダムの妻アーシュラの視点(老アダムにはどうやら先妻がいたみたい)。川と雲の流れが全く別物ではなくそれぞれが反映されていると考えること。逆に存在している人物が完全にはそこにはいないと考えること、これらはこの作品の下部にずっと横たわっている。
今度の2文はビートラ(息子アダムの妹)の視点かつ時間論。後者については対称性の破れとか似たような(といっていいのか)理論が現代物理学でも考えられている。
時間が流れるものだとして、その速度が自分のペースとぴったりだ、と感じる人は多分そんなにはいないのではないだろうか。
あと、先のアーシュラの視点のところで、死にかけている老アダムの爪を切っているアーシュラの場面があった。呼応しているとは思うが次はどこへ。
これらの意識や考えが流れる場である自然描写もまた美しい。
沈む足とヴェネツィア
妻のアーシュラが「自分でがなく先妻と今は一緒にいるのでは」と言っていた昏睡状態の老アダムだが、ここに神ヘルメスの導きで回想している(のか)のは、先妻が亡くなった後のヴェネツィアで、とある娼婦とともにした時のこと。一方後の展開と関連して、このふらついている足取りの重みというのは、第二部で突然現れた男ベニー・グレースが椅子に座っているところの表現ー
ーというのとよく似ている気がする。
…と、先取りし過ぎたので、第一部最終章に戻る。先妻ドロシーが亡くなる(自殺だったらしいが)前の数週間前ー
また、意識なのか存在そのものなのか、完全に他とは区別できるものではない、異物と交信あるいは交わっているかのような…こうした意識、自分にはそんなに遠い存在ではない。時間的に繋がっている世界かどうかはわからないが、何か別の者の意識が混入しているような気がする時が、たまにある。
(2020 05/04)
ジグソーパズルと無限と「無限」との付き合い方
無数、膨大と小説タイトルの「無限」という言葉を故意に避けたような趣き(原文が、あるいは訳が)。
ジグソーパズル実践編
この部屋ー斧とか投げ槍とか棍棒とか「原住民の武器」(そう書いてある、どこの? 熱帯地方の民族学的資料? それともこの土地、アイルランド辺りを想定した土地の過去の遺物? 時空がなんとなく歪んでいるようなこの小説世界ではいかなる可能性もありそう)が埃と共存しているーと新たな乱入者であるベニー・グレースとをどう自分のなかで位置付けるか、ビートラの中でまさにジグソーパズルが展開している。そのとりあえずの彼女なりの解答。このジグソーパズルはピースをはめると周りのピースが無限に変形するような造りになっているらしい…
もう一つ。「いずれにしても」の一文は唐突に現れて、唐突に切られている。こういう唐突な文はこの小説では「神の視点」でよく現れるものだが、だとすれば、「神」は何に若干苛ついて?いるのだろうか。部屋というものは、人間それ自身の頭や意識の反転されたものである、というのを、ひょっとしたら神は羨んでいるのか。そういう観点からいうと、この小説は「部屋」小説と言ってもいいのかもしれない。
ちょっと戻って。
その三つが元々別のものでそれらが絡み合うというより、なんだかわからない混合物をなんとか理解しようとしてほぐしかけたものがこれら三つのものなのか。とにかくこの文は残しておこう。
(2020 05/06)
無限と別世界、そして海
第2部終了。p168に描かれている、老アダムが幼な子だった時に見たといういっさい波だたない平らな海と空、円盤のような海、というのも含めてバンヴィルは海の描写が特徴。「海に帰る日」という作品(同じ村松潔訳、同じ新潮社クレストブックス)もある。上の文は無限について、下の文は別世界についての文章。パラレルワールドが煙突から落っこってきた海カモメの雛鳥、というのがすとんと心に残る。
近づいているのに気づかない、というのは「ない」というのと同じことではないのか。
ということで、第2部最後の章はベニーとビートラが老アダムの部屋に来たところを、老アダムが見ている(昏睡状態だけど見えるの?)ところ。見つつ、老アダムはベニーと初めて会ったとき、先妻が亡くなってすぐの頃の、北欧辺りの学会を思い出している。「わたしは」と言いたい時に、老アダムは「彼は」と言う、と言う。とすれば、このベニーは海カモメの雛鳥と同じくパラレルワールドからの使者なのか。(パラレルワールドなるものは、身近に存在する異物を、あるいは異物としておきたいと自意識が認識するものを、指し示すものなのか?)
(2020 05/09)
犬の視野、神の別称、人間の死
第3部開始。アーシュラはなぜか、夫の老アダムが死んだら、息子アダムとヘレンは別れて、無限アダムとそれからビートラと3人でこの館に住むのだろう、という予測を立てている。
この二つの文の「彼」は犬のレックス。このレックス、今までも出てきてはいたけど、いつそこにいる名脇役としての犬、という範疇を超えて描かれることはなかったけれど、ここに来て神の考察の中心になってきた。
この昼食の最後に神ヘルメスが話すアルクメーネーと夫アンビトリュオーン将軍の夫婦とそれから神ゼウスの図式は、第1部でのヘレンと息子アダムとゼウスの図式そのもの。神というのは別世界に通じる通路を開く力の別称か。
等しいというのは、バリエーションということなのか。この文から始まる老アダムが回想するベニーとマダム・マックの話というのはこの前の章の昼食のバリエーションなのか。ベニーを起点として鏡のような対称関係にあるともいえる。ベニーが突然口に出す「心配する必要はない」という言葉を通して。
(2020 05/10)
圧縮した幽霊ー幽霊と神々というのはどんな関係?親戚?
ロディとヘレンの相似点。空っぽで自分を作り上げようとしている。ここの章は地続きで語りが入れ替わる。
p279からの章の語りはヘルメス?老アダム? p280の一つ目の「わたし…」の行までは神ヘルメス。次の「わたし…」の行は老アダム。その次の段落は神ヘルメス。その次からp283の「それもわたしとの共通点なのである。」までは老アダム。あとは神ヘルメス…というところだが、渾然一体と言えなくもない。
(2020 05/16)
夕暮れの稜線
ビートラと死に行く父。このカーテン引いて光が差し込まない部屋で、土砂降りの雨の中、彼女の相手だったロディとヘレンがキスしてるのを覗き見したビートラは、彼らより早く家に戻ってこうして父の部屋にいる。次のページでのこの部屋で雨が上がったのを感じるシーンも印象的。
(2020 05/17)
「無限」はどこに潜む?
p299にはビートラのリストカット(自分の両腕を剃刀の刃で傷つける)をする場面が描かれるが、異様に静かに冷たい視線を貫く。
目覚めの表現といえば「失われた時をもとめて」の第5巻…なんだけど、ここは段階的、眠りの国にある部屋割りがいびつなビルに迷い込んだかのよう。
上の文はベニー・グレースについて。下は「無限」のバリエーション。
最後のページ、医者までやってきてアダム、ビートラ兄妹が呼ばれて、老アダムは亡くなったのだろうか?少なくとも明言はされてない。(まさかノーテボーム流に永遠この生死の境でループしているわけでは…小説タイトルがタイトルだけに)
…ちらちら、読んでいる最中に、作品全体をパラパラとめくって見ていたため、この作品最後が「ああ!」という一行で終わっているのは確認していた。老アダムが死にゆく一日を描いた作品で最後が「ああ!」ってことは、これで老アダムが亡くなって幕かな、となんとなく思っていたけど…そうではなかった。これはヘレンが新しい生命を受けた-懐妊-を知った感嘆。ヘレンにはゼウスが知らせ、息子アダムには語り手-ヘルメスが教えた。そしてアダムがヘレンのお腹に手をあてがう…
父ゼウスが知らせたということは、第1部であったように、これは神の子? そしてひょっとしたら、今死にゆく老アダムもまた神の子だったのかも…
(2020 05/18)