仕事がつらすぎて泣きながらうどんを食べていた僕が、自分の人生が大好きだと思える起業家となった話
あの時のうどんは、しょっぱかったけどおいしかった。
あ。みなさん、こんにちは。「ふーみん」こと、西村史彦です。僕は今、すみなすという会社の代表として、精神・発達障害を抱える方に向けたアート特化型就労支援サービス(就労継続支援B型)の「GENIUS」、アート・コーチング・プログラム「MY genius」を運営しています。
おかげさまで「GENIUS」では、JTによる喫煙所を起点としたアートプロジェクト「LightUp Gallery」に参画したり、イタリアのシャツブランド「ナラカミーチェ」とのコラボ商品を作ったりすることができています。
さらに会社としても、2024年9月にはかねてよりインパクトを見据えて温めてきた新規事業「MY genius」をローンチするなど、多くの活動をさせていただいています。そうした取り組みを評価いただき、『Forbes JAPAN』にも掲載していただきました。
ありがたいことに、「順調な会社」と見てもらえることも多いです。でも、僕のこれまでの人生は決して順風満帆なものではありませんでした。すみなすは「生きづらさを面白さに転換する」というビジョンを掲げていますが、まさに僕自身が、生きづらさで溺れそうな人間でした。
今日は、生きづらさと向き合いながら38年間歩んできた、僕の人生についてお話ししたいと思います。
ひょうきん、自意識、こだわりの幼少期
僕は、ひょうきんな子どもでした。かまってちゃんでもあったと思います。
幼稚園の頃には、ふざけて子ども用の傘の柄を口に入れて遊んだりしていました。そしたら、取れなくなって、泣きながら先生のところに駆けていったこともありました。
とにかく、場の中心でいたい。そんな子どもでした。
こうなったのには、両親が共働きだったことが関係しているように思います。父親は、カー用品店の二代目でした。僕は長男だったし、親戚の子どもたちのなかでも一番上だったので、周囲からは「跡を継いで当然」と思われていました。
でも僕は、小学生の頃にはすでに、それに嫌気がさしていました。小学1年生の時に埋めたタイムカプセルには「将来の夢は社長」と書いていましたが、それは会社を継ぐという意味ではなく、どちらかというと「自分で会社を作りたい」という想いだったように感じます。
とにかく、勝手に周囲に「この人は社長になるんだ」と決められていることが、いやだったんです。それに、上手に社長の息子っぽく周囲に応えていく器用さがないのもいやで。この上手くできない自分に対するコンプレックスのようなものは、この後もずっと続いていきました。
そんな感じで父親は社長だし、母親も働いていて忙しかったから、幼少期はおばあちゃんの家に預けられていました。だからこそ、存在を見てほしくて、ひょうきんになったのかもしれません。
あとは、とにかく自意識とこだわりの強い子どもでした。この2つはその後も僕の人生のネックであり続けます。しかも、それが強すぎて衝動的に何かをしてしまうんですよね。
幼稚園の入園式では、靴箱に貼られていたシールが気に食わなくて、式を飛び出しておばあちゃんの家まで帰りました。小2の頃、とあるイベントに参加した時には、自分だけスプーンを忘れたのが恥ずかしくて、また飛び出して、10kmくらい離れていた親のところまで歩いて行きました。
ほかにも、信号の青は実際は緑色であることがどうしても気になったり、「四角形の面積は縦×横」といった公式の中で、図形の縦と横が勝手に決められていることが納得いかなくて算数の宿題を進められなかったり。エピソードには事欠かない幼少期でしたね。
落書き、詩、音楽。表現し続けた学生時代
アートに興味を持ちはじめたのは、幼稚園の頃。
幼稚園から帰ったあと、チラシの裏にしょっちゅう絵を描いていました。それをおばあちゃんが褒めてくれて、「絵を描くのが好きだな」「絵が得意な方なんだな」と思うようになりました。
小学校に入ってからも、絵は描き続けていました。僕が好きだったのは、美術の授業で描く絵よりも落書き。最初は教科書に書いていましたが、それだけでは足りず、教科書を飛び出して机にも落書きしていました。しかも、気に入った絵は油性のマジックで清書。さらに決定版は彫刻刀で刻み込む、という熱中ぶりでした。
小学生の頃の一番の自信作は、メカゴジラ。友人も褒めてくれて、もちろん彫刻刀で彫りました(笑)
高校生になっても教科書は落書きだらけ。ほかにも、小学生の頃から通っていた英語道場の英語劇では、毎年主役に立候補していたし、中学の時は、詩人の326さんに影響されて詩を書いていたし、高校ではバンドをしていました。僕は本当に、表現とは切っても切り離せない人間だと思います。
あと、小学校高学年から中学生にかけては、お笑いの道に進みたいという気持ちも持つようになりました。
でも、親類に大学を辞めて芸人を目指したものの、うまくいかず会社員となったあと、最終的に行方不明になった人がいて。親からも「あんたは堅実に生きなさい」と言われていたし、僕自身も「自分もそうなったら」と思うと怖かったんです。
だから、中学3年生の時の進路希望調査にも、普通の高校を書きました。すると先生が「あなた違うでしょ、吉本に行きなさい」と言ってくれたのですが、やっぱり怖かったし、その怖さを乗り越えるほどの情熱はもうなくて、結局一般的な学校に進学しました。
そして、高校に入ってからは、バンドに熱中。あとバイトもしていたし、仲の良い先輩もいて、楽しく過ごしているうちに、あっという間にまた進路を考える時期がやってきました。
でも、何もしたくなくて。とにかく遊んでいたかった。そして、自分にとっての遊びは、やっぱり落書きでした。だから、落書きをし続けて生きていきたい、グラフィティ・アーティストになりたいと思ったんです。
今でこそ認められていますが、当時はグラフィティアートというと、不良のするものでした。でもそれでもなりたくて、芸大を受験して、進学しました。
3回行っただけで退学してしまった大学
でも、そうして入った大学も、3回くらい行っただけで中退してしまいました。その原因は、子どもの頃から持ち続けた、こだわりと自意識です。
僕が通うことになった大学は熊本県だったので、佐賀の実家を出て、一人暮らしをするつもりでした。でも、子どもの頃からの突飛な行動により、「一人ではまともに生きていけない」と両親に思われていた僕は、一人暮らしを許されず寮に入ることとなりました。
こうして入った寮は、お風呂もトイレも共同で、食事も決まった時間に食べるような、自由度の低いところでした。不本意だったこともあるし、一人暮らしをしている人もいるのに、そこで暮らしている自分が、とても恥ずかしかった。
それに、どう見られているのかという自意識の強さから出てくる人見知りが重なり、まったく同級生たちと打ち解けることができませんでした。
しかも、当時の僕は、高校時代に警備のバイトをしていたから真っ黒に日焼けをしていたんです。で、髪型はツイストパーマのロン毛で、半分金髪半分黒髪。鼻にピアスして耳にも大きな穴が空いている。その見た目で、人に話しかけらずにムスッとした顔してるわけで、そりゃ話しかけづらいですよね。
あと朝も起きれないし、そういういろんなことが重なって、学校に行かなくなってしまったんです。そうして引きこもりになったんですが、引きこもった場所は自分の寮ではなく、同じく佐賀から熊本に出ていた友達の家。彼曰く、「あれは引きこもりではなくて立てこもりだった」とのことです(笑)実はこの友人が、すみなすの現事業部長である目野修平なんですが、それはもう少し後の話。
当時の僕は、彼の家で朝までゲームして太陽が昇る頃に眠って、たまにスプレーを持って落書きに出かけるような生活を数ヶ月続けていました。そしてその夏に大学を退学します。
心が挫けそうになった寒い日のこと
大学中退後は、両親の「福岡に行け」という言葉に従い、福岡で仕事を探し始めました。アートに近い仕事がしたかった僕は、働きながら学びたいと思ってデザイン事務所を片っ端から受けていたのですが、軒並み不合格。単発の引越しバイトをしながら食い繋ぎつつ、仕事を探し続けていた頃、デザイナーと営業を募集しているとある企業の面接に行くことになりました。
すると、「デザイナーはもう募集してないんですよ」「でも営業なら募集してます」「固定給と歩合制があって、完全歩合制だったらこんなに稼げるよ」と言われて、完全歩合制の営業を始めることとなりました。あっさり騙されてしまったわけです。
その仕事は、割り当てられた区域を回って飲食店の割引券を売るという仕事で、2週間で靴底がすり減るほどの過酷さ。それでもなんとか頑張っていました。
でも、冬の寒いある時、5日間タダ働きになってしまったことがあって。その夜、お金がないから手袋もしないまま、悴んだ手でなんとかハンドルを握って、家まで自転車で2時間くらいかけて帰っていたら、なんだか泣けてきて、とうとう親父に電話したんです。
そしたら、「お前金は持っとるとか」と聞かれて。「いや、金なか」って答えたら、「そしたら、今から銀行に送るけん、それでウエストのうどんば食え」って、「かき揚げうどんがうまかけん、かき揚げうどんを食え」って言ってくれて。
ウエストって九州にあるうどん屋さんなんですけど、それで、そこのかき揚げうどんを泣きながら食べたんです。その時のことは鮮明に覚えていますね。今思えばいい思い出だけど、本当にしんどかった。結局その会社は半年でやめました。
そのあとは、知り合いの紹介でホテルでアルバイトをしたあと、学生向けの旅行事業、オリジナルウェアの販売などを行っている会社で再び営業をするようになりました。
その会社の上司の「コミュニケーションって相手に興味を持つことから始まるんだよ」という言葉が今も心の中に残っています。相手に興味を持つからいろいろ質問するし、聞いたことをもとにまた会話を深めて、距離を近づけていくんだ、ってことを教えてくれたんです。
これを知ってから、営業成績もグングン伸びたし、この営業は肌にも合っていたみたいで、人見知りなのになぜかトップセールス賞をいただくまでになりました。年齢が近いのもあってか学生たちもとても慕ってくれて、それなりに楽しい日々でした。
でもある日、アポとアポの合間に、「俺何しているのかな」とふと我に返ったんです。小学1年生の頃から起業したかったし、デザイン事務所に落ちていた頃にも、「もう自分で会社をやるしかない」と思っていたことを思い出しました。
とりあえず、このまま生きていくのは「NO」だ。そう考えながらも、これからどうするべきか決められずにいた時に思いついたのが、海外に行くことでした。すみなすを創業する、9年前のことです。
体で喋り続けたカナダでの一年半
海外に行くと決めてからは、すぐに会社を辞めて、渡航のために100万円貯めるべく、愛知県の工場で半年間働くことにしました。工場を選んだのは、2交代制で残業があって稼げると思ったから。でも、その時ちょうど工場が忙しいタイミングで、3交代勤務の残業なしという勤務体系になってしまったんです。
それでもなんとかお金を貯めなければならない。そう考え、切り詰めに切り詰めました。買ってきたひき肉を6つに分けて冷凍して、それをもやしと一緒に袋麺に入れて食べる日々でした。このおかげで、5日間の食費を1000円に抑えられていましたが、栄養状態はすごく悪かったと思います。
しかも、単純作業が苦手な僕にとっては業務も楽しくはありませんでした。目標としていた100万円は結果的に貯められましたが、そんな生活が祟ったのか、あと2ヶ月で工場生活も終わるタイミングでパニック障害と診断されてしまいます。飛行機はおろか、電車やバスにすら乗れない状態になったんです。
でも、カナダに行かないという選択肢はなかったですね。そして、飛行機に乗ってカナダに行かなきゃという強迫観念に駆られて、その時に僕がとった行動は、なぜかジェットコースターに乗りまくるという奇行でした。笑
荒療治のような感じで、当時あったスペースワールドという遊園地のタイタンというジェットコースターに、朝から晩まで17回連続乗ったんです。
当然ですが、そんな修行僧みたいなことをしても治りません。結局薬を飲んで、気絶したような状態でカナダに渡りました。カナダに着いてからは、働かないと生きていけなくて必死だったのと、日本から離れていろいろなことが気にならなくなったことで、気づいたら症状が無くなっていました。
そして、もともとカナダに着いたら、音楽・写真・コメディアンのどれかをやろうと思っていたことと、カナダではじめて住んだ街が、レゲエ発祥の地・ジャマイカだったこともあって、気づいたらレゲエを歌うようになっていました。
それからは、暇さえあればリリックを書いて、書いては試してと、常に歌う日々でした。それなりに英語もできるようにはなったけど、言葉というよりも、ずっと体で喋っていたような気がします。
そうして歌っているうちに、横浜で第一線で活躍していたDJと活動するようになって、さらにDJのワールドカップみたいな「World Clash」という大会のチャンピオンと知り合って、週1でUstream配信をするようになって。人と人とのつながりによってドラマがどんどん起きていったんですね。自分が覚悟を決めてやろうと踏み出したら、こんなにどんどんドラマが起きていくんだなということを学んだ体験でした。
でも、楽しかったけど、同時に怖くもありました。僕は日本では一切レゲエを歌ったことがない、カナダでやり始めただけの人間。そんな自分がUstream配信を見ている日本の人たちの目にどう映っているのだろうか。このまま日本に帰ったとして、その後も本当にレゲエの活動を続けていけるんだろうか。
突然こうした大きな不安に襲われて、それに押しつぶされそうになることもしばしばありました。例えるなら、分厚い辞書みたいな本をいくつも高く積み重ねてグラグラしているところに、自分が立っている感覚でした。「気づいたらこんな上まで来ちゃったけど、ここからどうしよう」と、また自分の生き方に悩むようになってしまったんです。
そんな時に、父親と弟がトロントに遊びにやってきます。そのころ、生まれ育った佐賀では母親が50代で起業して介護事業を始めていました。自宅で実の母と義母の介護をしながら大学に行って社会福祉士の資格を取得して、有料老人ホームを立ち上げていたんです。
そしてどうやら、多忙を極めていて、いつ倒れてもおかしくないという話を父から聞かされました。で、「帰って手伝ってやれ」と言われて。一度は、今仲間とレゲエをやっているから帰れないと断ったんですけど、その後に言われた、「アーティストとして生きていくなら何も言わないけど」という言葉が心に引っかかりました。
そしてよくよく考えた結果、「アーティストとして生きていくわけではないし、帰ろう」と帰国を決めました。ちょうど生き方にも迷っていたし、母親が回復したら新たに自分の道を歩めばいいかと思っての決断でした。
こうして、せっかくだから行ってみたかったジャマイカとアメリカにそれぞれ3週間くらいずつ滞在した後、日本に戻りました。
もう二度と周りに苦しむ人を出さないために
で、帰ってみたら母親はピンピンしていた、と(笑)
騙されたと気づいたけど、もう戻るお金もないし、やるしかないと覚悟を決めました。そして帰国した次の日から、時差ボケする暇もなく、仕事が始まりました。そこから約9年間、介護の仕事をやることになります。
この8年間の間、現場から施設の運営まで携わったし、結婚して子どもも生まれたし、仕事でも課題意識を持って、改革のためにいろいろな挑戦をしました。でも、何かを変えようと強く思って行動しても、自分一人でやるしかなかったのもあって、全然うまくいきませんでした。
ただ、それでも家族を養わないといけないし、当時は、自分のやりたいこととかは捨てていた気がしますね。自分から周りや環境に合わせていっていたし、合わせざるをえなかった期間でした。今思うと、本当に「自分らしさ」を全く失ってしまった色褪せた9年間でした。
そうして過ごしている間にも、いろんなことがありました。大きな出来事のひとつは、29歳の頃、友達が電車に飛び込んで自殺をしてしまったこと。しかも僕は、その2日前に彼と電話をしていたんです。
友達のお姉さんから「鬱っぽくなってるから遊びに連れ出してあげて」と連絡を受けて電話して、「また近々温泉でも行こうよ」みたいな話をして電話を切りました。
そしてその翌々日、温泉に誘うために電話をしたら彼は出なくて。その時にはもう飛び込んでしまっていたんですよね。僕は夜にそれを聞いて、もうパニックで。どうすれば結果を変えられたのかは、その時からいまだに考え続けてますね。でも、パニックになりながらも、2つのことを決めました。
ひとつは、「常に今日が最後になるかもしれないと思っておくこと」、もうひとつは、「苦しんで死を選ぶ人をもう周りに出したくない」ということ。
そしてこの出来事をきっかけに、心理カウンセラーの資格を取って、「笑下村塾」という私塾をほぼボランティアで、月に一回開講するようになりました。
好きな偉人である吉田松陰の私塾・松下村塾をもじって名付けたこの塾は、前半で、笑える心を養うための講義をして、後半ではモノボケや大喜利など、ひたすら実践ワークをするという笑いのトレーニングジムです。
哲学者のニーチェは、「笑いとは、地球上で一番苦しんでいる動物が発明したもの」「孤独な人間がよく笑う理由を、たぶん私はもっともよく知っている。孤独な人はあまりに深く苦しんだために笑いを発明しなくてはならなかったのだ」といった言葉を残しています。
当時、この言葉が僕の心に強く刺さっていました。お笑いも好きだったし、亡くなった友人のことも思い浮かべながら、自分の好きを活かすために考えたのが、この塾でした。
子どもたちに楽しんでいる背中を見せられない自分が嫌になった
もうひとつ、僕にとって大きな出来事だったのが、息子が足に障害を持って生まれてきたこと。
足の骨が生まれつき折れていて、骨が癒合しないという病気で、片足でも20-30万人に一人の珍しい病気なのに、息子の場合は、その症状が両側にありました。
最初はもちろんショックでしたが、僕よりも、誰よりもショックを受けていたのは、お腹の中で息子と繋がっていた妻でした。その横顔を見ていたら、僕まで同じように悲しんだら、人生が何も転がっていかない、と思いました。そしてその時に浮かんできたのが、カナダの帰りに寄ったジャマイカで見た海だったんです。
見渡す限りの水平線で、空の青と海の青で綺麗に二分されていて、すっごく綺麗だった。その美しく別れた海を見ながら、「人間って表裏一体だな」「凹んでる部分は突き抜けているところにもなるんだ」と感じたことを思い出しました。
それから、「息子は世界的に例が少ないスペシャルなものを持って生まれてきてくれたんだ」、「彼の人生が楽しみだ」と思えるようになりました。そしてそれを妻にも伝えて、少しずつ夫婦ともに前を向けるようになっていきました。
そして息子は成長し、5歳の時に14時間半かけて骨移植の手術をすることに。妻と交代で付き添いをするために、2ヶ月ほど介護休業を取得します。この息子の入院生活が、結果的に、僕がまた自分の人生と向き合う機会になりました。
病院の近くにアパートを借りて、長女や次女の面倒を見たり、病院で息子の付き添いをしたりする日々を過ごすうちに、子どもたちに楽しんで生きている背中を見せられていない自分に嫌気がさし始めたんです。
その時にふと思い浮かんだのが、楽しく落書きをしていた学生時代の自分。それで、「障害のある方の落書きがお金にならないかな」と考えました。障害のある方の働く場所は、基本的には単純作業。でも、その幅のなかだけでは生きていけません。だから、その幅の外で働ける場所が必要だとの想いもありました。
実は息子がまだお腹にいる時、キャナルシティ博多という商業施設のタイルに惹かれて、キャプションを読んでみたら知的障害のある人の絵だったということがあったんですね。
めちゃくちゃかっこいい。才能が迸っている。そう思いました。「福祉のなかにも、こんなに違うやり方があるんだ」と、感じたことを覚えています。
こうしていろいろなピースが重なって、障害者の就労支援にたどり着きました。
「1年間やらせてください」役所との強気の交渉
そして息子の退院後、アートを活用した就労支援の立ち上げに向けて動き出しました。
僕は、どんな人のなかにも天才性があると信じています。活かす環境がないからいかせていないだけで、線の書き方だったり、色使いだったり、きっと面白さがあるはず。その埋もれた才能を活かして、障害のある方が、ライフワークとして収入を高めていける場所とすることを目標として、2020年2月に「GENIUS」を立ち上げました。
でも、実は役所の人には「収益化できないからダメだ」と言われてしまって。だから、「お掃除の仕事やります」って強行突破したんです。それで認可は降りたけど、宣伝のためのチラシがきっかけで、役所の人に本当はアートの事業所だとバレてしまいました。
その時は、「一年間様子見てください」「一年やって上手くいかなかったら掃除に舵を切ります」と伝えて、なんとか認めてもらいました。かなりの強気ですよね。でも、その言葉通り、一年間でなんとか収益化を果たして、無事にこれまで「GENIUS」を続けてくることができました。
コロナが流行っているタイミングで、もちろん打撃もあったけど、一方で借入もしやすいし、補助金も受けられる状況だったのがよかったかなと思います。おかげで、サービス作りにたくさんの時間とお金を使うことができました。そのリソースがあったからこそ、「GENIUS」に来てくれたアーティスト(利用者)たちの「生きづらさを面白さに転換する」ことができたし、事業としての結果も出てきた。
そして結果が出始めてからは、役所の方の見る目も変わってきました。7ヶ月の密着を経て作られた30分のドキュメンタリーが九州全土に放送されたり、ほかのメディアでも取材されたりして、役所の方だけでなくて、友人や親の見方も変わっていくのを感じました。
場をつくれることが、僕らの強み
でも一方で、GENIUSを運営していく中で、僕らは目の前の人を幸せにすることなんてできないんだと気づきました。本人の主体性がないと、何も変わっていかないということに直面したんです。じゃあ、僕らの価値は?僕らはどんな意義を社会に果たすことができるのだろうか?そもそもここから僕はどうしていきたいんだろう?
そうして壁の前でもがいていた状況を変えるきっかけになったのは、周囲の人からの言葉でした。「GENIUS」では、ほとんどのアーティストが未経験からアートを始めます。でもみんなすごく魅力的な作品を作るし、それが数十万で買われたり企業のデザインに使われることもある。また、精神障害のある方が、アートを通じてメンタルを回復していく事例も数多くあります。
それを知った人から「なんでそんなことができるんですか」と聞かれることが何度かあったんですよね。
で、「これって当たり前じゃないんだ」ってはじめて気づいて。自分は何も特別なことではないと思っていたけど、価値のあることなんだと気づけた。それをきっかけに、これまでのメソッドを体系化しました。このメソッドこそが僕たちの価値の根幹にあるものだと思っています。
僕は、スタートアップ起業家としてピッチすることもよくあるのですが、そんな時に、ヘラルボニーさんのお名前が引き合いに出されることがあります。でも、ヘラルボニーさんの強みは圧倒的なプロデュース力。でも僕のWillもCanもそこにはないんですよね。
そこで戦う力もないし、戦おうとも思っていない。それに気づけたのは、この偉大な先人がいたからだと思います。
僕らの強みは、場をつくれること。そして、生きづらいのは、障害のある方だけではないはず。この「生きづらさを面白さに転換する」場を、もっといろんな人に届けたい。そう思ってできたのが、2024年9月からスタートしたアート・コーチング・プログラム「MY genius」です。
「生きづらさを面白さに転換する」を体現する存在として
起業をしてから5年の間に、こうしてどんどん景色が変わっていって、自分が描きたい世界も変わっていきました。
そこで気づいたのは、掛け算ではなく、掛け算した後の引き算に経営者のアイデンティティが宿るということ。アイデアの掛け算は誰でもできます。今なら、Chat GPTに聞いてもいいかもしれない。そして掛け算したものに、何かを足すことも、誰でもできる。でも、それから何を引くかを決めるのは、その人の価値基準であり、執着です。
起業して、経営をするなかで、こうした考えも深まったし、たくさんの仲間もできた。僕が大学時代に立てこもっていた部屋の主・目野 修平も、今は事業部長となって会社を支えてくれています。
彼が会社に入ってくれる少し前から、僕はかなり忙しくて、切羽詰まっていました。会社にいるといろいろな人に話しかけられて仕事が進まず、「これじゃダメだ」と思って家で仕事するようになったら、今度はスタッフとの溝が生まれました。
ふざけるのが大好きな僕が、ボケられないような環境、スタッフとの関係性を自分で作り出してしまっていました。で、この状況を変えるべく、自分の考えを理解してくれつつ、現場と調和をとってくれる人が必要だとぼんやり考えてはいたんですね。
そんな時に、長崎で展示会をすることになり、修平さんに電話で「設営行くから一緒に行かない?」となんとなく言ったら、即答で「行く」と言ってくれたんです。誘った僕が「なんでやねん」と思いました(笑)
修平さんは、それまで女性の生きづらさにも向き合ってきた人だったし、マネジメント経験もあったし、もちろん僕が一緒にいて心地よい人でもあるし、「もう修平さんしかいない」とその帰り道に、口説き落としました。
修平さんのほかにも、彼が紹介してくれたアートディレクターの中尾千華さん、「MY genius」を一緒に作っているたかちん(佐野貴)やともちゃん(尾形朋美)、ふくみん(福見直也)などたくさんの仲間が増えました。
そして事業を進めるうちに、僕の生きづらさの理由であった特性も強みに変わっていった。僕は今、「僕自身が『生きづらさを面白さに転換する』物語」を生きて、このビジョンを体現しているような気がします。
そのおかげで、僕は今、「死別や子どもの障害といったどうにもならないことも起きてきたけど、自分の人生が最高に大好きだ」と言えます。こう言える人を、もっと増やしていきたい。今の僕の活動は、すべてそれにつながっています。
「自分の人生が好きと言える人を増やす」という僕の人生のストーリーが、「GENIUS」によって始まったように感じますね。
「GENIUS」をはじめて5年経ってみて思うことは、生きづらさってきっと完全にはなくならないということ。でも、それを見つめて、受け止めることはできる。そして、その上で視点を変えたら面白さになることを僕は身をもって感じました。
だからこそ、今後も自分の姿を通じて「生きづらさを面白さに転換する」ことを伝えていきます。