【読書記録】なぜ働いていると本が読めなくなるのか/三宅香帆
本屋さんでパラパラ立ち読みしていたら、私の好きな映画「花束みたいな恋をした」が序章で引用されていて、その部分に引き込まれて思わず購入した1冊です。
私自身は「働いているから本が読めなくなった」という経験はなくて、むしろ仕事や育児で読めない期間があると、心がスカスカのスポンジになってしまったような気持ちで苦しくなり、反動で水を吸収するスポンジのように本を読む期間が来る、というサイクルを繰り返しています。今はまさにその期間。でも、「本は読めないのになぜかスマホをいじる時間はある」というのは自分自身も含め、現代人の多くが経験していることだと思います。
この本では序章において「花束みたいな恋をした」の麦と夏が社会人となり、心が離れていってしまう様子を、「読書と労働の両立」というテーマに結びつけて説明しています。そして、読書と労働を取り巻く歴史的な背景を明治時代から現代に至るまで丁寧に論述し、最終章では「働きながら本が読める社会」のあり方を提案しています。歴史を「読書」や「労働」というキーワードと共に振り返っていくストーリーがとても面白かったです。
私が印象に残ったのは情報社会である現代パートで説明されていた、「情報」と「知識」の差異についてです。
著者は「情報」と「読書」には知識のノイズ性に違いがあると述べています。「情報」はノイズの除去された知識であり、「読書」をして得る知識にはノイズー偶然性が含まれるとしています。さらに、知識と情報の差異について以下のように説明しています。
私たちは知りたいことがあればすぐにインターネットにアクセスし、その答えに速やかにたどり着くことができます。でも、その情報はすーっと流れて行って上辺だけのものになってしまうことが多い気がします。読書には偶然性、ノイズがあるのかもしれないけれど、ふとした時に読んだ内容が自分の経験、思考、感情とつながり、自分の中に新たな形で定着していく感覚があります。私は、それこそが「知識」なのではないかと思うのです。私にとって読書をする醍醐味はこの感覚にあるのかもしれません。
私の考える「知識」は著者のいう 知識=ノイズ+知りたいこと と少し違っていて、「知識創造企業」と言う本に書かれている「知識」と「情報」の説明の方がしっくりきます。
インターネットからでも本からでも、与えられたものに触れた時点では、ノイズのあるなしに関わらず、それはただの「情報」に過ぎない。その情報を自分がどのように扱うのかによって、「知識」になるかどうかが決まるのだと思います。
読書には、得られた情報を自分の中でゆっくり反芻したり吟味したりしながら自分の「知識」として定着させていく余韻がある気がします。紙の本に関しては、読んだ後も手元にあって、ページを閉じてもそこに存在していて、物質的な余韻も残しています。
一方でインターネットから得る情報は、ゆっくり吟味する前に次々と関連するもの・関連しないものを押し付けてくるくせに、電源をオフにしたら消えてしまいます。余韻がありません。それが読書とインターネットの大きな違いなのではないかと感じます。
「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という本書の内容から少しずれてしまいましたが、今回の読書体験も自分自身の知識に影響を与えてくれる素晴らしい時間でした!
また、このようにアウトプットする時間を取りたいなと感じています。