天才とは、伝染するものである。
学生時代、私にはある才能があると思っていた。周りの人にはおだてられ、良い気になっていた。当然、将来は、その道に進むものだと思っていた。しかし、その道の『天才』の技を目の当たりにした時、自分は凡人だと目が覚めたようにその夢から撤退した。
天才とは、孤高である。
天才とは、生まれ持って才能を持ち、簡単な努力で、人を凌駕する力を発揮する。
選ばれたものだけに与えられたものだ。
天才の前で凡人は太刀打ちできない。己の力のなさを目の当たりにしてしまう。
それが私の今までの考えだった。
『ブラックジャック創作秘話~手塚治虫の仕事場から~』
は、漫画の神様と言われる手塚治虫の創作現場を、関係者の証言で再現したノンフィクション漫画である。
アニメ制作で借金を抱え、虫プロが倒産し、天才のスランプの時期から物語が始まる。
しかしこの作品は、困難が立ちはだかってみんなで立ち向かうというようなありきたりな話ではなく、独りの天才の天才たるエピソードが延々綴られている。1冊の中に7話のエピソードが入っており、そのどれもが常軌を逸している。
締め切りが迫っても原稿が上がらず、担当編集者が寿命が縮む思いで待っていても、エピソードが面白くないという理由で、すべてを一から書き直したり、ぎりぎりで仕上がったアニメの本番を見て「リテイク(やり直し)」を出し、本番が終わっているにもかかわらずどこにも出さない作品を数か月かけてやり直しをしたり、旅先のアメリカから、電話で、「1コマ目は『三つ目が通る』〇巻●ページの×コマ目の背景」といった指示を出し、漫画背景を完成させたりと、凡人では考えられないことを当たり前のようにやり、周りの人間を振り回していた。
天才とは、追求心の強さなのかもしれない。
興味のある方は、ぜひ本を読んでいただきたい。
吉本浩二さんが描く臨場感あふれる現場の風景と、手塚治虫が漫画を描く際の鬼気迫る表情は、言葉では表現しがたいほど恐ろしい。
しかし、その手塚自身、どのコマも目は少年のようにキラキラと輝いてるのである。
そして、そのころの手塚エピソードを語る人たちはみんな笑顔で、当時を懐かしんでいる。
期限が過ぎても原稿が上がらず、関係者に罵倒されながらも頭を下げ続ける担当編集者、休みなく徹夜が続き意識が遠くなろうとも、描き続けるアシスタント、上の人が逃げ、気が付けばアルバイトなのに進行係として責任追う立場になったアニメ制作進行、みんな、今の時代では考えられない仕事場を経験しているにもかかわらず、そのころを懐かしみ、楽しい思い出としてエピソードを語っている。
そしてその人たちは、みな大物となって漫画業界やアニメ業界を支えているのだ。
一つ個人的に好きなエピソードを紹介しよう。
修行僧だった彼は、アシスタント募集に受かり、特別に僧の許可を得て一年間アシスタントをすることとなった。
紆余曲折あり、実家に帰って寺を次ぐことになったのだが、絵の評価から、地元警察のモンタージュの講師になったようだ。
目撃者から特徴を聞いて似顔絵制作をする際、手塚治虫のデフォルメ技法が生かされているようだ。
こんなところにも手塚治虫の『天才』が生かされている。
天才とは、人に何らかの影響を与え、自身の種を植え付け、それを後世に様々な形で伝承できるものなのかもしれない。
少なくとも触れた人に影響を与え、その意志は今もなお生き続けている。
私が夢折れたのは、その天才に深く入り込む意志がなかったからだ。
もし自分にもう少し勇気があれば、その人に志願して、弟子でなかったとしても触れる機会を得ただろう。
そうすれば私の人生もまた違ったものになっただろう。