睦月夢想家のひとりごと
人が感動するのって
「どうなるかわからないけれどやってみた」
先の世界を見た時なんだと思う。
いつもは恥ずかしくて言えないこと
大切なひとに思いを伝えてみたり。
初めて異国料理にチャレンジして
お酒との組み合わせを楽しんだり。
知らない鉄道を乗り継いで
初めての景色に出会いに行ったり。
自分のライフテーマにつながる価値を
誰かに届けてみたり。
これまでと違う、いつも通りじゃないことをするには
少しの不安と手間と、勇気が要る。
少なくとも、私のような凡人には。
何かするなら、常にうまくいかないリスクがある。
結果がわからないし、自分の責任の元だから面白い。
「できる範囲」から出なければ、
失敗して悲しむリスクもない。
でも、それだとつまんなくなってくる。
「今が十分幸せ」と言い聞かせながら
本音ではそんな毎日に、そんな自分に
飽きてる人は多いんじゃないかな。
この勇気は、やるほどに育っていくと思う。
(逆に、やらなければ衰退していくと思う。)
実感としても、過去に怖いと思っていたことが
今は小さくなっているように思う。
だんだん、“リスク”なんて大きなものじゃなく
ワクワクの包装紙みたいな、そんな存在になるんだろうな。
そんな風に年をとれたら
自分の幅も、人生の愉しみも広がり続けるよね。
さっき、
“「今が十分幸せ」と言い聞かせながら”
と表現した。
ディスってるみたいだけど、これが悪いことだとは思わない。
今は幸せじゃなくて、
「何かがあれば幸せになれる」
「何かを得られたら幸せになれる」
ってすごく脆くて、終わりがない幻想。
だから、「今が幸せだと思う」器は大事だと思う。
“幸せ”というと、
常に躁状態のようなイメージの人もいるけど
そういうわけじゃないと思っていて
(むしろそう見せている人は危険だと思ってるw)
全てを自然として受け入れていること
がベースだと思う。
人間だからいい時もあれば悪い時もあるし
喜びを感じる時も、落ち込む時もある。
地球の上から眺めれば、ちっぽけな存在がなにやら
「これが正義だ」「あれは間違ってる」
と必死になってる。
みんなそういう、どうしようもなくて
一生懸命な生物として生きている。
ただの自然の一部。
その大きなスケールの中で、目の前のパノラマを生きてる。
飛びあがるぐらい嬉しい日もあれば
「死にたい」「消えたい」日があってもいい。
そう感じる、それは自然なこと。
大きく捉えていいんだけど、
大袈裟に捉えなくていいと思う。
みんなそんなもんだ。人間だもの。
そのスケールの中で、自分は目の前のことを
こちょこちょと、夢中でやっている。
あれこれ感じて考えて動いてる。
その全体をなんか愛おしいよね、と尊びたい。
それが幸せのベースだと思う。
話が逸れてしまったけれど、
「今が十分幸せ」と言える人ほど、
現状維持じゃなく
持ってる力を発揮できたらいいなと思う。
「今が十分幸せ」を「何もしない」理由にせず
「やってみよう」を積み重ねると、より楽しい。
それを続けた先に、きっと誰かが喜ぶ。
その一人一人のお楽しみベースの
パワーが発揮されたら、世の中良くなると思う。
承認欲求からじゃなく
自分の本心、ライフテーマに沿って
「どうなるかわからないけれどやってみよう」
と表現する人が増えたら最高だなと想像する。
その土台が自己理解、相互理解だと思ってる。
私にできることはまだ小さいけれど、やっていく。
やらねばとか頑張るじゃなく
あくまでも自分の幸せの延長線で。
今年も楽しんでやっていこう。