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舞台「修羅雪姫」 感想①-救いのない物語のようでいて、愛にあふれた物語-

 2021年11月19日~21日まで、たった3日間、たった5公演、「一か八かのトライアル」と銘打って上演された舞台「修羅雪姫」。
 ずーみんこと今泉佑唯さんの復活劇として創られた本作。ずーみんのために集まったキャストやスタッフたち全員が、中心にいるずーみんに向かい、支え、そしてずーみんは2時間弱の舞台をほぼ出ずっぱりで、ひとりで全部を背負って受けて立った舞台のように見えました。
 「あずみ」のときにも思ったけれど、あの小柄な体にとてつもないパワーを秘め、愛らしい顔をしているのに結構ドスの効いた声を出せるんですよね(笑)
 そして脇を固めるのは岡村組常連の皆様。とくに男性キャスト陣は声量オバケしかいないので、あのシブゲキという小劇場で大迫力の舞台が観られるんだろうと期待でいっぱいでした。結果は期待を上回りましたけどね!(先に言う)
 
 初日の観劇に向かう電車の中で、待ちきれずワクワクした気持ちでゲネプロの映像や動画を見ていました。そこで気になったのは、ずーみんの「こんな私のために」という言葉。カテコでも何度も聞いたように思う、「こんな私のために集まってくれて」「こんな私のために復帰の場を作っていただけて」。自らを「こんな私」と思うほどに、辛い1年間だったのだろうなと思う。「こんな私」という言葉は、劇中でずーみんが演じた主人公の雪のセリフにもありました。でもそれは自分を卑下するための言葉ではなく、「こんな私」を愛し「こんな私」と一緒に笑い合ってくれた人たちのために、何があっても立ち上がり戦う。そんな言葉でした。
ずーみんのブログに、こんなことが書かれています。

今回、脚本を書いてくださった久保田さんが、ずーみんが幸せになってくれたらいいなと思いながら書いたよって言ってくださいました。

それが全てなんだろうと思う。
 
 そしてそんなずーみん(=雪)中心の物語であるようでいて、その登場人物ひとりひとりに見せ場があり、その生き様、死に様に何度も泣かされました。権力の中枢に上り詰め目的のためなら人の命など虫ケラほどにしか思わない政治家、彼らに駒のように使われているチンピラ、理想を求め改革を謳う思想家、それを取り巻くごく普通の人々、掃きだめでゴミクズのように生きる者たち。その誰もが、その時代を懸命に生きていた。
 それは出演者でもある岡村作品常連の久保田さんが台本を書かれたからなのかなと思いました。そのことを久保田さんのインスタライブで伝えたところ「いやいや」と謙遜され、つかさんの話をしてくれました。
 つかさんはたった一言のセリフでも演者に「いま俺にスポットライトが当たっている!」と思わせてくれることがあったのだそうです。だからそれは意識されていたとのこと。やはり演者であるからこそ、わかる感性ですよね。どこで聞いたか忘れてしまったのですが、つかさんはどんな端役でも「親が見に来ているかもしれないのだから役名をつけろ」と言っていたそうです。「役者がウケてんじゃねえ、俺がウケてんだ!」って言葉が有名ですが(笑)、その実、愛のある方だったのでしょうね。

 『修羅雪姫』は生まれながらに親の恨みという業を背負い、血で汚れた手では幸せにはなれないと悟りながら、たったひとりで人を斬って斬って斬り捨てていく救いのない物語のようでいて、その根底には愛があり、そこに僅かに燻っている生きる望みや力みたいなものを掴み上げてくれる。それは、そんなつかイズムを受け継いだ方々で創られている物語だからなのかもしれない。

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