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プレイブックの世界#010

 初めての海外赴任ということで事前に会社から香港についての説明を受けていたが、実際に自分の眼で見る香港は違った。思わず見上げてしまうような超高層ビル、路上で耳に入ってくる聞いたこと無い外国語、街の店舗の看板には中国語と英語の表記。騒がしい大通りには路面電車が走り、また住民は島から島へ船で移動するそうだ。地下鉄も東京に変わらない便利さで、かつバス、ミニバスという香港全土へアクセス出来る乗り物に加え、マカオや中国内陸部の都市にはフェリーや高速鉄道でいけるらしい。アジア最大の金融都市ぐらいの情報しかなかったが、岩澤の香港への興味は急速に高まり、もっと深く街の中に入りたかった。

英語を読めない岩澤が香港の街の刺激のせいで英字新聞をつい購入してしまった。
岩澤「俺が読めない新聞を買うと決めたんじゃない、香港が俺にそうさせたんだ!」

 岩澤は香港に来てメールを確認した。日本に居た頃は毎日、山のように来ていた会社メールが香港に赴任して以来、こなくなった。最初は香港赴任のため誰かが設定を変更をしたのだろう、と思っていたが、受信箱には会社メール、仕事関係のメール、そして毎週水曜日に届く橋にも棒にもかからないホームページ制作会社の迷惑な営業メールも届いていなかった。心配になり総務担当者にメールを送ったが、送信直後に画面に「ERROR誤り」の「ALARM警告 」が出た。おかしいのはメールだけではなかった。会社が費用を支払うと聞いていたホテル滞在の費用は滞在二日目の朝にホテルの受付に呼び止められ支払いを命じられた。その時は日本側で支払いの不手際があったと思い自分で支払った。岩澤は到着初日、ホテルのロビーで会社から聞いていた香港生活の世話役という人物を待った。初日、その人は現れなかった。二日目、きっと初日は都合が悪かったのだろうと思い、再び初日に待ち合わせをした時間にロビーで待っていたが、無駄だった。三日目はホテルの受付に頼んで世話役の電話番号に繋げてもらったが「使われていない番号」だった。メール送信のERROR誤り、ホテルからの滞在費の請求、世話役の約束の反故。いや、初めから世話役という話もなかったんじゃないか?再び岩澤はホテルの受付に呼び止められ、いつまで滞在するのか?滞在延長するなら先にお金を支払って欲しいと強い口調で言われた。岩澤はホテルの部屋に戻り何かおかしいと思いながら、財布に入っている残りの一万円札の数を数えた。

岩澤「今はもう不安しかない。雲呑麺わんたんめんも喉に通らねぇ」

 岩澤の心持ちは希望から疑心暗鬼へと変わった。岩澤は思い出した、香港赴任の話が社長から俺にあったときのこと。

社長「今、この記事読んで、うちの社の者で世界と戦えるのは岩澤くんしかいないと確信したよ、将来、国際部の責任者になってもらいたいと考えている」

 岩澤は眼をつぶった。ニヤついた表情の社長の顔が目の前に浮かぶ。

岩澤「くっそ〜、俺が香港で拠点を作るって話、誰が聞いてもママごとみてぇな話だよな」

 会社に飛ばされたという可能性を考え始めると岩澤は何も手につかず、その日はずっと九龍かおるーん半島から香港島の景色を眺めて一日が終わった。

岩澤が眺める香港の風景。しかし岩澤の眼中には香港赴任を持ちかけた社長の姿が浮かんでいる。

 岩澤は宙に浮いた状態になった。会社と連絡は取れない、ただ、日本にすぐ帰国すべきかどうかも分からなかった、ただ、気分が沈まないように毎日外に出るように心がけた。せっかく香港に来たのだから何も知らずに帰国するのはもったいないという気持ちも少なからずあった。そして、香港到着してからの三日間が何かの間違えであって欲しいという願望もあった。岩澤はしばらく香港に滞在するためにホテルの支払いを済ました。
 ホテルの受付に置いてあった折り畳みの香港の地図を部屋に持ち帰り、探索するスポットや散歩コースを練るのが岩澤の日課となった。毎日外に出た。海近くの公園やハイキングコースを歩くこともあった。ある時、公園を歩いているとベンチに座っている高齢の男性と眼が合った。その公園には何もせずただ座っている老人が三十人以上はいただろう。香港は高齢者が多いのだろうか?それとも香港の高齢者の習慣なのだろうか?岩澤と眼が合った老人は、英字新聞を読んでいた。岩澤は日本の公園で英字新聞を読む人に遭遇したことは無かったし、岩澤も英字新聞を香港に来るまで読んだことが無かった。岩澤は社長から香港赴任の誘いがあった日のことを再び思いだした。いや、もう頭から社長のことが離れなくなっていた。今、冷静になって考えると馬鹿馬鹿しく思える提案だったことに気づかなかった自分に情けなかった。

岩澤「そもそも外国語も話せない俺が国際部っておかしいよな?なんで香港赴任の話があったとき、『社長、それは医師免許を持ってない人間に手術をやれと言ってるようなもんですよ』って言えなかったんだろう」

 もう手遅れだが岩澤は、香港赴任の誘いが社長からあった時に即座に『YES! 岩澤クリニック!』と言ったことを大いに後悔した。当時、同期の大保にこの話をしたら「精神病院行ってこい!」って言われた。香港は外国語も話せない、海外経験ゼロの岩澤が行く場所では無い、そんなことも分からないのかとあしらわれた。大保は俺の海外赴任に嫉妬しているかと思っていた。
 昼下がりの公園は太陽の日差しが強く岩澤は少し汗ばんでいたが、気付かなかった。後悔の念が先立って、吹き出る汗すら気にならなかった。そんな時、前方から一般人と雰囲気の異なる男性が岩澤の方に向かって歩いてきた。

岩澤「これ絶対絡まれたらダメな奴だろう」

 岩澤は男から離れようと歩く方角を変えた。すると、その男も岩澤と同じ方向に歩く方向を変えた。岩澤が再び逆の方向に歩いた。すると男も角度を変えた、もう男との距離は5メートルも無い。男が岩澤の目の前で止まった。

男「岩澤先生呀んがざっしんさんあ?」(岩澤さんですか?)

年齢、国籍、職業、話す言語、思考パターン、通っているクリニック、全てが謎の男性。

岩澤「ん?」(何なんだ一体?なんて言ってるか分かんねぇ)

男「你好ねいほう你係唔係岩澤先生呀ねいはいむはいんがざっしんさんあ?」(こんにちは、あなたは岩澤さんですか?)

岩澤(どうしよう、俺は地元民と思われているのか?)「I am Japanese僕は日本人です

男「私、タモリです、知ってまーすか?」

岩澤「日本語しゃべった!タモリ?」

男「Do you know who I am?僕が誰だか分かる?

岩澤「英語?」

男「だって、イワッチが飛ばされたと聞いたから」

岩澤「イワッチ?俺のこと、知ってる?えっ、あなたは誰ですか?」

岩澤「ん?飛ばされた?」

岩澤の人生でこの時ほど「飛ばされた」という言葉が頭の中を駆け巡ったのは最初で最後だった。

男「残念だけど飛ばされたのかな、香港に。会社はイワッチのこと、必要無いと判断したみたい」

岩澤「えっ、誰が言ってました?」

男「大保」

岩澤「大保ですか?」

男「大保が話してたぞ、『岩澤は、香港に島流しされたんですよ、いや、単純に左遷という話じゃないんだ、実はあいつは自ら進んで岩澤クリニックに駆け込んだんだよ!あいつの症状は、見た目は元気そうだけど、実はけっこう重症よ、一番深刻な症状は、”自意識のたるみ”、これが治らないことには、どうにもならない。みんなも知ってるでしょ、あいつがおもしろ小話盗人のこと。俺が話した面白い話を岩澤の奴、自分があたかも体験したかのように、自分のネタかのように、他の人に平気に話してんだから。意識的にやってるのか、無意識でやってるのか、分かんねーレベルよ。『お前、ボケてんのか?』って聞くにも聞けねーよ、だって俺と同期だから、まだ30歳前後だぞ。普通、自分が話した話を、他人からもう一度、聞くなんてありえねぇーよな、でもそれが起こりうるってのが、岩澤って男よ。
 しかも、何が罪かって、自分のことをオモロいと思ってんのよ、全然面白く無いのに。俺の話をパクる、それは、もう、しょうがないとしよう。自分で面白いこと話せないんだから、それは、まあ、許してやる。けどさー、自分のことオモロいと自覚しているのは、もう、重症よ、これがもう、橋にも棒にもかからん奴の真実よ。大袈裟な動きをすれば何でも面白いと思ってるか分からんけど、わざとらしい身振り手振り、何も面白くないアレンジを加えてさ、おもしろ話を披露しようとするのよ、”お前の勝手なアレンジで素材の味、ぶち壊してますから!”って声を大にして言いたいよ、おーい、岩澤〜、香港にいる岩澤、聞こえてるか〜、俺の言ってること、岩澤の奴、身に沁みて沁みてしょうが無いだろ?とにかく、始末悪いでしょ、あいつ、結局、何も考えてないのよ。 
 あー、今思い出しても腹立つー、もう一度言うけど、あいつ、俺に話してくるんだよ、俺が岩澤にした話を!何度も。しかも得意げに!しかもオチの話し方が下手くそでオモロくない感じになってるのもイラつくし、真似るなら徹底的に真似ろや!って怒鳴ったことが一度だけあるかなぁ〜、だいぶ昔に。もうきっと忘れていると思うけど、あいつのことだから。すぐ忘れるんだ、あいつ。そんでいつもケロッとしてますから、何が起きても。俺が、岩澤のことを『お前は、どんなことが起きてもケロッとしているから、けろけろけろっぴと呼んでやる』と言った翌日に、岩澤は隣の席のどんなことが起きても神経質に反応するやつに『お前は、どんなことが起きてもケロッとしているから、けろけろけろっぴと呼んでやる』ってカエルの跳ねる動きを一分間、ずっとしてましたからね、「けっ、けっ、けっ、げろけーろ、けっ、けっ、けっ、げろけーろ」って謎のリズムも付けて。途中、中途半端に、しゃがんだり、足伸ばしたりしてねぇ、もうねぇ、岩澤の姿を見てられなくなってねぇ〜、あんなのオフィスで平気でやられると。そんで、跳ねてる岩澤の横では会社員がパソコンに向かって普通に、ワードかエクセルかわからんけど、真面目に打ち込んでるんすよ、文字を。真夏だったけど、岩澤の意味不明のリズムと岩澤カエルの跳ぶ姿を見た瞬間、ぶわって、本当にぶわって全身鳥肌が立ったからね、ホラーだわ、悪夢だ、あれは。岩澤は人を笑わそうとしてるけど、その真逆、恐怖を生み出してたんですよ、ねぇ、だんだん想像できるでしょ、岩澤がどう言う男か、自分の視点からしか世界が見えてないんですよ。
 あと岩澤は自分に甘いから、ヒアルロン酸の代わりに”辛酸”の注入も必要だろ、絶対必要、これ、なんなら年間プランでもいいぐらい、1ヶ月に1本注入の年間12本、プラス2本、合計14本のお得プランね。こんなコスパ半端ないプランが業界で発売されたら、美容モンスターどもが飛び付くんじゃねぇか?でも勘違いしないでね、これは注入して、頬をパンパンに膨らます治療じゃなくて、灸据えプランだから。岩澤の頭から「甘え」を締め出す療法ね、”辛酸”の注入だから。
 最後にエイジングケアならぬ”アンチ天狗ケア”。分かるでしょ?あいつすぐ天狗になっちゃうから、岩澤の勘違い症状を徹底完治する治療。でも、天狗って言っても有頂天になる方の天狗ですから、勘違いしないでくださいよ、いや、もしかしてそっちのケアも必要かもしれない?それはもう、岩澤本人に聞いてください、意外とアイツ『俺の天狗、実は去年から深刻で橋にも棒にも掛からないんっすよ〜』なんてほくそ笑みながら訳分からんこと言うかもしれん。どうでもいいわ、そんなこと。ほんと、くだらんわ。だからこそお前の天狗にも灸を据える必要があるってことよ、アチチチって言わせたろうか?笑
 まぁ、岩澤クリニックは、岩澤自身の様々な問題を根っこから治療して症状の再発を防止出来るかな〜、でもそれはクリニックの技量次第かな〜、だって岩澤クリニックは、岩澤のために存在してるんでしょ笑 でも担当医は岩澤でしょ、そんなの絶対治らんよ。「急がば回れ」って言葉あるでしょ、急いでるときは、危険な近道を選ぶんじゃなくて、遠回りになるけど、安全な道を選んだ方が、結局、早く到着するという話、でも「急がば岩澤クリニック」は、早く病気を治したいとき、即効性のある、効果的な療法を選ぶんじゃなくて、全く効果が効かなくて、さらに症状が悪化するという選択肢を選ぶこと、つまり、考えうる最悪の選択をしたという意味を指すのが「急がば岩澤クリニック」、これ、人生の教訓として覚えといてください、テストには出ないけど、世の中で生きていく上で大事ですから。もう一度、言いますね、「急がば岩澤クリニック」、もうあなたも忘れることはないでしょう、こんなにしつこく言いましたからね、はい笑
 あと、岩澤クリニック、コスパはいいかな、治らんけど笑 はははー
岩澤の今回の岩澤クリニックで掛かる費用全部、解雇手当で賄えるんじゃないの?ははははー』だってよ」

 岩澤は男から大保の話を聞いてしばらく黙っていた。岩澤は大保が、あの大保が得意げに、そして自信に満ち溢れた様子で語っている様子が一寸の狂いなく目の前に再現出来た。俺が小話界のキング、俺を差し置いて、誰が俺より、面白い話を話せるのだろうか?そんな大保の姿だ。岩澤は謎の男から大保の話を聞いた直後、大保の過剰なほどの自信と岩澤に対する嫌悪が香港にまで届いてきてるような気さえしてきた。岩澤クリニックの費用を解雇手当で賄う?急がば岩澤クリニック?天狗に灸を据える?岩澤の腹の中で煮えたぎるものがあった。

男「どうした?大丈夫か?」

 男は岩澤の眼が揺れ、体がわずかに震えている様子をサングラス越しに静かに観察した。

岩澤「あなた、日本語、ペラペラじゃないですか!えっ、大保のこと知ってるんですか!?あなたは何者ですか?!」

男「岩澤クリニックの受付の森田です」

岩澤(クソっ、みんな俺のことを馬鹿にしてやがる、こんなヤクザな格好をしたクリニックの受付がどこにいるか!どちらかといえば、岩澤クリニックの患者の方だろ!)

岩澤は一度、冷静になろうと努めた。

岩澤「森田。。。えっ、日本人?森田さん。。。さっき、タモリって言ってませんでした?僕はもう会社には必要ない人員、だから香港に飛ばされた、そういうことですか?」

男「イワッチ、もう元の世界には戻れない。だから俺は今、ここにいるんだよ、Welcome to Hong Kongようこそ香港, 歡迎光臨ふんいんぐぉんらむ

 男は空高く伸びる高層ビルを指差した。

男「イワッチも香港で成功して将来、あのビルの最上階にいるかもしれないな、どうだ?そう考えると愉快で無限の可能性が拡がってるだろ?ハッハッハッー」

 男は豪快に笑い声をあげながら岩澤の元から去っていった。

 岩澤はしばらく高層ビルの一番上を眺めていた。

岩澤「高けぇーな、香港のビル、なんで香港のビルはこんなに高いんだろう?」

 その時、ある人物は岩澤をある場所から見ていた。

 岩澤が眺めている高層ビルの最上階のオフィスから一人の女性が眼下に広がる公園を見つめていた。

美味餃子妹ヤムヤムギョウザガールの店員兼CEOで元女優「とうとう岩澤が香港に来たのね」

 岩澤は何も考えることが出来なかった。前に歩むべき道を見失った岩澤は海に向かった。海辺から香港の景色を眺めると不思議と心が落ち着いた。海、密集した高層ビル群、その背後に迫る山。シンプルで、大胆な景色。この中に香港の全てがあると思うと不思議だった。

岩澤「さっきの人、なんか色んな言葉を話してたな」

 岩澤はその日は早くホテルに戻り、再び手持ちの現金を確認した。俺はいつまで香港にいるんだろうか?岩澤は男が話していた言葉を調べた。

歡迎光臨ふんいんぐぉんらむ、これは「ようこそ」という意味か!

 岩澤は中国語には普通語と広東語、それ以外にも中国には多数の言語があることを知った。そして香港で使われている言葉は広東語だと分かると岩澤は一心不乱に広東語について調べ始めた。外は太陽が沈み、窓は暗くなっていた。岩澤は部屋の灯りを点けた。岩澤はその日、夜が明け再び部屋に太陽の日差しが差し込むまで机に向かっていた。

岩澤「大保の奴、ちくしょー、岩澤クリニックを完全に遊び道具にしやがってよ、何が『自意識のたるみ』だ、調子乗りやがってよ、今度、エラ呼吸野郎大保に出くわしたら、えら呼吸の部位を大根すりおろし器で削り落としてやらぁ、『ごめんなさい、ごめんなさい』って泣きついてきても絶対許さねぇからな。大保の奴、えら呼吸の機能を活かして、故郷の海に戻って海ん中で職探しでもしてろっ話なんだよ、あいつ、味音痴だから水中でユラユラ揺れてるワカメでもとりあえず、齧っとけば生きていけるしょ、つーか大保の悪口言い始めたら止まんねーな、もしかしたら、香港の海に釣り糸を垂らしたら大保の奴が引っ掛かるか?口にじゃなくて、エラの部分に針が引っ掛かるかもしれねーな、はっはっはっー、『エラに針が引っ掛かって、呼吸出来ましぇーん』なんて言わせねーぞ、釣り上げられる前にせいぜいえら呼吸の部位をダンベルか何かで徹底的に鍛えておけよ笑 それじゃますます、エラ骨が目立って電車の乗員に言われちゃうよな『すいません、お客様、魚類の方にはご乗車を遠慮してもらってます』って、どうせ飛行機にも搭乗できねぇんだから、泳いで香港までくりゃいいんだよ、ははははは」

 岩澤の日課だった街歩きが突然、止まった。体の調子がおかしい。もしかしたら大保の悪口を言い過ぎた罰かもしれない。身体全体に上からダンベルが載っているようで重苦しく、しかも何かに締め付けられているようで、ベッドから起き上がれない。身体も問題だったが、より深刻なのは精神だった。あわゆる事に対する意欲が底なしの沼に抜け落ちた、そんな感じだった。排泄行動すら億劫になった。会社から捨てられた、という事実を脳が上手く処理できず、身体が不調になり、それが意欲の発生を歪めているのかもしれない。意欲の源泉って何だ?そんなことを岩澤が考えたのは、数日振りに自分の顔を鏡で見た時だ。ヒゲは伸び、血色悪く肌は土色、頬は痩せこけていた。鏡に映った我を見て岩澤はとりあえず、食事しようと外出を決めた。

岩澤クリニックを結構、気に入っている岩澤
「やっぱり岩澤クリニックで栄養注射が必要かな?
ねぇ、にんにく注射って本当ににんにく使ってる?にんにく注射って、身体が臭うの?
でもさー、にんにく注射っていうネーミングさ、もろ刃の剣だよね」

岩澤は朝なのか、昼なのか、それとも夜なのか分からなかった。

岩澤「何日、飯を食べてないだろう」

 洗面所で全裸になりシャワーを浴びた。しばらく何も食べなかった岩澤の体は少し貧相になっていた。頭をポリポリと掻き、手に持っていたシャワーヘッドを固定させた。熱いお湯が岩澤の髪、身体に降り注ぐ。それにしても、いつ振りだろうか?岩澤はシャンプーで髪をしっかり洗い、体全身を泡たっぷりでキレイに洗い流した。体をタオルで拭き、岩澤はカーテンを開けた。まだ街は暗かったが、雲と雲の間から陽がこぼれうっすらと青空に変わっていた。

 岩澤は数日振りに着替え、ホテルの外に出た。
 ホテル近所の飯屋を数軒廻って最終的に日本の昭和喫茶とは違うが、どこか古風な雰囲気で香港式の大衆食堂のような幅広いメニューを提供する飲食店、茶餐廳ちゃーちゃんてんに入った。

岩澤はお店のスタイルはもちろん、茶餐廳ちゃーちゃんてんという言葉の響きも気に入った。

 店には朝食メニューや一日通しのメニューもあったが、岩澤はランチメニューのカレーを注文した。カレーは岩澤にとって馴染みがあったので安心してオーダーが出来た。店内は家族連れや新聞を読んでいる老人、また学生風の男性が読書したり幅広い層の客がいた。店の外のカウンターではパンを販売しており、時々、通行人が買い求めてレジの人に話していた。きっと、パンの購入のことで話しているのだろう、ただ岩澤は客と店の人が何を話しているのか理解出来なかった。お客とお店のスタッフのやりとりを眺めているとカレーがテーブルに届いた。岩澤は驚いた。カレーはテーブルに置かれたというより、軽くテーブルに投げられたかのように、ドンとテーブルの上に載った。岩澤は慌てて店員の顔を見ようと見上げたが、すでに店員はテーブルを離れ、男の白い制服の背中しか目に入らなかった。

岩澤「カレーを食べる安心感、セコム超えてんなぁ」

 雑にカレーがテーブルに置かれたことはどうでも良かった、店員がテーブルにカレーを置いてすぐ、突然、岩澤の対面の席に知らない男が座ったのだ。

世界中でゲリラ戦を展開し一人で勝ち続ける地球上で神出鬼没のハマグチ。
ハマグチ「僕、岩澤クリニックのメール室の担当」

ハマグチ「あかん、あかん、あかん、そんな表情してたらあかんよ」

 岩澤はスプーンを手に持とうとしたが、やめて、目の前に座った男の顔を見た。

ハマグチ「岩澤さんでしょ?」

 岩澤は過去に会ったことがある人か必死に思い出そうとしたが、思い出せない。

ハマグチ「今日、伝えたいのはこれだけ、学ばない。これだけ。学ぶんじゃなくて、小ちゃな自分に教える、これやねん」

やはり、俺はこの人を知らない。

岩澤(”学ぶんじゃなくて、小ちゃな自分に教える” 。。。なんの話やねん?)

ハマグチ「聞いたで、辞めるんやろ、仕事」

岩澤「え?」

 香港に来て全くの他人から仕事のことを聞かれるの、これで二度目。どうなってるの?

ハマグチ「仕事、つくったらええやん、いろいろ考えるより、何でもええから仕事をはじめちゃったほうがええ」

岩澤「仕事をつくる?」

ハマグチ「いや、ぜんぜんそれですわ、うん、ぜんぜんそれですわ」

岩澤「でも、どうやって?」

ハマグチ「何でもええから仕事をはじめて自分の居場所をつくっていけばいいねん」

岩澤「はい。。。」

ハマグチ「そっちのほうが、人生おもろい思うわ、『岩澤クリニック』、どう?とりあえず、香港で始めたらええやん」

 満面の笑顔でハマグチが岩澤に語りかけている。

ハマグチ「まあ、どんなクリニックにするかは、岩澤さん次第やけども」

岩澤「えっ、『岩澤クリニック』を知ってる人ですか?それ知ってるということは、かなりの岩澤通の人ですよ、この『岩澤クリニック』の件はその筋の人じゃ無いと知り得ない情報ですよ!」

岩澤は謎の男、ハマグチの顔を見て

岩澤「すいません、お名前は?どちら様ですか?」

ハマグチ「ハマグチ。アポが入ってるから、ほな」

 滞在時間はたったの一分。いや、一分も居なかった、男はその場所から去っていった。

岩澤「何なの一体?誰?」

 するとさきほどのハマグチと名乗った男性がが小走りで岩澤の方に戻ってきて、耳元でささやいた。

ハマグチ「香港に来たのは君だけちゃうで」

あと最後にハマグチはとびきりの笑顔で一言残した。

ハマグチ「何もせえへんまま、じっと動かんとおったって、何にも起これへん、ほな」

再び男が去ると、岩澤はため息をついた。分からん、この状況。

岩澤「とりあえず、カレーを食べるか」

 岩澤は茶餐廳ちゃーちゃんてんでカレーを食べ終えると、一度ホテルに戻った。ホテルの部屋の洗面所の鏡に映った顔には少し精気が戻っていた。

 岩澤はホテルの窓から香港の街を眺めた。よく晴れた快晴だった。ホテルに戻ってくる時、ホテル前の道路にはスーツケースを持った旅行客が大勢いた。ホテルのエントランスでは従業員が旧正月を祝うデコレーションの準備に取り掛かっていた。エントランスのすぐ横に金柑のような黄色い実がなっている植物が配置され、赤色の提燈が天井に装飾されていた。日本の元旦しか知らなかった岩澤は、世界には異なる祝福の文化があると知ってなんだか嬉しくなった。まだまだ知らない世界がある。そんな想いで新年を祝福する香港の街を見ていた。

岩澤「そういえば、なんだったんだろうか、さっきの人は?」

 食事の後、街を散歩をして久しぶりに体を動かした岩澤に急に眠気が襲った。窓のカーテンを閉めて、岩澤はベッドに寝っ転がった。

「香港に来たのは君だけちゃうで」

 眼を閉じた。体は疲れているはずだったが、ハマグチの言葉が残した言葉が気になり最後まで眠れなかった。眠れなかった理由は他にもあった。どうやら、いや、どうやらじゃない、会社から必要ないということを消化できていない。

岩澤「あのハマグチって人、めちゃくちゃだよな、岩澤クリニック、どうって?岩澤クリニックって実在しない想像の産物なんだけどな」

 岩澤はあの一分にも満たない、ハマグチと過ごした僅かな時間を思い出し、何度も何度もハマグチの言葉を反芻していると、だんだん切実な想いが脳の奥の方から現れてきてるような気がしてきた。

「まあ、どんなクリニックにするかは、岩澤さん次第やけども」

 岩澤は突然、ベッドから勢いよく飛び上がり、デスクに向かった。

 ホテルのエントランスから出てくる旅行客であろう家族連れやカップルを道路脇からある女性が眺めていた。

女優EMIKO「あら、ドスケベ役の岩澤さん、今日は香港ロケの撮影、お休みかしら?」

 岩澤の部屋のカーテンが閉まると、女優EMIKOは、高層ビルが乱立する中環せんとらるへ向かって歩き出した。

女優EMIKO「私も岩澤クリニックで一年12本+2本プラスの”辛酸注入 年間お得プラン”を
お願いしちゃおうかしら🎶  コラっ、岩澤、私に何言わせてんの!」