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『地獄の黙示録』の心臓〜極端な偏見で始末せよ

 ウィラード大尉はナ・トランの司令部に呼び出される。
 そこで三人の男に迎えられる。若い将校と年配の将校、そして軍服でなくワイシャツ姿の男だ。右襟の階級章から判断すると、若い将校はカーツと同じ大佐であり、年配の将校は大佐より二階級上の中将であることが分かる。ワイシャツ姿の男は諜報機関の関係者、おそらくCIAの局員という設定なのだろう。脚本には“civilian(非軍人、文民)”と書かれている。

ハリソン・フォード演じる将校。襟章から階級は大佐、
右胸のネームタグから役名が「ルーカス(LUCAS)」であることが分かる。
ジョージ・ルーカスへの謝意であろう


将校の右胸のネームタグから役名は「コーマン(CORMAN)」である。
コッポラの恩師ロジャー・コーマンへのオマージュだろう。


 二人の将校はカーツ大佐の情報をウィラード大尉に与える。
 カーツ大佐はベトナムとの国境に近いカンボジア領内のジャングルに引きこもり、山岳民族や少数の部下から「神」と崇められている。そして軍の命令を無視して彼等と共に独自の軍事行動を展開しているという。
 ウィラード大尉は
“terminate the colonel's command.(大佐の指揮権を断て)”
と命じられる。しかし二階級も上の大佐の指揮権を奪う権限がウィラードにあるわけがない。だからウィラードは聞き返すのだ。
“Termainate…… the colonel ? (断つ……大佐をですか?)”
中将はさらにカーツ大佐の異常性を説明する。そしてそれまで一言も発しなかった私服の男がウィラード大尉をぎろりと見据えて命じる。

“Terminate……with extream prejudice.”
 
 これはどういう意味なのか。日本語字幕では、
「抹殺しろ……私情を捨てて」
と訳されている。
小説家の村上春樹はこのセリフを
「断ち切るのだ……極端な偏見をもって」
と訳した。〈雑誌『海』の連載「同時代としてのアメリカ」(1981年)による〉

 “terminate”はシュワルツェネッガー主演の映画
『ターミネーター(The Terminator)』(1984年)によって日本人にも馴染み深くなった単語だが、本来は「終わらせる、打ち切る、解約する」といった意味で物騒なニュアンスはない。

 “ with extream prejudice ”とは直訳すれば「極端な偏見をもって」となる。立花隆によれば、これはアメリカでも日常生活ではまず聞かない表現だそうだ。
ところが“without prejudice”と言えば、これは一種の法廷用語であって
「偏見を持たずに、公正に、公平に」という意味だそうだ。
すると“with extream prejudice”には「公正な裁判など無視して、法廷外で」というニュアンスがあるのかも知れない。

 実はこの“Terminate with extreme prejudice.”という言い回しは、ベトナム戦争当時、アメリカの軍や諜報機関で実際に使われていた、暗殺を婉曲に意味する隠語なのだ。

 婉曲に仄めかす表現なのだから「抹殺しろ」という日本語字幕では直接的過ぎるだろう。さらに「私情を捨てて」という訳も意味不明だ。「偏見をもって」だから「正しいか否かの自分自身の信念は無視して」つまり「私情を捨てて」と訳者は考えたのだろうか。結論としては暗殺を仄めかすが“terminate”という単語の平凡な語感と“with extream prejudice”という非日常的な響きを表現するためには村上春樹のように「断ち切るのだ……極端な偏見をもって」と訳す方が適切だと思う。

カーツ大佐


 またこの場面には、カーツ大佐にはベトナム人諜報員を自ら処刑した殺人罪により逮捕状が出ている、というセリフがある。これは映画の為の作り話ではない。実際にあった事件を基にしている。
“terminate with extream prejudice”という言い回しもその事件の報道記事によって知られるようになったのだ。

 1969年、アメリカ陸軍の特殊部隊、グリーンベレーのロバート・ブラッドリー・ロー(Robert Bradley Rheault)大佐はベトナム人諜報員を独断で処刑した罪で軍法会議に掛けられ辞任した。いわゆる「グリーンベレー事件」だ。
ロー大佐は彼らを二重スパイと判断し、部下に命じて殺害させたのだ。このときロー大佐が部下に対して命じた表現が
まさに“Terminate with extream prejudice. ”だったのだ。

 現実ではアメリカ軍人がベトナム人を暗殺するのに使った表現がここでは逆にアメリカ人将校を暗殺する指令として使われている。

 コッポラの音声解説によると、脚本を書いたジョン・ミリアスはライフ誌の記事を参考にしてこの場面を書いたという。

2013年、ロー元大佐はメイン州の自宅で他界した。87歳だった。
 

ロー大佐、事件を報じるライフ誌1969年11月14日号の表紙


ロー大佐(中央)
ロー大佐

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