見出し画像

『スパイのためのハンドブック』読書感想文

 『スパイのためのハンドブック』(ハヤカワ文庫、初版1982年、原著出版1980年)は、スパイになって功績を収め、なおかつ無事に引退して余生を送るためのハンドブックです。



 もちろん真面目な意味での手引き書ではありません。軽妙なタッチで(本文で仄めかされているようにゴーストライターの力を借りて)書かれた娯楽本です。
 本書の稀有な点は、著者が実際に大きな業績を残した実在の秘密情報部員だという事です。

 著者、ウォルフガング・ロッツはイスラエルの情報工作員でした。1967年の第三次中東戦争(わずか六日間で終結したので“六日間戦争”とも呼ばれる)でのイスラエル勝利に多大な貢献をしたと言われています。ロッツが位置を報告したエジプトの軍事施設をイスラエルは集中的に爆撃したのです。

 ロッツが活動したのは1960年代と古い話ですが、彼が語るヒューミントとしての諜報活動の実態は2024年の現在にも通じるものがあります。また、細部の描写や具体例には想像では発想できないようなリアリティと説得力があります。

 ロッツは子供の頃に母親と一緒にドイツからイスラエルに移住しました。父親は生粋の“アーリア人”だったので、ロッツの顔立ちはいわゆる“ユダヤ人”らしくない容貌でした。割礼もしていませんでした。

ウォルフガング・ロッツ



右側の女性はロッツの妻と思われる


 イスラエル陸軍に務めていたロッツは、体力の衰えを自覚し始めた頃にスカウトされて情報工作員になりました。
 訓練期間を経るとエジプトに潜入します。ロッツの偽装はなんと、“カイロで乗馬クラブを経営する裕福な西ドイツ人実業家”というものでした。しかもナチス親衛隊員だったとさえ仄めかしました。華やかで派手なロッツの偽装はおよそ「秘密工作員」とはかけ離れたイメージでした。

ロッツ(左端)そして妻と思われる馬上の女性



 陽気で社交的な人物を演じて毎晩のように自宅でパーティーを開き、役人、政治家や軍人さらには情報部員さえ招きました。併せて彼らに賄賂や高価な物品を贈ってエジプトの社交界に食い込みました。莫大な必要経費を請求するロッツに対し、君はシャンパンの風呂にでも入ってるのか?と本国の長官は皮肉を言いました。しかしロッツの功績を認める長官は全ての請求を承認するよう担当者に命じたそうです。後にロッツが逮捕された際には同時に150人以上のエジプト人役人と軍人も収賄や情報漏洩の罪で逮捕されたそうです。いかにロッツの工作が功を成していたかが分かります。

ロッツの自伝『シャンパン・スパイ』の表紙



 当時、エジプトはイスラエルを攻撃する為に弾道ミサイルの開発を画策しており、外国人研究者を雇い入れてました。
 ロッツはこのミサイル開発を妨害する為に協力研究者たちを脅迫または暗殺しました。エジプトから彼らに手紙爆弾を送り付けたのです。
 ある研究者の秘書は手紙爆弾によって失明しました。後年ロッツはあるインタビューで彼女の失明の責任を問われると、研究者本人が開封するように「親展」にした、それにもかかわらず彼女が開封したのは彼女が研究者と不倫関係にあったからだと説明しました。
 

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集