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片岡球子 面構展 ゲテモノ性貫いた本物

「ゲテモノにすぎない」。美術の現場でたびたび耳にする批判的常套句である。それが高度な技術や思想性を重視する基準と表裏一体であることは明らかだ。だがイラストレーションにおける「ヘタウマ」が示したように、わたしたちの心を豊かに満たすのは、技巧やコンセプトを練り上げた作品とは限らない。

神奈川県の平塚市美術館で「片岡球子 面構」展が開催されている(現在は終了)。展示されているのは、「面構」シリーズを中心に29点。足利尊氏や葛飾北斎ら、歴史上の人物を描いた日本画が立ち並んだ展観は壮観である。

注目したいのは、それらが片岡独自の日本画として完成しているように見える点だ。事実、それらは構図の面でも色彩の面でも大胆不敵。優美でたおやかな日本とはじつに対照的である。とりわけ「面構 国貞改め三代豊国」(1976年、神奈川県立近代美術館蔵)は、背景に文様を大きく広げることで、微細に描き込んだ着物の柄との有機的な調和をもたらした傑作だろう。ダイナミックな遠心力と繊細な求心力を同時に体現するところに片岡の真骨頂がある。

従来の日本画を更新する新しい日本画──。片岡が歩んでいたのは日本画のアヴァンギャルドの道だったと言えよう。けれども片岡はその歩みを止めて様式を完成させることは、ついになかったように思う。

「面構」には画中画を描いた作品が少なくないが、それらの大半は明らかに失敗している。なぜなら本物と比較されることを余儀なくされるがゆえに、片岡の技術的な稚拙さが強調されているからだ。ゲテモノ性がありありと浮き彫りになっていると言ってもいい。

しかし見方を変えれば、それは片岡が様式の完成を自ら拒絶していたことの表れとも考えられる。様式を完成させれば本物になることもできよう。だが、ゲテモノを自認していた片岡は本物になることを自ら戒めていたのではなかったか。

様式の確立と破壊、そして再構築。その終わりのない歩みこそ、真の意味での「本物」なのだ。

初出:「朝日新聞」2017年11月21日夕刊4面


片岡球子 面構 神奈川県立近代美術館コレクションを中心に
会期:2017年9月30日~11月26日
場所:平塚市美術館

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