ハーバード見聞録(59)
「ハーバード見聞録」のいわれ
「ハーバード見聞録」は、自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。
以下の稿は、ロバート・ロス教授の論文『平和の地政学、21世紀の東アジア』の「要旨と若干の所見」に引き続き、「抄訳」を7回に分けて紹介するものである。今週はその第5回目で「第5節 発火点となる可能性:スプラトリー諸島、朝鮮、台湾」の抄訳を掲載する。
第5節 発火点になる可能性:スプラトリー諸島、朝鮮、台湾(2月27日)
東アジアにおいて、最も著名な争いは、スプラトリー諸島を巡る地域紛争及び朝鮮半島並びに台湾を巡る超大国(米中)による戦争が予測される。これら三つの中で、スプラトリー諸島の紛争が最も深刻ではない。なぜなら、これら紛争の舞台となる諸島は米国が支配する南シナ海に位置し、兵力を投入するに値する戦略的価値があまりにも小さく、巨大なエネルギー資源を埋蔵しているようには見えず、スプラトリー諸島から領有を主張している国々の軍隊を軍事的に追い出すことにより現状を変えようと挑戦することに中国は能力も無ければ戦略的興味も持っていない――という理由による。
スプラトリー諸島に対する中国及び権利を主張する国々による軍事偵察が時々あるかもしれないが、米国の海軍戦力が優位にあることにより、中国の軍事攻勢を抑止するために、米国は急速にエスカレートする必用は無い。
韓国と台湾に於ける紛争は、米中間の緊張を高める原因になりうる。韓国と台湾に於ける紛争は、東アジアの紛争の展望に地勢が影響を及ぼすという規則を立証する上で例外となる。
韓国に於ける紛争は東アジアの中で米国が大陸に軍事的プレゼンスを維持している唯一の場所という理由で、米中間の緊張が高まる原因となる。米国は海洋パワーとして、冷戦間のヨーロッパのように、奇襲に対して脆弱な韓国に地上部隊を配置している。従って、ワシントン政府は、北朝鮮の攻撃を抑止するために核兵器に依存しており、このことが北朝鮮が核兵器を手に入れたいという動機につながっている。それにも拘らず、朝鮮半島における現状維持は45年以上も有効であることが立証されている。米国の核により北朝鮮の攻撃を抑止する政策は、米中間の緊張を最小限にしか高めなかった。なぜならば、中国は、韓国・米国(在韓米軍)との間に北朝鮮という緩衝国を有しており、従って、中国は北朝鮮をけしかけて現状変更に挑戦させるという戦略的な興味は有していない。反対に、重大な国益を満たすために、中国は韓国及び米国と現状維持のために協働している。
朝鮮半島は、バランス・オブ・パワー、或いは米国のシーレーン防衛には重要な要素ではない。冷戦の間、米国・米軍の朝鮮半島におけるプレゼンスにより、ソ連が「日本の心臓部に匕首(あいくち)を突き付ける」事を拒否した。中国は、東シナ海に長大な海岸を有しているので、米軍が朝鮮半島から撤退し中韓間の協力が進展したとしても、日本に対する脅威が増大する可能性はそれ程大きいものではない。まさに、21世紀に於ける中国の外洋艦隊が「贅沢艦隊」であるのと同様に、朝鮮半島における米国のプレゼンス(在韓米軍)も「贅沢地上軍」である。在韓米軍は東アジアの大陸部における米陸軍の前方展開を可能にし、中国の北東部の国境に対する戦力投入に役立つ。韓国は、米国にとって「価値ある財産」ではあるが、「死活に関わる国益」ではない。
日本人が自らの国土に外国軍の基地を有する唯一のアジア人であることに憤慨し始めれば、米国は日本に基地を維持することが政治的に困難になるかもしれない。しかし、この問題は政治的な問題であり、(感情的な)喧嘩腰の政策を要する戦略的問題ではない。
米軍当局は満足しないが、南北統一後、統一政府は米地上軍を朝鮮から出て行くように求める可能性が高いことを認めざるを得ない。南北統一に引き続き、韓国政府は中国とより緊密な関係を構築するかも知れない。しかし、韓国の統一と中韓関係の緊密化によって米国の安全が著しく損なわれたり、力のバランスが不安定になることは無い。即ち、東アジアにおいては、交戦状況(訳者注:現在の休戦協定体制のことを指すものと思われる)は除去され、南北朝鮮間の破壊的な戦争が終了し、そして、大陸パワー(中国)と海洋パーワー(米国)間の戦争の力学が強化されることにより、東アジアの緊張は少し緩和される傾向が出てくる。
台湾問題は、海洋勢力の米国と大陸勢力の中国との間の係争であり、朝鮮半島における係争と同様に海洋・大陸両勢力の係争としては例外的なものである。台湾は、大陸正面の戦域と海洋正面の戦域の両方に跨って位置している。台湾は、島国であるために、ワシントン政府は、中国の地上配備の戦力から台湾を防衛するために、艦船や航空機を含む優勢な海洋戦力を運用することができる。しかし、台湾が大陸に接近しているために、北京政府は台湾による中国大陸への攻撃や主権独立の宣言を抑止するための軍事的な優位性を有している。
朝鮮半島における膠着状態を作り出すためには、北朝鮮の地上戦力の優位性に対し米国の核抑止戦略が必要であるが、これとは異なり、台湾海峡における膠着状態は、相互の通常戦力による抑止により成り立っている。即ち、中国は台湾を地上戦力で抑止し、米国は中国を海洋戦力により抑止している。米中双方の二つの戦域(大陸戦域と海洋戦域)はそれぞれの戦力で防御する方が有利であることから、戦争が生起するリスクは少ない。
更に言えば、朝鮮半島と同様、台湾問題は米国にとって死活的な国益ではない。とはいえ、中国にとっては、キューバが米国の安全保障に占める地位・役割と同様に、台湾問題は死活的な国益である。
米国の台湾に対する支援及び米台間のイデオロギー(民主主義)上の親和性があるにも拘らず、米国の対中バランス・オブ・パワー、あるいは、船舶航行上の利益は米台協力乃至は台湾に対する中国軍のプレゼンスを拒否(中国の台湾進攻を阻止)することではない。
1970年代初めに、米国は台湾との軍事上の協力を、米国の安全を全く損なうことなく終了させた。北京政府が台湾を支配することになれば、米国は中国の沿岸近くに不沈空母を提供してくれる台湾による戦略的協力を中期的オプションから失うことになる。このことは、中国に対する攻勢というオプションからは利便性を失うことになるが、それ程重大な損失にはならない。
米国は依然として日本及びグアムの米軍基地及び東アジア地域諸国の海軍施設に対するアクセスを活用できるので、中国沿岸水域を支配し、中国に対する海上包囲を維持することができる。最悪の場合、中国が台湾を占領しても、せいぜい中国の戦力投射能力が中国南海岸から150マイル東方に伸びるだけのことである。
1995年の台湾の李登輝総統の訪米及び1996年3月の台湾海峡における対決(訳者注:台湾初の「総統」直接選挙に圧力をかけるため、中国はミサイル発射訓練、海・空軍の実弾演習及び陸海空統合演習を実施、これに対し米国は空母二隻を派遣した)は、これらの事件さえ無ければ安定的な米中間の当座の妥協方式の中では、例外的な事件であった。
1970年代初めから1990年代半ばまでの間に、米国と中国は(台湾以外の)他の問題についての協力を最大限に行いつつ、台湾問題に関しては双方が最も重要な国益を維持することを可能にする諸政策を創り出した。この期間に、中国は米国が台湾を戦略的な資源として利用することを拒否した。また中国は、台湾を外交的に孤立させると共に、独立を宣言することを抑止した。従って、北京政府は、中国の主権が台湾に及ぶことを国際的に認知させることに成功している。
米国による台湾に対する安全保障上のコミットメントに直面し(訳者注:米国の台湾関係法(1979年)のことと思われる)、北京政府は自らが主張する領域(台湾)に対する実効的な支配を犠牲にした。一方米国は、台湾に対するコミットメントを維持し、中国の台湾侵攻を抑止し、台湾の民主主義と経済発展に貢献した。ワシントン政府は、台湾に対し、同国に相応しい「面子」と「尊厳」を付与するという権益を犠牲にし、国際政治のうえでは「非政府」というステイタスを受け入れることを強要した。
1997年までに、米中両政府は、この長期に亘り持続する「定式」に立脚して協力関係を再構築し、台湾の指導者達は、国内選挙に於ける圧力にも拘らず、独立に対してより慎重なスタンスを受け入れた。米中両政府は、1995年から1996年の間に起こったような短期間の結果を伴う、米中の利害関係に基づく諸政策(定式)から単発的で短期間の政策上の脱線(事件)が今後も起こりうることを考慮に入れて、今後25年間に亘り台湾問題を管理できるようにしなければならない。