ハーバード見聞録(2)

ボストンへの旅立ち

「ハーバード見聞録」のいわれ 
本稿は、自衛隊退官直後の2005年から07年までの間のハーバード大学アジアセンター上級客員研究員時代に書いたものである。
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2005年6月3日、いよいよハーバード大学へ旅立つ日。妻真理子と娘可奈子のほかに、熊本から熊本市議会議長の竹原様ご夫妻、同期の岩崎君(山田洋行顧問)、陸幕監察官の佐藤将補、陸幕・大場2佐がわざわざ成田空港まで見送りに来て頂いた。人の情けの有難さを身に染みて思い、心から感謝した。
寂しさを紛らわし照れを隠すため、空港内のレストランで即席の宴会を開き、ビールで乾杯した。すっかり出来上がってしまったが、それでも別れ際はなんだか切なく、一人ひとりと握手をし、涙を見せる娘の頭を撫でてやるのが精一杯であった。

10年以上も前の1990年6月、在ソウル日本大使館の防衛駐在官に赴任する際、「お父さんのせいでお母さんと別れ別れにならなければならないのよ!」と泣きながら訴えた娘の姿が重なって思い出された。娘は当時はまだ中学1年生で、母親が必要な年ごろだった。6月末には再び母をアメリカに送ることになっており、いまでは成人しているというものの、またも私のせいで母娘双方に辛い別れが待っているのだ。申し訳ない。

 12時ごろ離陸し、シカゴのオヘア空港経由でボストンへ。オヘア空港での乗り換えの際は、「9.11テロ」の影響でセキュリティチェックが予想以上に厳しく、靴まで脱がされて少々うんざりしたが、それだからこそ安全が確保されているのだと納得した。

羽田からボストン空港まで1万2000キロ余を15時間もかかる。咸臨丸時代に比べれば「アッ」という間なのだが、人間は便利さになれると、すぐにそれでは飽き足らなくなるものだ。

太平洋上空を超えアメリカ大陸を横断する空の旅は長く退屈だった。時速500km/h以上の速度で、半日以上もかけてこれだけの空間を移動すると地球の大きさを実感する。眼下に広がる広大な海原。これこそがアメリカの地政学だ。大東亜戦争で、日本はハワイを奇襲攻撃したものの、アメリカ西海岸までは手が届かなかった。いや、厳密に言えば風船爆弾攻撃と伊十五型潜水空母搭載小型水上偵察機での空襲を行ったのだ。風船爆弾は大陸間弾道ミサイル・ICBM( intercontinental ballistic missile)の呼び名に倣えばICBB(intercontinental ballistic balloon bomb)と呼べるのか。

アメリカの日本本土攻撃の最初は、開戦間もない1942年4月に、B-25爆撃機を航空母艦に搭載し、史上初の日本本土空襲(ドーリットル空襲)を実施した。アメリカは、恐らく日本海軍のハワイ奇襲へのリベンジとしてやったのだろう。ヨークタウン級航空母艦2隻(エンタープライズ、ホーネット)を基幹とするハルゼー提督指揮下のアメリカ海軍機動部隊が太平洋を横断し、本州東方海域に到達してB-25爆撃機16機による片道発艦を行った。 ハワイ奇襲攻撃で空襲部隊の総指揮官だった淵田美津雄中佐同様に、日本奇襲・空襲の指揮を執ったのはジミー・ドーリットル中佐であった。ドーリットル隊は、日本本土各地(東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸等)を空襲し、15機は中国大陸に1機はソ連に不時着した。

これへの報復ではなかろうが、日本軍は登戸研究所で和紙とコンニャク糊で作った気球に水素を詰め、大気高層のジェット気流に乗せてアメリカ本土を攻撃しようとする兵器・風船爆弾を開発した。昭和19年11月初旬から昭和20年3月までに、延べ約9300発の風船爆弾をアメリカに向けて投射したが、そのうちの10%程度に相当する数百個~1000個が、アメリカ本土やアラスカ、カナダに到達したと言われる。オレゴン州では飛来した風船爆弾の爆発により民間人6名の死者を出した他、停電や森林火災を起こし、判明しただけでも全米各地の軍民施設に何十件かの損害を与えた。その一つは、プルトニウム製造工場(ワシントン州リッチランドのハンフォード工場)の送電線に引っかかり停電を引き起こしたが、この時は予備電源により原爆の完成に大きな影響は無かったという。

 私が防衛大学校在学中(昭和41年~45年)、副校長の鈴木桃太郎先生は、よくご自分が登戸研究所で風船爆弾を開発されたことについて自慢話をされていた。ちなみに、鈴木先生のお父様は1910年に米糠からオリザニン(ビタミンB1剤の商標名)の抽出に成功した化学者の鈴木梅太郎博士だそうだ。

 日本海軍の伊十五型潜水空母(常備排水量2,584トン)搭載の小型水上偵察機による米本土攻撃は、昭和17年7月と9月の二度にわたり行われたが、被害は軽微だったという。

 アメリカの地政学は、ユーラシア大陸の東西から見れば太平洋と大西洋の間に浮かぶ「巨大な島」という特徴がある。それゆえアメリカは長距離爆撃機や大陸間弾道ミサイルができるまでは全く安全で、第一次・第二次世界大戦でも、戦火から免れた。

 アメリカ繁栄の源となった戦略――マハンのシ―パワー理論――も、この地政学の所産である。アメリカがユーラシア大陸と交易するには大商船隊が必要で、それを守る大海軍が不可欠となる。アジアに向けての航路――シーレーン――沿いには、これら商船と海軍のための基地が必要となる。さらに、太平洋と大西洋に二分された海軍が有事どちらかに戦力を集中するためにはパナマ運河が必要なのだ。・・・・・退屈まぎれにこんなことを考えた。

アメリカ大陸に差し掛かると一面の雲海の切れ目に大地が見える。その広大な天主の巨大な造形を眺めていると何となく神を身近に感じるのは私だけだろうか。長旅に倦み疲れ切ったころ、ようやくボストン空港に着いた。ボストン空港では到着便からは私の荷物が出てこず、2時間も待って次の便が運んできたトランクを受け取った。「アメリカはスケールが違うんだ。こんなことで一喜一憂するな」と自分に言い聞かせた。タクシーでケンブリッジ市へ移動し、30分ほどで到着。 

 ボーゲル邸は思ったより質素な佇まいであった。日本で鈴木通彦先輩(私の前任者)からいただいた鍵でドアを開けようとしたら突然ドアが内側から開いた。サバティカル(長期休暇)を利用してボストンで研究しておられる筑波大学の溝上千恵子教授だった。教授はボーゲル邸の2回に住んでおられた。教授は、私たち夫婦が住む3階の部屋に案内してくれた。  

その部屋は屋根裏部屋で三本のレンガ造りの柱(ストーブの煙突を兼ねている様だ)に支えられ、屋根の梁が左右対称に白い漆喰のような壁から浮き出ている。

溝上教授が家具、洗濯機、テレビ、照明などについて一応説明したくれた。部屋のしつらえや窓の向こうに見える景色など、日本にはないものだった。その後溝上教授の部屋でお茶をいただきようやく「アメリカに来たな」という実感が湧いた。その後部屋に戻り一人になると、一抹の不安と寂しさが胸の中に湧いた。

【後記】
 成田空港の別れで涙を見せた娘だったが、私がハーバード大学アジアセンターの上級客員研究員で訪米したことで、後に、ハーバード・ビジネス・スクールに留学していた方と知り合い結婚することになるなど、思いもしない展開が待っていた。

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