望郷の宇久島讃歌(12)
第1章 望郷の宇久島
ジャック・アンド・ベティ
●自然一杯の通学路
私が学んだ神浦中学校の学生が通う通学路は島では唯一の県道――唯一、島を一周する未舗装の泥道――であった。幾つかの集落の子供たちが数人のグループでこの県道伝いに登下校していた。県道は土の道路で、その両側は土埃を被った草木があるだけで何の風情もなかった。当時、宇久島に数台あるオート三輪車が通ると晴れた日には白い砂埃が舞い上がり学生服が埃だらけになった。また、雨の日には、泥水がビシャツと撥ね跳んで来て顔も衣服も汚された。子供たちは、泥水の飛沫を防ぐためにオート三輪車が来ると、雨傘を車の方に横倒し、〝楯〟の代わりとして〝泥水の散弾〟を躱した。
私は、余り社交的ではなく、他の子供たちと〝群れる〟のは好きではなかった。だから、学校に通う際は、県道とは離れた自分専用の通学路として、他の子供達が誰も通わない畑や松林の間を縫う3キロ程の狭い野道(農道)に決めていた。
私が通学に使った野道は、野アザミやスミレなど季節の野草が咲いていたし、グミ(アキグミとナワシログミ)、オオイタビ、イヌビワ、ナワシロイチゴなども沢山摘めた。ホオジロや雲雀にも出会うことが出来た。畑には季節ごとに麦、薩摩芋、大豆などが植えられ、日々その成長の様子が観察できた。
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私は、特に麦の成長を見るのが好きだった。晩秋に撒かれた種は数日のうちには芽が出る。他の草木が枯れ行く中、かよわい小さな麦の芽は、冬の木枯らし、霜や雪にもめげず力強く青々と伸びていく。冬枯れの島の風景の中で瑞々しい麦の緑色は、少年の私の心に明日への希望と勇気を与えてくれているような気がしたものだ。
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麦の苗は、春になると、日毎に成長を加速させ、独自の甘い香りを春風に漂わせる。そして、梅雨直前の五月晴れの頃がクライマックスとなる麦秋を迎え、黄金色の麦の段々畑が島中を覆っていたものだ。爽やかに渡る薫風にそよぐ黄金色の穂波を眺めていると、子供心にも人間の力を越えた自然の恵みを感せずにはいられなかった。
その頃になると、期せずしてもう一つの黄金色の自然の恵みが我が家にもたらされた。我が家には数本のビワの木が植えられていたが、どれもたわわに実をつけ、黄金色に熟す旬を迎えるのだった。私は、木に攀じ登って甘い実を思う存分貪ったものだ。私の麦秋の思い出はまるでゴッホの「ひまわり」の絵のように、麦とビワの実の黄金色に染められている。
野道を一人で通学するメリットは他にもあった。今時の若者から「ダサい」と笑われるかも知れないが、私は誰憚ることなく大声で歌を歌った。歌としては、美空ひばりの「港町十三番地」や三橋美智也の「夕焼けトンビ」などの演歌から「夏は来ぬ」、「朧月夜」などの学校の音楽の授業で習う唱歌まで多くのレパートリーを持っていた。今風に言えば、野道は私専用の「カラオケ練習場」だった。
歌と並行して練習したのは、英語の教科書の音読であった。神浦中学校で習う英語の教科書は「REVISED JACK AND BETTY」というものだった。学校で教わる進度に従い、LESSON ONEから順次何度も何度も大声で音読し、暗証した。
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私にとって英語の教科書は単なる英語学習の教科書ではなかった。この英語の教科書には、アメリカ人の豊かな生活と生活習慣・作法などが描かれていた。終戦直後の、僻地・宇久島の貧しい生活環境に比べれば圧倒的にリッチな〝新世界〟を知るうえで最高の資料でもあった。
表紙に描かれた男の子のジャック・ジョーンズ(JACK JONSE)と女の子のベティ・スミス(BETTY SMITH)は共に白人・金髪で、二人とも、足が異常に長くスマートで、颯爽としていた。中学生のジャックは髪を伸ばし、ネクタイを締め、革靴を履いていた。通学するのに、本を左手に一冊持っているだけだった。
それに比べ、当時の私と言えば、黒い学生服に泥に汚れたズックを履き、頭は丸坊主だった。ジャックが本を一冊手に持っているのとは違い、私は英語や数学など何冊もの教科書を詰め込んでパンパンに膨らんだ重い布製の鞄を肩から吊るして通学していた。
神浦中学校のクラスメートは、ジャックとベティのようにスラリとした容姿の子はいなかった。男子も女子も例外なく胴長短足で、ズングリムックリの体形が当たり前だった。また、例外なく真っ黒に日焼けしていた。女子はベティのように長い髪の子はおらず、おかっぱ(御河童)が定番だった。また、ベティのように髪に赤いリボンを付ける子もいなかった。
ジャックの家には自動車があった。当時の宇久島にはまだ自動車はなく、オート三輪車が最新の乗り物として出回り始めていた。オート三輪車が村に来ると、物珍しさに、村中の子供たちはその周りを取り囲んだものだ。オート三輪車が走り出すと、子供たちはその後ろから追いかけた。なぜかは知らないが、私はオート三輪車の排気ガスの匂いを嗅ぐのが好きだった。
ジャックの家には緑の芝生を敷きつめた広い庭があり、その芝生を芝刈り機で刈る場面が出てきた。宇久島には海岸付近や島の中央に聳える城ケ岳の山麓に野芝の原っぱはあったが、自宅の庭に芝生を植えている家はなかった。また、島では芝刈り機など見たこともなかった。島では、草は鎌で刈るのが常識で、私は牛の餌にする草刈が得意だった。
教科書の中で描かれたジャックとベティの親しげな男女の関係は、当時思春期を迎えつつあった私にとっては極めて興味深いことであった。当時の神浦中学校では、クラスメートの女の子と親しげに話したり、連れ立って登下校することなどありえないことだった。
アメリカの食生活については、“What do you have for breakfast?”(朝食に何を食べているの)という質問に対し、“I have bread,butter,fruit for breakfast.”(パンとバター、フルーツです)に続いて“Spread butter on bread.”(パンにバターを塗って食べます)という答えだった。島での朝食は、みそ汁、半麦飯、大根の漬物などが一般で、バター付きパンや果物を食べるアメリカ人は「贅沢で羨ましい」と思った。私はその当時、バターやチーズを見たことがなかった。
ジャックは「Fido」という名の愛犬を飼っていて、「Fido is a tame dog(ファイドウはおとなしい犬である)」というくだりがあり、ダルメシアンに似た優美な洋犬のイラストが添えてあった。宇久島にはFidoという犬の名前などなく、またイラストのような白と黒の斑で耳が垂れた優美な犬はいなかった。
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私は英語の教科書を通じて、アメリカという国・社会に強烈な憧れを抱くようになった。今思えば、これこそ、アメリカの対日占領政策に合致するものだったに違いない。
「REVISED JACK AND BETTY」は、英語の教科書に止まらず、アメリカという未知の先進社会にいての〝情報誌〟という側面があった。私は、この教科書の影響で、宇久島の外のまだ見ぬ新世界――アメリカ――に対して強い夢と憧れを抱くようになった。後に、アメリカのジョージア州にある陸軍歩兵学校に留学したりハーバード大学アジアセンター上級客員研究員になることなど、想像もできなかったことだ。
私は「REVISED JACK AND BETTY」によって、幾分〝アメリカかぶれ〟になってしまった。〝アメリカかぶれ〟は私の他にも現れた。それが瀬尾博典君だった。博典君がハマったのはマーシー・ブレーンの「ボビ―に首ったけ(Bobby’s Girl)」やポール・アンカの「電話でキッス(Kissin' On The Phone)」などのアメリカのポップ・ミュージック(pop music)だった。博典君はラジオから流れる英語の曲をメロディーだけ覚えて、私に聞かせてくれた。私もそれらの曲をラジオで聞いて好きになった。英語では歌えないもののワクワクするようなアメリカの歌は、私の心の中に〝新しい風〟が吹きこんでくれたような気がした。
アメリカ本土とは1万キロ近くもかけ離れている宇久島という小さな島にも〝未知の大国〟アメリカの最先端の息吹がラジオによってもたらされたわけだ。英語の教科書とポップ・ミュージックは離島に住む少年の私に〝新世界〟の扉を開いてくれた。
●雉を手掴みにした話
あれは、中学1年の3学期、歳が明けて間もなくの出来事だったと思う。早春の気配が密かに漂い始めたある朝のことだった。私はいつものように家を出て、まるで二宮金次郎のように、「REVISED JACK AND BETTY」という英語の教科書を音読しながら野道伝いに学校に急いでいた。我が家と学校のちょうど半分くらい位置で、ネズミモチの生け垣に囲まれた麦畑にさしかかった時だった。ふと、生け垣越しに畑の中を覗いて、驚いた。雉だ!しかもほんの近くに色鮮やかな雄の雉がいるではないか。私は咄嗟に立ち止まり、音読を止め、そして屈みこんだ。
畑には、大麦に芽が15センチ程も伸びていたが、雉はその畝と畝の間に、首と胴体を地面に付けて、這いつくばっていた。私は、生け垣の隙間から息を凝らしてしばらくじっと雉の様子を窺っていたが、不思議なことにちっとも動かなかった。雉は、早起きだから今時分眠っているはずもない。しかし、現実には、雉は私から10メートル程の所に、頭を私とは反対方向に向けて、じっとうずくまったままだった。
「雉は、既に僕が近くにいることに気付いていて、隠れたつもりで、麦の畝と畝の間に伏せているのだろうか?」と思った。雉は、人間や犬が近づくと、すぐに飛び立ったり走って逃げたりせず、草陰などに隠れてじっとうずくまったままでいる習性がある。「僕が更に近付けば、すぐに飛び立って逃げるに決まっている。道草を食って、雉に関わるのは止めて、このまま学校に行く方が利口じゃないのか?」と自問した。「いや、待てよ。例え僕に気付いていたとしても、雉の背後から見えないように忍び寄って、一気に飛びかかれば捕まえることが出来るかも知れない。やってみるべきではないか」と考え直した。
しばらく考えた後に、遂に意を決して、雉に近づいてみることにした。右肩から左斜めに下げていた重いカバンをそっと地面に下ろした。生け垣の間から、足音を立てないようにして、そろりと麦畑の中に一歩を踏み入れた。姿勢を低くして、抜き足差し足で雉に忍び寄った。
「ほら、そろそろ飛び立つはずだぞ・・・」と思いつつも、雉から2~3メートルのところまでにじり寄ったが、いっこうに飛び立つ気配は感じられなかった。いよいよ、胸が高鳴った。「この心臓の鼓動を感付かれないだろうか?」と真剣に考えたほどだ。
なおも近づいた。とうとう、雉から1メートル程にまで間を詰めた。だが、雉はまだうずくまったままだった。「バカな奴め!」と苦笑いしそうだった。自分の予想したシナリオが裏切られた嬉しさと「嘘だろう?」という気持ちが交錯した。胸はいっそう高鳴った。
更に慎重に近寄ったが、雉はいっそう身を固くしているかのように、微動だにしない。
「一瞬の隙を捉えて、飛び立とうとしているのだろうか?」となおも訝りつつ、私は一瞬のことだが、ポインターと雉の駆け引きを思い出した。前にも書いたが、猟犬のポインターは、雉などの猟鳥の居場所を突き止め、その数メートル手前で鼻先を雉に向けたままじっと立ち止まり、獲物の居場所を指し示す。ポインターという犬種の名前はそんな習性に由来する。
勿論、雉の方でも猟犬が近付いてきているのは百も承知だ。だがこの鳥の本能は実に不思議だ。危険な敵が迫ってもすぐには飛び立たない。いや、飛び立てない――というのがこの鳥の習性の特殊性なのであろう。雉は足が速いから、犬などの地上の動物から逃れるのは可能だが、空中では、飛び方が直線的・単純なので、鷹などにとっては格好の獲物となるため、その進化の過程で、「迂闊に空中に飛びあがっちゃだめだよ」という本能がDNAとして身に付いたものなのかもしれない。
散弾銃で、雉を撃つ時は、ポイントしている猟犬に「行け」と命じて、藪の中に突入させ、雉を飛び立たせる。つまり、雉を飛び立たせるためには、何らかのきっかけ(アクション)が必要になる。このように、雉は実に優柔不断で不器用な鳥なのだ。椋鳥や山鳩などであれば、人や犬の気配を感じた場合、その場で身を固くしてうずくまるようなバカな真似はしない。瞬時に飛び去ってしまう。
後年、大人になって気付いたことだが、イデオロギーに縛られて、柔軟な発想で自由に行動できなくなってしまう人間は、なんだか雉の習性に似ていると思った。
雉の習性について、一瞬そんなふうに思いを巡らして、「この雉は、飛び立つタイミング・口実をみつけようと必死になっているが、僕があまりに上手く忍び寄るものだから、飛び立てないのかもしれない」と一方的に合点した。
信じられない事だが、私はとうとう雉に手が届くところまで忍び寄ってしまった。あきれたことに、それでも雉は動かない。私はその段階になっても「まだ油断はできないぞ!」と自分を戒めた。
私は、父から聞いた「雉とクチワナ(蛇の方言)」の話を思い出した。「雉は、クチワナに出会うと、わざと自分の体に巻き付かせるそうたい。雉はそん後に、どぎゃんすっと思うね」
「わからん。どぎゃんすっとね」
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「翼ば、バタバタすれば、クチナワは千切れてしまうたい。雉は千切れたクチナワの肉を食うとたい」
「雉の翼はそんなに強かとね」
「強かも強か。強かだけじゃなく、鎌のような切れ味たい。雉は翼を羽ばたかせることでクチナワを一瞬のうちに引きちぎって殺すとたい」
父の話はざっとこんなものだった。
野山を歩いていると、時々足元から不意に雉が飛び立つことがあったが、その羽音のものすごさといったら、父の説を納得させるほどの威力であった。だから、雉に手が届くようになっても。羽の怖さが頭をかすめ、ふと手を出すのを躊躇してしまった。
「どこを掴めばよかろうか?」
「やっぱり、翼がよかと思うばってんね」
「翼ば力一杯押さえれば雉の〝武器〟を抑え込めるな」
ほんの一瞬の間に、そんなことを思い巡らせたが、遂に「エイッ」とばかりに、見事に雉の翼を握り地面に押さえつけた。そして、反射的に、雉の翼の反撃を予期した。
しかし、何としたことか!全く反応がなかった。私は一瞬のうちに「あっ、死んでいる!」と直感した。これで雉が微動だにしなかったすべての事情が呑み込めた。羽根の上から全身くまなく調べたが、無傷だった。十分に肉がついており、羽毛の光沢も立派で、病死でもなさそうだった。苦しんで、もがいたような痕跡もなく、毒に当たって死んだ訳でもなさそうだった。実に不思議なことだった。
私は雄の雉を捕まえることができた感激の余韻に浸りながら、雉をカバンに詰め込んで、そのまま学校に持って行った。私は、少し興奮気味に、その朝のスリリングな体験を級友達に早口でまくし立てたが、その感動はクラスメートには十分には伝わらなかった。魂が揺さぶられるほどの雉の捕獲劇は、私自身にしか理解できないことで、それは言葉では伝えられないない類のものであることがわかった。
学校が終わった後、雉は自宅に持ち帰り、祖父が鶏と同様に捌いてくれた。母と祖母がその雉肉や骨を自宅前の菜園で採った大根、ごぼう、白菜などの野菜と一緒に煮て、砂糖、しょうゆ、酒で味をつけた雉鍋をこしらえ、それを家族で食べた。雉を捕まえたスリリングな記憶は今も鮮明に覚えているが、雉鍋の味は思い出せない。
「父母の しきりに恋し 雉の声」という芭蕉の句がある。私にとって雉は懐かしい故郷を思い出させてくれる大切な鳥だ。