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【エッセイ】 毛むくじゃら男 〜家庭の中でもカルチャーショック〜

 私の夫はけむくじゃら男だ。どこもかしこもとても毛深い。二の腕を除いて体中の至る所がジャングルだ。だから、蚊にだって刺されない。
 そりゃあ、そうだ。蚊の気持ちになってみたら、こんなジャングルの中に飛び込んで、出られなくなったらえらいこっちゃだ。もがき出ようとしている間に、体の主に気がつかれ、ピシャリと叩き潰されてしまうのがオチだ。そんな危険を犯さなくたって、隣に「どこからでもどうぞ」と言わんばかりの毛のない細身の人間の体がある。こっちの方が血管だって簡単に探せるし、毛に絡まることもなく、針が肉に埋もれることもなく、楽々お腹いっぱいになれる。私が蚊なら、絶対にそう思うはずだ。だから、私は夫といると、決まっていつも代表して蚊に刺されまくってしまうのだ。
 その上、蚊に刺された私の体はアレルギー反応が強く、痒くて痒くてたまらない。一方、万一、勇気ある蚊が夫の毛むくじゃらから血を吸うことに成功したとしても、夫はほとんど痒がらない。何という、鈍感力だ。私はいつもこの鈍感力を心から羨ましく思う。
 ところで、体毛が蚊よけになることも新たな発見だったが、毛むくじゃら男と結婚して私がとても驚いたことは、夫の「ジョリジョリ機」の種類の多さだった。
 
 十代や二十代の多感な時期は、自分の毛深い足や腕が嫌で、私は一生懸命、剃刀を使って剃った。剃れば剃るほど、何やら毛が濃くなっているような気がして、益々、自分の体にコンプレックスを溜め込んでいった。
 ところが、一旦剃った後、ちょこんと頭を出し始めた太く黒い剛毛たちを毛抜きで上手に掴むと、スッと抜けることがわかった。これがまた痛くも痒くもなく、寧ろ、スッと抜ける感覚はなかなか病みつきになるくらい気持ちの良いもので、いつしか私は剃刀で剃った後に、ちょこんと生えてきた剛毛たちを一撃に毛抜きで仕留めるようになった。
 始めた当初は、「こんな広い面積のこんな剛毛の森を砂漠化するなんて・・・」と、途方もないプロジェクトのように感じていたのが、毛抜きを使って一本一本を一心に抜いていくうちに、どうやらマインドフルな瞑想状態に入っていったようだった。もちろん、たまにはチクッとして痛いこともあるが、座禅の最中に警策(きょうさく)を頂くのと同じだと思えば何ともない。多少の刺激がなくては寝てしまう。そうこうして、広大な森の伐採が終わる時には、非常に清々しい気持ちになっていた。しかも、生えてきたばかりの剛毛たちの頭でツンツンしていた肌の表面の手触りが、サラサラでスムーズに変化し、見た目も美しく滑らかになっているのだから、満足感といったらこの上なかった。肌はつるつる、頭は冴える。これが瞑想というものか。
 これが功を奏したのか、何年も何年も「毛抜き瞑想」をやり続けているうちに、剛毛密集の森は徐々に部分的に砂漠化していった。そのうち、縮小し続けていた剛毛の森も高級住宅の庭くらいの大きさになり、その点在する高級住宅たちの間にも、隣の高級住宅まで車で10分、不毛地帯を走らなくてはならなくなった。更に「毛抜き瞑想」を重ねていくと、庭付き高級住宅の数も減り、やがて、「こんなところにポツンと一軒家」が見つかる程度となった。その頃には、随分と腕も上がっていて、「毛抜き」なんて朝飯前のちょちょいのちょい。「さぁ、やるぞ!」と意気込まなくたって、「あっ、こんなところにポツンと一軒家だ」と、鼻くそを掘るくらいの仕事でポイと抜くだけの容易な作業に変化していた。
 脇毛も同じ手法で取り組んだ。その甲斐あって、今ではもうまるで、不毛の砂漠地帯だ。
 
 ところが、夫ときたら、一つの毛穴に二本も三本も毛が生えていたり、長すぎる毛同士が絡み合い、とかじっていたりする。
 そんな毛むくじゃら男の夫が結婚生活に持って来たのが、何種類もある「ジョリジョリ機」たちだった。
 夫はほとんどモノを持たず、本人は意図したわけではないのだが、「ミニマリスト」の部類の人種で、たくさんの本とほんの少しの洋服以外はほとんど所持品がなかった。ところが、本と服以外のほとんどない所持品のほとんどが「ジョリジョリ機」たちだった。
 まさか、すべてが「ジョリジョリ機」だとは思っていない私は、空港の取り締まり調査官のように夫の所持品のひとつひとつをつまみあげ、尋問した。どれも一見では「ジョリジョリ機」には見えない代物ばかりだった。

「これは何だ?」
  「毛を剃るんだよ」
「えー? 既に、持ってるじゃない」
  「違うよ、これは髭じゃない」

 体のどの部位に対してもほとんど剃刀一本と毛抜きで対処してきた私は、あとからあとから箱の中から出て来る「ジョリジョリ機」の数々に呆れ始めた。

「じゃあ、これはどこを剃るの?」
  「これは体全体」
「じゃあ、これは?」
  「これは鼻毛専用」
「これは?」
  「これは眉毛ともみあげ用」
「これは?」
  「これは耳毛用」

 どれも初めて目にする代物ばかりだった。そもそも、鼻毛用だ、耳毛用だ、もみあげ用だ、そんな種類の「ジョリジョリ機」が売られていること自体、初耳だった。
 確かに、耳毛も鼻毛もこんなに生えていたら、聞く、吸うという行為に影響が出てもおかしくはない。耳毛の一本一本が振動して、もしかしたら私が聞いている音と夫が聞いている音は違うかもしれない。あんなに毛があったら、息を吸う時にも吐く時にも障害となって、私のように楽々吸ったり吐いたり出来ないのかもしれない。鼻毛によって、日々、人よりも肺活量を鍛えているから、夫の鼻息はあんなにも勢いがあるのだろうか。頭の中にはいろいろな理由が駆け巡ってくる。

「これは?」
  「これは体用」
「なんで?あれだって体用って言ったでしょ。なんでいくつも体用があるの?」
  「体の部位によって、使いやすいのと使いにくいのがあるんだよ」

 つまり、体のカーブに合わせて、大小さまざまな大きさの「ジョリジョリ機」を使い分けていると言う。
 しかも、それだけでは終わらなかった。幸い、頭上も未だに毛むくじゃらな夫は、髪の毛用のバリカンもたくさん持っていた。
 そして、夏になると、新聞紙をたくさん広げてその上に裸ん坊で立ちはだかり、全身「ジョリジョリ儀式」を始めるのだ。頭上から、胸毛は元より、脇、お尻、太腿も太腿の間も股間も綺麗さっぱり剃り上げる。

「何故、そんなにつるんつるんに剃るの?」
  「清潔ではないし、毛があると余計に暑いから」

 サイエンティストの夫はバクテリアがどうだこうだといちいちうるさい。汗をかくと、毛根にバクテリアが繁殖し、体臭がし始める。清潔ではなくなるのだそうだ。

  夫と私は体感温度が全く合わない。私は暑さには強いが、寒さには極端に弱い。夫は寒さにはとことん強いが、暑さにはめっきり弱い。寒さに非常に強い上に、剛毛布団を身にまとっている。寒さに非常に弱い上、肉襦袢(にくじゅばん)すら着ていない私には、「毛があると暑い」のならば、どうせ厚着をする真冬の期間だけ、夫の剛毛布団を借りたいものだ。

 いざ、全てを剃り終えて、仕上がった夫の体は、何故か、前腕と下肢だけが決まっていつも手付かずだった。

「何で、こことここは剃らないの?」
  「ここはあんまり汗をかかない」

 いやいや、そんなことはないはずだ、と私は思うのだが、この剃り残しのお陰で、夫は夏場、蚊に刺されないのだ。
 しかし、どちらかと言えば、私は夫に前腕だけは剃って欲しいと思っている。

 夫の前腕の毛は一度も剃られてこなかった為にとても長くふさふさで、触るととても気持ちがいい。だから、本当は剃ってしまうのは惜しいのだが、この前腕の毛たちは、毎度毎度、食事の最中、そして食事の後、私の意に反してテーブルをモップがけしてくれるのだ。
 夫はとにかくよくこぼす。私も決して人のことは言えないのだが、夫は着ていた服を汚すは、テーブルにも床にも、とにかくよく食べ物をこぼし、よく飛ばす。服に飛んだら絶対にシミになって取れそうにないと予め判断できる時には、いい歳こいた夫婦が二人して大きなおべべをしながら食べることだってある。しかし、そうやって予め、服のシミは予防しても、こぼすものはこぼすのだ。そのこぼした食べカスを、自覚のない夫は自分のふさふさな前腕モップで掃き散らかす。
 フランスパンを食べた後の前腕モップは、上から振り注いだパンくずとテーブルに落ちたパンくずのすくい掃きによって、新緑だった桜の木が一気に満開状態だ。まるで、吉野の千本桜だ。蚊は寄せ付けないが、小鳥ちゃんや虫たちは喜んで食べに来るはずだ。しかし、小鳥ちゃんたちが寄って来ないフランスパンくず満開の前腕は、夫がふと立ち上がったり動き出したりするうちに、床や周辺に飛ばされていく。
 だから、どうせ全身「ジョリジョリ儀式」をするのなら、いっそ、全部剃ったらいいのに、と私はいつも思う。そうすれば、私だけが蚊に集中攻撃されずにも済む。
 
 ある年の夏、夫の「ジョリジョリ機」コレクションにまたひとつ仲間が加わった。何を買ったのかと思えば、「背中用」だと言う、日本の「孫の手」のような形をした大型剃刀のようなものだった。いちいち私に「背中を剃ってくれ」と頼むと、漏れなく小言もセットでついてくる。きっと、私の「毛抜き瞑想」のように、マインドフルに清々しい気持ちで「ジョリジョリ儀式」を行いたかったのだろう。

 昔、夫に「自分の体をどこか思い通りにしてもらえるとしたら、どこを変えたい?」と、全く馬鹿馬鹿しいくだらない質問をしたことがあった。
夫はすかさず、
「毛のない体」だと答えた。
私は間髪入れずに、
「はぁ? 毛?」と呆れて尋ねた。
 そもそも私ならば、一つに絞れなくて、
「一つと言わず、三つにしてくれ」
と交渉するところから始めるだろう。何故なら、コンプレックスが多過ぎて、一つ選んでいるうちに日が暮れてしまうからだ。
 それを、夫は「毛」だとぬかす。「毛」が生えているくらい何だ。剃れば簡単に解決するではないか。私のように、身長を伸ばしたいだの、胸を大きくしたいだの、色白になりたいだの、「ここをこうして、あそこをこうして」が自分ではどうにもならないようなことを想像したのに、「毛」だと?
「他に自分の容姿で変えたいところはないのか?」としつこく迫ってみたところで、答えは同じ。
 「毛のない体」

 人間の欲というものは不思議だ。人から見たら、まるでどうでもいいことで、当の本人は悩み苦しんでいることもある。
 夫の「毛」の悩みが尽きないのは、砂漠化した私の前腕や下肢や脇の下とは違い、夫の全身は剃られても剃られても密度を減らすことなく逞しく生え続けているからだった。
 しかし、どうしても夫の二の腕だけには産毛一本すら生えないことが、私には不思議でならない。本来、人間の体に何故、毛が生えるのかと言えば、特にその部位を守る為だと考えられてきた。夫の体にはそれぞれの部署でプロテクションの防衛隊がいっぱい各地を防衛している。
 しかし、何故、二の腕だけには防衛隊がひとりも駐屯しないのだ? 
なぜ、ここには防衛隊は必要ないと体は判断したのだろうか? 
 夫のつるんつるんの二の腕を見るにつけ、私は夫の体の防衛局本部に質問を投げかけたくなる。唯一、素肌を曝け出している夫の二の腕は、夫が私よりも色白なことをこれ見よがしにひけらかすので、夫の体の中の防衛局本部へ行った際には、ついでに是非、夫をもう少し色黒にしてくれるよう嘆願書を提出したいくらいだ。そうそう、真冬の間だけ、温かい剛毛布団をお借りできないかの相談もせねばならぬ。 
  
 夫の「ジョリジョリ機」の中に一つだけ、強制的に引退させられてしまった可哀想な「ジョリジョリ機」君がいる。それは、「耳毛専用」の「ジョリジョリ機」だった。
 その理由は、自分の体にもはや「毛抜き瞑想」のできる場所を失った私が、夫の耳の穴を私の至福の「毛抜き瞑想」の場として見出したからだった。
 夫の耳の穴の中には、よくもまぁ、こんなに毛があって鼓膜にまで音が届くものだと感心するほどの量の毛が生えていて、耳の穴の外へも漏れ溢れている。産毛などと言うかわいらしいものではなく、太くて黒々した長くたくましい剛毛だ。そのため、ハンサムな横顔よりも、ボウボウの剛毛の洞窟に目が吸い寄せられてしまうのだ。
 耳からはみ出ている剛毛たちは抜いても抜いても、へこたれずにまた生えてきてくれる。そして、耳の中の狭い穴と複雑なカーブや窪みや凹みが毛抜きの技術やちょっとした技を必要とし、私を奮い立たせてくれる。その上、毛むくじゃらだった耳の穴、剛毛の洞窟が、綺麗つるつるに変身するのを見るのは全くもって気持ちがいい。達成感でいっぱいだ。長年鍛えた毛抜きの腕をもってすれば、所要時間もほんの10分程度。瞑想にはぴったりのちょうど良い長さだ。片方を終えて、もう片方。10分程度の気持ちの良い瞑想を2回セットだ。現在でも、私の最高の瞑想時間となっている。
 あぁ、どうか、私の足や脇の下のように砂漠化しないでいて欲しい。


 お読みくださり、ありがとうございました。

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