あなたからわたしへ 大晦日の『サラバ』
5年前の大晦日。傷だらけの風呂に浸かりながら古本屋で買った『サラバ』中巻を読み始めた。いいところだから、と思っているうちに下巻に入り、話が盛り上がってきて、もう指先はブヨブヨだ。
気づいたら風呂の中で年を越しているではないか。
しだいに寒くなるので、さっきから、じゃーじゃーとお湯をたしている。
『サラバ』は下巻の中ほどから一気に展開がかわる。
人と違うことで注目を浴びるのが大好きで妖気的な姉、貴子が、結婚してアメリカから帰国してみちがえた。
これまでの姉はいつも異様だった。臭うまで引きこもったり、部屋の壁一面に巻貝の模様を描いたり。宗教にはまりひたすら祈っていた時期もある。
アメリカに行く前は、巻貝の中に入る現代アーティストとしてシンパを集めるほどであった。
しかし、帰国した姉はそういった異様さがとれ落ち着いて美しく立っていた。「姉はパートナーを見つけた、というだけでは得られない、くっきりとした安らぎの只中にある人のように見えた」。
一方の弟、歩は、仕事が減りつつあるフリーライターで、「自分の書く言葉が何か意義のあるものとは到底思えなくなり」、ハゲてきて猫背になった。
姉や離婚した両親に振り回されて受け身的な性格になり、誰かと比べてずっと揺れていた。下に見ていた彼女にも浮気をされて、捨てるつもりで捨てられた。
数年ぶりに会った姉は弟をさとす。
「信じられるものを見つけなさい。」
「あなたを信じているからではない、あなたを愛している私を信じている」から。
ここで心に鍼を刺されて一気に血流がよくなるみたいに興奮した。湯船から立ち上がっていたかもしれない。
あなたを信じるかどうか、ではなく、私を信じるかどうか。この問いかけが興奮するほどタイムリーだった。
さて、これは「私」の話。
当時、信じたかった人がいた。しかし何も話せないまま、目の前から消えた。メッセージはいつも無視されている。怒りと恐怖が渦巻いた。死ねばいいのに。藁人形作って壁に打ちつけたい。
しかし、同時に、まだ信じたい気持ちがあった。希望を持っていたかった。描いたストーリーの可能性を信じたかったし、いなくなった人の本心は別の所にある気がした。この気持ちも真実で、胸に迫ってくる思いがあった。
いろんな気持ちが交錯する。でも、なに一つとして、答え合わせができない。真意がわからない。時間だけが過ぎる。
でも、時間は薬とはよくいったもの。
気をまぎらわせるためにあちこち出かけて遊びはじめたら、好奇心はもともと幅広いし、社会にも関心があるし、行きたいところに行き、やりたいことをやる自由があるのだった。
文章を書いたりするのも好き。これは20年ぶりに思い出した趣味。言葉で表現するのは難しくておかげで夢中になり、時間を忘れさせた。
仕事でもスペースの運営を始めて現実的に精一杯になった。
こうして、そうして、結果として、私は私自身と近づいた。
皮肉にも人とつながりたいという願望が憎らしい形で絶たれてはじめて、知れたことがあった。
それは、私は自由で安心だということ。
そして、目の前に恵まれた環境があるということ。
脅かしてくるものは存在しない、ということ。
意外と孤独は楽しいものだった。
というか、私のスペースに無理に人を招き入れたり、人を助けたり、人とつながったり、同調することはない。
好きなことをすればいい。
それがわかっていなかったから、いつも誰かに脅かされているような気持ちをもっていた。でも、それも勘違い、たぶん癖、だったのだ。
その昔、カウンセラーに言われたことを思い出す。
「郁子さんは社会化を急ぎすぎている気がします。もっとゆたかにあなただけの世界があっていいのよ。」
今なら言っている意味がよくわかる。
そして大きな気づきはもう一つ。
『サラバ』の中で姉、貴子は言った。
「私の中にそれはいる。」
本当にそうだ。
しだいに感受性が高まり直感が働くようになり、自分の中にガイドのような存在がいるような気がする。言葉にならない感覚をいっぱい働かせて受け取って生きていて、目に見えていることはほんの一部。だから、もっと信頼して大丈夫。
以前は「あなたを信じられない」ことが大命題だった。しかし、時間とともにどうでもよくなってきて、「私を信じている」という感覚があり、その先に信じられるものと出会うもしれないと必然のタイミングを待つ動物のような気持ちに近づいた。
ふりかえると、闇に落ちそうな期間にただ必死で過ごして、気づいたら光をたくさん見つけていた。
『サラバ』は、その期間の最初のころ、本当に苦しいときに前に進むイメージを与えてくれた。だから、今、もがいている人にどうか届いてほしい。
サラバというタイトルも奥深い。また読みたいから本棚の手に取りやすい場所に戻した。