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食べることは生きることへの抵抗と祝福である。

noteで書き始めることにしたので、この投稿に最初の思いを残します。

もっと書きたいのですがどうしたらいいですか?と知り合いのコピーライターさんに聞いた。彼は教えてくれた。媒体はなんでもいい、教室なんて行かなくていい。テーマを決めて書き続けられたらそれでいいんだ。多くの人はそれができないのだから。

数か月、彼の言葉を意識の奥に沈めてテーマを探していた。

私は地方の特産品を扱う仕事をしている。野菜や加工品を販売していて、お客さんから自分のレシピを教わることが多い。そのたびに幸せな気持ちになった。

想像する味や匂い、その人らしいこだわり、話すときの得意げな表情、かいまみえる生活の様子。なによりその人のレシピを聞くと、食べることを楽しもうとする意思に励まされる気がした。レシピの手順でもなく、食レポでもなく、食を通して人の生き方のようなものを書けないだろうか。ぼんやりとテーマが見えてきた。

うーん、でもまだ書けない。

最近は色々あって、子どもの頃を思い出していた。家族に言えない感情が壁をつくり、親に心を開けず、親にもあなたのことがよくわからないと言われ続け、切ないことが多かった。

でもどうだろう。ある時、食べ物をテーマに点で記憶をたどってみたら驚いた。がらっと過去の印象が変わったのだ。

母と買い物の帰り道、地下鉄のホームのベンチで焼き立てのコーンパンをつまみ食いしたこと。コーンが甘く生地はもちもちで顔を見合わせるくらい美味しく、母とつまみぐいの共犯になった。

毎冬、山梨に家族で通ってかぼちゃや鶏肉がたっぷり入った、ほうとううどんを食べたこと。古民家のような店はいつも混んでいた。食べることが嫌いな母が、ほうとううどんが好きと言うのが嬉しかった。

菌床を買ってもらい毎日霧吹きで水をかけて育てたしいたけ。机をびちゃびちゃに濡らしながら指紋をつけまくって弟とつくったわらびもち。学校の帰り道、友達と食べにいった超特大サイズのプリンアラモード。大学生になって父につくってあげた、スペアリブと玉ねぎの鍋。お前のつくるものはさっぱりしすぎて物足りないがこれは良いと母づてに感想を聞いた。

振り返って思う。

ワタシの人生、全然悪くない。

食べ物を通して35年をふりかえれば、切ない記憶よりも、味や匂いとともに一緒にいた家族や友人との確かなる一時がよみがえる。食べてきた料理には誰かの思いがこもっていた。

人生は辛いことも多い。だから、美味しく食べようという気持ちは、体があって今を生きている人間のささやかな抵抗だ。そして生きることや一緒にいる人との時間を祝福することだ。

そう思ったら急に繋がった。書きたい衝動とテーマにたどり着いた喜びがこみあげてきた。

食べることについて書きたい。抵抗と祝福としての食べることを。食べることを通して生きることを書きたい。胃袋を刺激して体で書きたい。そして、これからも誰かと食べることを分かち合いながら書き続けたい。


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