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津田左右吉『新年の感懐』ほか(1950年)

 津田左右吉(1873-1961)が『早稲田学報 1月号 4卷1号』(昭和25年)の1頁に載せた記事(随筆)。『津田左右吉全集』では第23卷に雜録の一つとして收録されてゐる。
 また、同誌6頁に掲載された和田信賢(1912-1952)の隨想も掲載する。
 ついでに同誌に收録されてゐる窪田空穗(1877-1967)飯田蛇笏(1885-1962)の句も掲載する
 なほ、底本は新字・舊字や假名遣ひが混淆してゐる。また、明らかな誤字脱字は修正した。

 特に何周年といふことでもなく、たまたま1月20日發行なのに氣付いたので掲載します。


『新年の感懷』
津田 左右吉

 新年といふことが、時の流れに一つのくぎりをつけて、それを來るべき一年の間に於ける生活の新しい出発点とするところに意味のあるものだとすれば、それには、前途に何かの明るい希望をかけることと、それを目ざして進んでゆくためのしつかりした心がまへをすることと、この二つが無くてはなるまい。
 わがニホンの國民にとつて、この一年にどんな希望がかけ得られるか。何等かの希望がかけ得られるには、それだけの客観的情勢が無くてはなるまいが、それが果してあるかどうか。人は或は講和條約の締結を思ふであらう。或は対外貿易の伸張、経済事情の好転を考へるであらう。けれども、それが希望どほりになるとは必ずしも予期しがたいといはねばならぬ。世界の情勢にも國内の状態にも、それを妨げるものが少なくないのではなからうか。その他のことがら、例へば文化上の活動などに於いて、どれだけの希望がかけ得られるか。あまりに悲観的の見かただといはれるかも知らぬが、どちらを向いて見ても、暗い影は立ちふさがつてゐるが、明るい光はかゞやいてゐないのではあるまいか。しかしまた、光明は他から与へられるのではなくしてみづから点ずべきであり、希望はむかふの方に具はつてゐるのではなくしてこちらから作り出すべきである、といふことをも知らねばならぬ。この意味からいふと、世界に対しても國内に於いても、現に在る如き客観的情勢を、國民の力によつて、できる限りよくしてゆくことに努力し、そこに希望をつなぐべきであらう。それは即ち國民の心がまへの問題である。
 それについて第一に考へられるのは、我がニホンが連合軍の占領の下にあること、戰爭を起したために、有形無形のあらゆるものがすべて荒廃し、そのうちには連合軍総司令官の好意ある政策と施設とによつて、漸次回復しはじめ、または新しい建設の基礎の置かれた方面もあるが、さうまでになつてゐない方面も少なくないこと、を深く考へ、かゝる情勢の下に於いて、ニホン國民はあらゆる方面で國を建てなほす責任をもつてゐると共に、世界に向つて重大なる道徳的義務を負うてゐること、についての十分なる自覚と、これらの義務を果し責任を全くするための固い決意とを、日常の生活と行動とに於いて実現させなくてはならぬことである。かういふことを今さららしくいふには及ばぬやうであるが、これだけの自覚と決意と、それを実践するだけの心がまへとが、事実、國民にあるかどうか、挾い、または間接の、見聞しかもたないためでもあらうが、わたくしには疑はれる。この疑ひは、無條件降伏の行はれてまもない時から、もつてゐたものであるが、今もなほそれを解くには至らない。政府、國会、政党、事業の経営者、労働者、農民、その他の諸方面で、日常どんなことが行はれてゐるかを見るだけでも、この疑ひはむしろ強められる。もとよりどの方面にも、しつかりした識見と覚悟とを以て事に当つてゐる人はある。さうしてそれが、目だたぬ間に、着実に、また徐ろに、おのづからなる影響を人に与へ世に与へ、國の再建の強い力となつてゐる。たゞ世間の表面にあらはれてゐるところは、それとは違つてゐて上にいつたように感ぜられる。
 しかしこゝでは、具体的な事例を挙げてこのことを明かにするほどな余裕も無く、またさうするには及ばないでもあらう。たゞ多数の國民に対して思想的に大きな影響力をもつてゐる、いはゆるジャーナリズムに現はれてゐる言論や読みものやのうちに、上にいつた國民の心がまへを強めるよりは弱め、堅めるよりはかき乱す、はたらきをするものの少なくないことを、一とこといつておかう。かういふものは、一面では、無くてはならぬ心がまへの乏しい世間の風潮の反映であるが、他面では、その風潮をますます高めることになるものだからである。ニホンのいはゆるジャーナリズムに見られる一つの傾向として、そのをりをりに起つて来るさまざまの事件なり問題なりのあとを追ひ、それに対して何ごとかをいひ、または何人かにいはせることに、おもな力が注がれ、國民が如何なる覚悟をもち、如何なる方向をとつて、何ごとを如何に行つてゆくべきか、についての問題を、世間に先だつて提起することが少く、從つて何ごとをもそのばあひのそのことだけについて見、國民生活の大局の上から、或は全体との関聯に於いて、それを取扱ふことが少い、といふ憾みがある。一般にニホンの知識人の考へかたとして、現実の具体的な事態をありのまゝに見て、その眞相を究めるといふ態度が少くして、何等かの抽象的な観念にあてはめてそれを見ることが多く、甚しきは観念そのものを弄ぶに過ぎないことさへ稀ではないが、これは、外から与へられた知識または学説もしくは教説によつて物ごとを考へるところに、おもな原因がある。さうしてその知識、学説、教説、がさまざまであり、人々がおのおのその好むところによつて、それを権威と仰ぎ、わがほとけ尊しとして、それを主張し宣伝しまたそれにあてはめて目前の問題なり事件なりを取扱ふ。さうして互に他を排斥する。すべてが偏狹な、一面的な、観察であり主張であつて、そのいふところか見ると、しばしば自己陶醉に陷つてゐることさへある。ジャーナリズムは、それらを比較し対照し、全体の上から、または現実の事態の眞相を明かにすることによつて、それらを批判すべきであるのに、さうはせずして、徒らにそれらのさまざまの主張を並べたてて読者に示すのみである。偏せず党せずと称してそれを公平の態度のようにいつてゐるものもあるが、批判をするには、しつかりした一つの立ちばが無くてはならぬから、これは実は公平の態度ではなく、たゞ判断を停止するまでのことである。從つてそれは、みづから批判力をもたない一般の読者を迷はせるのみである。國民が現在のニホンに於いて何をすべきかを明かに覚らず、國家を建てなほすためのしつかりした心がまへをもたうとしないのは、このことに大きなかゝはりがあらう。これについては、もつと具体的にいふべきであるが、やはりその余裕が無い。たゞ最後に、我が國の建てなほしを妨げ、世界に対するニホン國民の道徳的責務を忘れさせようとする、二つの大きな力をこゝに挙げておかう。一つは、いふまでもなく、ソ聯に根拠をもつてゐて、人心の荒廃に乗じてそれをますます甚しくさせようとする、一つの党派の主張と行動とである。一つは、自己に道徳的責任のあることを思はず、すべてを制度の責任、社会の責任、環境の責任、に帰する考へかたである。わが國の前途の光明を蔽ふ暗い影の最も大なるものはこれらである。この暗い影を拂ひ去る心がまへが無ければ、ニホンは危い。この年の希望も、その心がまへをするところにかゝつてゐる。

【筆者は学園名誉教授、学士院会員、文学博士】


『新春随想』
和田 信賢

 去年の正月、元日だつたと記憶する、宮沢俊義博士が新春随想として酒漫談を放送した。軽妙な話術の中に、酒への愛着がほのかに滲み出ていて、新春にふさわしい、いゝ放送だつた。
 どうも、僕という男は生來あきつぽい性質で、話術の研究と酒以外は、永続きがした例しがない。
 放送をきいて、感銘を受けることなど殆んどないのだが、宮沢博士のこの放送だけは記憶しているというのも僕の仕事と趣味?嗜好が一致したことによるのであろうか。
 酒と話術の研究を除いて、随分いろいろなものに手を出したが、一つとして永続しない。
 早稻田時代でもそうだ。学院の一年の時は、暇さえあれば図書館通い。二年の時は戸山ヶ原の草野球。國史学科に籍をおいてから同志と下宿の一部屋を借り受け、そこを研究室にして"続日本紀"の索引作りに夢中になつたこともある。
 同人雜誌に首をつゝこんでからは、暮の休みには本屋の集金に同人等とともに歩き廻り、漸く集つた、なにがしかの金子で正月の三日間を飮んだり遊んだりした。というと如何にも大金のようだが、三円あれば学生の身分としては大豪遊が出來た頃のことだから不思議はない。
 戸塚付近では、呑喜というおでんやへ、よく飮みに行つた。牧舍は、何んとなく嫌だつた。教授達や、先輩、学生名士?が多かつたためかもしれない。
 高田馬場駅の裏にあつた井上友一郎の家にも随分押しかけたそして実にもならない文芸談義に花を咲かせるのだつたが、井上は常に懷疑的というか、いまのように押しが強くなかつたようぞ。
 しかし一本、筋の通つた確りしたものを感じたのは僕だけではない。一度雜誌が分裂して、誌名が変更になつた時など、前の主宰者を絶対加入させないと頑張つたことがあつた。その結果、僕が編集発行人になつたのだが、その時の井上は、実に強気だつた。
 彼も僕等同樣、常に貧乏で、紅茶一ぱいの接待ときまつていた。田村泰次郎や石川達三の姿も、附近の喫茶店でよく見かけたが、誌上は別として交友関係はなかつた。
 僕は、当時は極めて内気で、よほどのチャンスがなければ、こちらから努めて近ずきになるようなことは嫌いだつた。
 その当時、同人の一人池上信一と浪曲にこつたことがある。戸塚源兵衛のところに、なんとかいう席亭があつた。歳晩年始の休みは書き入れだつた。
 池上は木村重友、友忠を推賞した。僕は、慶安太平記読みの第一人者木村重松を好んだ。また明治ものをやらせると、そのフテブテしさとヤツツケ調が、たまらなくいゝ重行も好きだつた。
 酒井雲もその頃、新人で売り出してきたが、こけおどかし的なフシが余り好きにはなれなかつた。
 そして、僕のこうしたフシの好き嫌いも、やはり永続きせず小柳丸、歌川歌燕、綾太郎、天光軒満月、日吉川秋水と次から次へと移つていつた。

 こんなことで大学も二年でやめてしまう仕儀となつたのも、「吾には許せ敷島の道」で――外題付けが終りにくるようでは筆もこの辺りで擱くべきであろう。

(筆者は「話の泉」司会者校友会幹事)


『蒼空』
窪田 空穗

書きにくくなりぬと疎むに万年筆あまたの事を我にいひ出づ
現実を肯定せむと努め來し憎悪のこころ募るがままに
蝶二つもつれもつれて狂ほしく舞ひ登りゆく紛れ失するまで
世の味は淡しとかこつ老びとの賢くさびしきこころ悲しむ
足袋羽織うるさしと脱ぎかかる日もありよと見やる眩しき蒼空 


『祷と現実』
飯田 蛇笏

山廬迎春

古風なる月光の燭彈初め
霜の晴天ひそかに祷るこゝろあり
夕燒けて一瞬止る寒の雲

マリヤ聖祭

燭光に朝のひとゝき樹氷光


書誌情報

底本:「早稻田学報 1月号 4卷1号」早稻田大学校友会
   1950(昭和25)年1月20日発行

内容:『新年の感懷』津田左右吉
   『蒼空』窪田空穗
   『校報』
    ・学園“百年の計” 寄附保險の新設
    ・吉村、佐藤、福井教授 学位授与さる
   『年頭に際して』島田孝一
   『早稻田大学振興基金募集趣意書』島田孝一
   『母校の現状 3 商学部』
   『会報』
    ・安田火災稻門会 盛大に開かる
    ・船橋稻門会大会
    ・岐阜縣支部総会
    ・稻心会だより
    ・臨時連絡員会
   『「校友バッヂ」図案募集』
   『校友消息』
   『一九五〇年 新春に望む』
   『校友人国記 横浜の卷』
   『禱と現実』飯田蛇笏
   『新春筆三題』
    ・『古典新題』土岐善麿
    ・『新春随想』和田信賢
    ・『新年言志』生方敏郎
   『学園の歩み(その三)』深谷博治
   『新刊紹介』
   (※廣告割愛)