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『ヒステリー研究』とMakari, G. (2008) City of Mirrors, City of Dreams

フロイト『ヒステリー研究』(病歴 A エミー・フォン・N 夫人)(SE Ⅱ 48-105; 全2、56-133)(病歴 D エリーザベト・フォン・R 嬢)(SE Ⅱ 135-181; 全2、172-233)
Bowlby, R. (2016). Freud’s Studies on Hysteria 120th Anniversary Debate:
Part 2. A Brief Introduction to‘Studies on Hysteria’. PEP Videostream,
1(9):19
Makari, G. (2008) City of Mirrors, City of Dreams. In Revolution in Mind. The
Creation of Psychoanalysis. Harper, Ch2, New York..ジョージ・マカーリ『心の革命 精神分析の創造』第二章 鏡の都市、夢の都市、みすず書房、2020.

レイチェル・ボウルビーによるものは、フロイト博物館が『ヒステリー研究』出版120年を記念して開いたカンファレンスで、精神医学研究所の神経精神科医ティモシー・ニコルソンに続いて行なった講演の記録である。彼女はプリンストン大学およびロンドン大学の比較文学の教授であり、講演を依頼された経緯は不明だが、『ヒステリー研究』の要点を20分で巧みにまとめている。治療設定の推移に言及している点は、何らかの経験者であるようにも窺わせる。カンファレンスの他の様子について見ておくと:
最初の演者ニコルソンは、神経科学と精神医学が分離する前の歴史から話し、疾患としての「ヒステリー」に対するフロイトの貢献として(1)症状の発現による心理的ストレスの軽減、および(2)疾病利得の発見を挙げた。ヒステリーは、神経学様の所見がありながら、神経学の法則に従わないことで一貫している。現在、DSM-5ではConversion DisorderFunctional Neurological Disorderに該当する。彼は、現代の議論としては心理学的機制がどこまで関与しているのか不明であり、それをどう証明するかは容易ではないと言う(Nicholson, T. (2016). Freud’s Studies on Hysteria 120th Anniversary Debate: Part 1. A Brief history of Hysteria. PEP Videostream, 1(9):18)。
後半は四人による、フロイト&ブロイアー『ヒステリー研究』は現代でも通用するか?という討議である。リチャード・カナンは、フロイトが『PTSDの研究』として書いていたのなら、このモデルは有効だった・・と述べた。つまり、ヒステリーには外傷がある。但し、それを心理学的に治療するのが最適だとは考えていない。functional neurological disorderの研究者マーク・エドワーズは、外傷を重視するのは誤りで、人目があるかないかで症状が出没するように、精神病理に立ち入らずに症状から診断できるし、何か一つに還元するのは、危険因子と原因の混同だと指摘する。次に登場したサイコセラピストのステファニー・ハウレットは、FNDを治療し続けて来て『ヒステリー研究』が非常に役立つと言い、症例を挙げて説明する。夫との性行為に反応した或る既婚女性の背景には、13歳の時の集団強姦の被害が「最初の外傷」として存在したと。――この要約は大雑把過ぎるが、「事後性l'après coup」による説明とカタルシス法による治療は、転移および幼児期を持ち出さない点で、前精神分析的な『ヒステリー研究』のパラダイムである。
最後に、サイコセラピーの調査研究をデザインしているアラン・カーソンは、この本の10年前にボール・ブリケPaul Briquetが500人の患者の調査から、外傷特に性的虐待がこの疾患の重要な因子であることを指摘しており、フロイトはそれをよく知られるものにしたのだと言うが、新しかったのは、「無意識」および「抑圧」という考えだと説いている。ただ、統計的に検証されるのは、治療効果の差異は治療様式によるのではなく、治療者によるものだと言う。フロアから、外傷が幾つもある危険因子の一つに過ぎないと言うのなら、他には何があるのだと問われて、被暗示性や注意の集中傾向の他に、小さな変調を気にするなどを挙げていた(これは、森田神経症が想定するものと似たような機制に聞こえる)。
フロアにはジュリエット・ミッチェルもいれば当事者も医療従事者も参加していて、質疑はそれなりに活発なようでいてやりにくかったことだろう。関心は現代でヒステリーに相当するものとその病態や治療に主に向けられ、精神分析の先駆けとしての『ヒステリー研究』は、ほぼ論じられていない。一番熱心に見えた演者のサイコセラピストは、”統合的”なアプローチを称賛し、フロイトのようにマッサージや温水浴も取り入れたいとさえ言っていた。ただ、『ヒステリー研究』が治療論として提出されたことは確かである。

『ヒステリー研究』は、冒頭の「暫定報告」と五つの症例、そして両著者による理論と実践の概論から成る。本当の共著は冒頭のみで、後はそれぞれ別の手による。岩波版で、アナ・Oが「観察Beobachtung1」なのに対して、他が「病歴A・B・C・D」となっている理由は不明である(GWではBeobachtungⅠ~Ⅴとなっている)。アナ・Oについては、『精神分析の現場へ』でブリトンの解釈まで含めて詳しく述べているので、今回は残り四例から、最初の「エミー・フォン・N夫人」と最後の「エリーザベト・フォン・R嬢」を取り上げる。
ただ、どちらも既に読んだことがあり、関連資料を参照したこともある。症例理解がその後の身元調査に全て取って代わられるわけではないが、知らない振りをしても仕方がないので、いくつか紹介しておく。
エミー・フォン・N夫人がファニー・モーザー男爵夫人であることは、ピーター・ゲイの『フロイト』(1988)にも書かれている。また、その短い紹介でも、彼女が「催眠による治療は無意味であり価値がない」と教えてくれた、と記されている。「これは決定的瞬間だった。『もっと道理にかなった精神分析療法の創出』へと彼を駆り立てたのである」(邦訳p84)――こう読むと、フロイトは当時から、彼女の事情を――ファニーがヨーロッパ一の資産家女性になったのは、23歳の時に65歳の富豪と結婚したが第二子出産直後に急死したからだとは聞いたことがあったにしても、この40歳の女性は人間不信になっていた一方で、さまざまな若い男性を出入りさせていたこととか――よく知っていたかのようだが、おそらく順序は逆で、当時33歳の、患者にマッサージを施しているフロイトには分からず、成人して学者となった長女の非難によって初めて知ったことを、弁解しているのではないか:
エミー・v・N夫人の娘が、母親へのフロイトの治療を非難した手紙(Hoppe-Moser, Fanny (1918) Letter of July 13, 1918 to Sigmund Freud, Sigmund Freud Collection, Manuscript Division, Library of Congress, Washington, D.C.)に対するフロイトの返信(1918):
「あなたが、私があれほど気に懸けていて、ファニー・モーザーさんにアウに来るように呼ばれた、あの小さなファニーだということを知り、大変興味を持っています。あなたの言うとおり、当時の私はあなたのためにほとんど何もせず、あなたについて何も理解していませんでした。どうか、当時の私はあなたのお母さんの事例も理解していなかったことを、寛大に考慮してください、彼女は二度にわたって数週間の間、私の患者でしたが。[…]特にこの事例とその結果のおかげで、私は催眠による治療が無意味で無益なことを理解しましたし、より合理的な精神分析療法を考案する推進力を得られました。あなたのお母様の、あなたや妹さんに対する行動は、私にとっては、あなたにとってほど謎めいたものではありません。私が言えるのは、彼女は子供たちを優しく愛していたと同時に、激しく憎んでもいた(いわゆる両価性)という単純な解答であり、それは当時から既にそうだったということです――ウィーンでも。あなたのお母様は元来、非常に尊敬すべき、真面目で道徳的に厳格な女性であり、厳格な義務感に導かれていました――この崇高な性格が、彼女の人生における解決されていない葛藤によって台無しにされた可能性は、十分(?)にあると思います」。
これだけに基づけば、ゲイが記述した解釈もありうるが、1935年になってフロイトはなお、こう弁解している。
「私はあなたを、あなたが当時の私のひどい誤診をまだ許していないことで責めることはできません。私はまだ経験が浅かったばかりでなく、隠れた心を読み取る私たちの技術もまだ揺籃期にありました。あの10年後、いや5年後の私でしたら、この哀れな女性が2人の子供に対する自分の無意識の憎しみと苦闘し、過剰な優しさによって自分自身を防衛しようとしていたことを推測し損なうことはありえなかったでしょう。こうした邪悪な幽霊たちは、後になって再加工された形で浮上し、彼女の行動を決定づけたように思われます。しかし当時の私は何もわからず、ただ彼女からの情報を信じていました」(Freud, Sigmund (1935) Letter of July 13, 1935 to Gerda Walther (in reality Fanny Hoppe-Moser), Sigmund Freud Collection, Manuscript Division, Library of Congress, Washington, D.C.)

これはテーゲル(1999)が発見し報告したもので、ゲイ(1988)には利用できなかった資料である(Tögel, C. (1999). ‘My Bad Diagnostic Error’ Once More About Freud and Emmy v. N. (Fanny Moser). Int. J. Psycho-Anal., 80(6):1165-1173.)。アイスラーによる身元調査指令から遡った総括は、こちらを参照:Tögel, C. (2011). Wie »Emmy von N.« identifiziert wurde. K. R. Eisslers und Ola Anderssons Recherchen. Luzifer-Amor, 24(48):32-52.冒頭の写真、母娘の”happpy time"は、この論文から借りた。
また、症例へのフロイトの関わり全般への批判は、ミケル・ボルク=ヤコブセンMikkel Borch-Jacobsenが散々述べている。(https://www.psychologytoday.com/intl/blog/freuds-patients-serial/201207/fanny-moser-1848-1925

患者の話をまずはそのままに受け取るのは、サイコセラピーの基本ではある。ただフロイトはここで、相手のテリトリーに入っている自分を観察する視点は有していなかったようである。――以上のような点は一旦すべて棚上げとして、フロイトによる報告のみから知られるエミー・フォン・N夫人に関して、注目される点を幾つか挙げよう。
*フロイトは、「催眠下で探求するというブロイアーのやり方」を、初めて実症例に適用しようとしている。「ブロイアーのやり方」とは、カタルシス法のことだろう。――では、フロイトがここで行なっていることは、カタルシス法だろうか?実際には、指図ばかり、それも、思い出すように、ではなく、「彼女が二度と眼前に見られなくなるよう拭い去る」ことばかりしていないだろうか?
*この症例は、フロイトに対して、あれこれ由来を尋ねずに、自分がすべきと思う話をさせて欲しい、と言ったことから、自由連想法の着想を与えた、と後に位置づけられる。では、そのように自発的に語られた内容に、フロイトはどれほど注意を向けたのだろうか?「彼女は再び夫の話をしている・・・彼女はこの話のまだ語っていない残りの事柄で苦しんでいたのだ」。しかし続いて彼女が話しているのは、娘への憎しみである。「あの子を三年間憎しみ続けました。・・・もしも私があの子のことで寝たきりになっていなければ、夫が健康になるよう看病ができたかもしれないのに、と」。
*この件に関して、夫人は翌日、「私は下の娘を愛していなかったと言いました。でも付け加えなければならないのは、私の振る舞いからそのことに気づくことのできた人はいなかったということです」とフロイトに述べている。ここでの問題は、無意識のままか意識化するか、よりも――すでに悩むほど意識化し続けている――人に打ち明けるか抱えているか、の違いではないだろうか?伝えられたフロイトは、気づくことができたのだろうか?
*アナ・Oでは、さまざまな象徴が解釈されていた。フロイトはそれに近いことを、意味を理解しようとすることを、エミー・フォン・N夫人に対して行なっているだろうか?小動物が例えば赤ん坊だとしたら?フロイトは彼女の攻撃性と罪悪感についての理解を共有しようとする代わりに、そのイメージを取り除いて、赤ん坊の脅威を軽減する手助けをしていないだろうか?
*ブロイアーによる何年かにわたるアナ・Oの治療と、フロイトの数週間の関与とは、較べるべくもない。彼はカタルシス法の初学者と自認していて、それを催眠法と神経学の知識で補っている。彼女の幼少期と両親への言及は最小限である。このフロイトは、何と形容するのが最も適切だろうか?

エリーザベト・フォン・R嬢についても、イロナ・ヴァイスというハンガリー系の女性であることが知られている。本人の回想の報告は、ゲイの『フロイト』に紹介されている。それ以上人生の細部に至るまで調査される不幸を被っていないのは、そもそも比較的不幸の少ない生活を送ることができたからだろうか。
テクストに戻ると、エミー・フォン・N症例から三年が経ち、フロイトは催眠法をほぼ放棄している。それに取って代わったのが、いわば「抵抗」の指摘だったが、合理的な説得に近いトーンは、その後も残っていく。

ジョージ・マカーリ『心の革命 精神分析の創造』の構成は前月に述べた通りのままなので、再掲すると:精神分析を「主観性に関する客観的な科学」を志向するものと捉えた上で、その進展を
(1)フロイトによる一九世紀の心に関する諸理論の統合
(2)フロイトを中心とした研究者たちの集合離散
(3)会員資格規約と臨床設定の共有によって組織化された国際的共同体
の三つの段階に整理した。これの大著は、この基本的な見取り図の下で書かれている。
第ニ章「鏡の都市、夢の都市」は、(1)の三分の一、下の図(Makari, G.原書p.120)の上の部分、ドイツの「生物物理学、精神物理学」をフロイトがどう処理したかを扱っている。鏡の都市とは、心は外的現実を映し出すものだということであり、夢の都市とは、心は夢を作る機械であり、現実がそのようなものだと主張することになりかねないということである。以下、この章の五つの節が何を論じているのかを項目のみ確認しておく。副題は適当に付けている。

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Ⅰ.カント以降の哲学:シェリング・ショーペンハウアー・ミューラー
経験主義と超越論を統合したカントから形而上学的次元を抜き取ると、問題は心と脳あるいは身体の問題となる。人体生理学は、ポストカント哲学を科学に結び付けた。ミューラーによれば、知覚でさえ心が作り出している。
Ⅱ.形而上学の失墜と生物物理学の興隆・行き詰まり:ヘルムホルツ・ブリュッケ・エクスナー・マイネルト
定量性も再現性もないドイツ観念論の議論は、自然科学の世界で場を失う。機械論的見解は成果を挙げていくが、反射系から人間の自由意志を導き出すことはできない。大脳皮質のニューロンの層状構造を証明したマイネルトは、複雑なモデルを提起したが、局在論に与したことで、言葉の言い換えと大差がなくなった。
Ⅲ.生物物理学から精神物理学へ:フロイト・フェヒナー・ヘルムホルツ
量Qとニューロンを掲げた『心理学草案』(1895)の構想は、まさに「科学的な数量化と機械論的説明」に基づきつつ、それに還元し尽くされない心の働きを描出することである。知覚の心理学はそれに成功しているが、欲望や自由意志の行為には届いていない。フロイトは失語症の研究を通じて精神物理学的心脳平行理論に近づいたが、心の機能の研究にはそれ独自のものを要した。
Ⅳ.『心理学的草案』から心理学自体へ
この項は、『草案』の概説である。さまざまな概念装置の工夫はあるが、「防衛」という意味が出てくると、それらが疑似科学的名称であることが露呈する。結論:心理学のみを研究すべし。
Ⅴ.自己分析から『夢解釈』へ
自己を分析するにも、それを映し出すものが要る。それが夢であり、フロイトはそれを文学と物理学の交差に置く。文学は、欲望と検閲の解釈を提供し、物理学あるいは機械論的な心的装置は、それを支える構造的な理解を提供する。残っているのは、欲望の問題である。

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