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岐路にある精神分析 国際的視点2

1の最後で言及したサピソチン(Sapisochin, G. (2019) Enactment: Listening to psychic gestures. International Journal of Psychoanalysis 100:877-897)は、「心的ジェスチャアpsychic gesture」という呼称を用いつつ、「自由連想と平等に漂う注意の対によって接近することができない無意識の水準」があり、そうした無意識は、言葉や思考ではなく、「実演/エナクトメントenactment」に現れる、と論じている。つまり、タケットの想定するフロイト以来の精神分析を超えた、無意識へのアクセス法である。それは、心的でもあり行為でもある、コミュニケーションになりうるものの立ち表われのようである。それに対して討論者のJ・スタイナーは、このような概念新作自体を患者の精神病理への呼応と見なし、投影同一化の観点から説明した。(私は更に別の観点から考える余地のある事例として取り上げたことがある(第117回日本精神神経学会学術総会:教育講演)が、その再説はまた別の機会にしたい。)
1950年代のビオンで言えば、心と行為の狭間にあって移行しうるものは、イデオグラフやイデオモーター活動と同格だろう。ちなみに心と身体の狭間にあって移行しうるものは、情動である。β要素は、外部知覚と内部知覚それぞれの〈外〉、〈物自体〉に位置づけられる。これはスタイナーの「投影同一化」の原型であり、個体の独立性を前提にした上での交流である。「表意運動活動」は言葉上は、サピソチンにも近く見えるが、後者が関係精神分析の流れにあるのならば、「無意識」の意味は違うだろう。
タケットが精神分析における観察として挙げた「自由連想」と「平等に漂う注意」は、どちらもそれぞれ患者と治療者の意識に浮かび上がらせる仕掛けであり、浮かび上がった結果である。それは神経症の研究を通じて明らかにされたことだが、その後の他の精神病理では、”端末”は共通していても、表象・情動・身体感覚・幻覚・行為・・と、経路およびその性質が異なる。

以下、本書の中の臨床例を幾つか見てみよう。
第一に、タケットは古典的な例として、

アイスラーの症例報告

(Eissler, K.R. (1953) The effect of the structure of the ego on psychoanalytic technique. Journal of the American Psychoanalytic Association. 1: 104–143.)から取り上げている。抜粋の抜粋で、概要を紹介する。

まずは、原理の紹介。『患者は、基本的な規則と、それに従う義務があることを知らされる。患者は、できる限りそれを守る。回復を達成するためにはそれで十分である。分析者がこの課題を達成するための道具が解釈であり、解釈の目的は患者に洞察を与えることである。洞察は、これまで自我の達成を遅らせてきた障害を取り除くだろう。ここでの問題はただ、いつそして何を解釈するかのみである。なぜなら理想的な場合、分析者の活動は解釈に限られる。他の道具は必要にならないからである。
優れた知性のある患者は......妻に関する些細な事柄について繰り返し訴えることで、分析の長い時間を埋めていた。彼は、自分の訴えの激しさとその内容の些細さとの間の不一致が、話し合いと説明を必要としているという明白な事実をまったく理解していなかった。ある日、彼はやや唐突に、自分がいつも不満に思っているようなことを妻がするのを楽しんでいること、自分が不愉快に思っているような行動を妻にとらせる、密かな状況操作の仕方を知っていることを報告した。それは彼に、妻に対して冷たく不親切になるきっかけを与えた。
このようなものを読み慣れている現代の読者は、三手くらいの詰将棋のように、何がどう起きているのか、既に予想が付くだろうが、以下は、タケットの説明である。ゴシック体は、引き続きアイスラーの引用。
「この推論(意味の翻訳)と、この状況は患者が罪悪感を感じることなく無意識のうちにサディスティックな快楽を得ているので繰り返され続けているという考えに基づいて、アイスラーは彼に「洞察」を与えるために介入した。彼は "説明 "した、つまり、患者が妻にしていることについての自分の洞察を、患者と共有した。
 見たところ、アイスラーの患者はこの「解釈」を認めた。さらに続く連想で患者は、ずっと以前からこのことを知っていたと自ら申し出て、アイスラーによれば今や、『妻に身を守る機会を与えることなく、無力な犠牲者という状況へと妻を操るという不気味な加虐的な技法をいくらか理解していた』(139ページ)。したがって、この時点までにアイスラーは、患者の結婚生活における問題の反復の因果的力動について、より広範な診断を推論するのに十分なほど知っていると考えた。」
タケットが "説明 "と書くのは、解釈の実質がそのようなものだからだろう。アイスラーの訓練は、第二次世界大戦前のウィーンに遡られる。初期のフロイトは、自分が理解したことはそのまま洞察だった(自己分析だから)。しかしそれを患者にそのまま伝えても、患者の無意識には響いていないことに気づいて、更に理論化を進めた。しかし実践の記録を見ると、彼の解釈は合理的な説明に基づく説得に近いものが多かったようである。
「しかしながら、彼が自分の構築を患者に伝えたとき、患者の反応は彼が「抵抗」と呼ぶものであった。患者は、自分が妻に対してそのように振る舞っていることには同意できたが、それが完全に正当化されるものだとも確信していた。彼は『自分自身にも、分析者にも、自分は残酷なのではなくて、妻の欠点のために同情に値する、と証明しようとした』とアイスラーは書いている。
 ここでの抵抗とは、患者が分析家の構築に同意しないという意味であるらしい。Schafer (1973)が目に留めたように、これではそれを、欲求不満の逆転移反応と区別するのは困難である。
 アイスラーはさらに、このような患者の反応に直面したとき、どのように理解したかを語る。患者の反応、つまり彼が抵抗と思うものは、次のような問題だと仮定すれば理解できると彼は考えた。すなわち、患者は妻との活動の意味を意識することに伴う罪悪感に対処できず、だから自分の行動の理由を認識することを拒否しているのだ、と。アイスラーの解決策は、状況の犠牲者だという彼の「絶え間ない不平」が現実には、自分の罪悪感を和らげる目的を果たしていることを洞察させることだった。アイスラーはこの状況を要約してこう書いている。『彼はカモフラージュを巧みに使った方法でサディズムを満足させることに成功すればするほど、翌日には自分のことを、不満足とされる相手と結婚したことで運命に傷つけられ不当に扱われた者として見せなければならなかった』(139ページ)。
 問題は、このさらなる締め付け〔constrictionだが、constructionの誤字ではないか?〕が患者に受け入れられなかったことだ。「彼はそれを理解できず、私についてくることもできず、自分の訴えの正当性を主張したが、彼は、自分が次の日には習慣的に私に訴えるような振る舞いを妻がするように、自分自身がひそかに仕向けたと同意したばかりだった」(p.139)。
 抵抗を説明するために書かれたこの論文では、誰が「知っている」のかについて、患者と分析者の間で続いた争いの結果は、それ以上語られていない。アイスラーが書いていることからすると、行き詰まりのようなものがあったと思われる。患者は「運命に不当に扱われているという感情を放棄するよりも、サディスティックな満足を捨ててこの力に対する統制を獲得する準備の方がある、とまでには至っていなかった」(p.140)。
結局、患者は大して変わっておらず、アイスラーはあまり納得のいっていないところで記述を終えているようである。
現代ならば、真っ先に思うのは、――これは妻との関係の反復ではないのか?ということである。アイスラーの方は、くどくど繰り返すというセッション中の行動が、現在の生活における対象関係つまり妻との関係の特徴づけに用いられていることは認めるが、自分が妻と同じようにコントロールされ、サディスティックに扱われている、とは思っていないように見える。
here & nowに慣れている私たちにとっては、意外なほどである。フロイトも「想起、反復、反芻処理」(1914)の中で、患者の面接内での振る舞いに注目していたのではなかっただろうか。しかしそこでの焦点は、あくまで”過去からの”転移であって、過去・現在の生活状況・治療関係を貫く内的対象関係を基本とした理解ではないので、妻との関係の話が、自分の関係について詳らかにしていると思わなかったのだろうか。患者治療者の二者関係の中で、自分は相手にどう映っているのかを確認することは、その気がないと難しい。
このような解説は後出しに過ぎないが、現代の理解との違いが何に由来するのかを考えてみる機会にはなる。面接の中での現在進行形の倒錯的対象関係を見るには、より広い前提として、例えばPS水準ではメッセージが理解を前提としたやり取りでなく、相手への行動として受け取り、自己生存のための防衛が第一優先事項となること、二者の関係を理解するには、第三者の位置を保持している必要があること、などを把握している必要がある。

フレッド・ブッシュ 精神分析の森をどう育てるか:今後の課題 How to grow a psychoanalytic forest


フレッド・ブッシュは多くの論文を発表しており、邦訳は『精神分析マインドの創造』(原書2013、邦訳2021)がある。アマゾンのサンプルでは、Cecilio Paniaguaによる解題を読むことができる。ここでの一章、「精神分析の森をどう育てるか」では、著者が自我心理学を中核として、他の学派を排除せずに取り入れていくさまを読むことができる。彼は冒頭の総説に当たる部分で、フロイト以降の展開がクラインもラカンもコフートもフロイトを逸脱していると厳しく批判するが、「精神分析の森」の比喩によって、新たに登場した学派がフロイトの説にとって代わろうとするのではなく、共存していく道を提示している。森は、地下では菌糸によってつながっていると言う。ただ、実例を読むと大変折衷的で、それ自体が独自であり、他から採取された方法が元の意義を留めているのか、分からないところである。ここでは資料として実例の素訳を上げておく。

 臨床例(私の考えは、イタリック体で示す〔とあるが、ここでそれを実行できないので、以下では記述とやり取りの方をゴシック体にする〕)
ハロルドは40歳の有名大学の正教授であり、治療に来たのはうつ状態のためで、自分が評価されていないと感じることが多く、その結果他人から距離を置き、時折怒りを爆発させていた。
 分析を始めて2年目、ハロルドは夢を語ることからセッションを始めた。話し始めると、彼は言い間違いをして、長く沈黙した。それから彼は何事もなかったかのように続けた。
以前には彼は、折々、言い間違いを無意識の出現のサインと見ることができて、それを分析することに前向きだった。しかし、今日は違った!
 私はハロルドの苛立ちを感じ取り、彼はおそらく自己愛的に困窮した状態にあり、言い間違いを、自分が考えていた方向に行くのを止めるものとして経験したのだと思った。これは以前にも見たことがあった。そのような時に私は、ハロルドが言い間違いをどう扱ったのかをどう尋ねても、彼はそれをまたることはついてのいかなる質問も、また邪魔をされた、つまりミラーリングの失敗として経験するだろうと理解したつもりだったので、その瞬間には私は何も言わなかった。コフート以前の私なら、ハロルドの話を遮って、スリップに対する彼の非反応に疑問を抱いたかもしれない。
 彼は再び話し始めると、兄からいかに連絡がなかったかを説明した。続いて、彼のメールや電話に応じない人たちに対する不満の数々が繰り返し述べられた。彼が話しているうちに、私は自分の沈黙が、ハロルドにとって別の意味を持っていたかもしれない、と感じることができた......つまり、彼は私から連絡がないことに苛立っていたのだ。しかしながら、もし私が何か言っていたら、彼は私が彼に自分でやってみさせなかったので、腹立ちを感じたことだろう、ともやはり感じた。これは、ハロルドと作業をする上での一つのジレンマであり、ミラーリング(つまり、今この瞬間は言い間違いを扱いたくないという彼の願望をよく理解すること)を欲することと、私の声を聞きたいと切望することの間の葛藤であり、それがさらなる葛藤を呼び起こした。
 理論によっては、誰かから返事がもらえないというハロルドの苦情の、転移の意味を解釈する必要性を示唆するかもしれない。しかしながら私は、患者が転移解釈を聞き、利用する準備ができているかどうかが、そのような解釈が啓発的であるかどうかの中心的な要因だと見ている。しばしば、転移の早い解釈は知的な理解につながると感じる。アンドレ・グリーンの言葉を借りれば、患者が亀のように動いている時に、分析者は兎のように走ることはできないのである。
 ハロルドは、よくあることだが、他の人たちから返事がないのは、自分が彼らを怒らせたに違いないと考えた。自分が怒らせたと思った相手から最終的に返事が来て、彼にすぐに返事をしなかったことの説明はたいてい当たり障りのないものだったが、それは彼が人々を遠ざけているという見方を、ほとんど変えなかった。
 このとき私は、遠距離であるにもかかわらず自分が誰かを怒らせたとハロルドに感じさせる力に、衝撃を受けた。彼は、相手が出ない原因として、自分が何かをしたと感じる方へと、引き寄せられているようだった。私が時折、相手が出ないより穏当な説明につながりそうな、彼が述べたことを指摘すると、それは激しく拒絶された。つまり彼は、それが自分とは関係ないかもしれないことを許容できるよりも、自分が他人を遠ざけているのだと感じる必要があるようだった。このとき私は、彼の母親が彼の生まれた後、ひどいうつ状態だったことを考え始めた。彼女は時間が経つにつれてうつ状態が軽くなったが、それでもまだ抑うつ的だった。つまり、ハロルドの幼少期には、彼女は身体的にはそこにいるが、情動的には不在のように見えた。父親は仕事が忙しく、ハロルドの幼少期にはほとんど関わりがなかった。乳幼児期、早期児童期、そして発達上決定された別離の嵐のような情動に対処する上で、誰も情動的な容器としてハロルドのためにいなかったようだった。さらに分析を進めると、彼が子どもとして孤独感という恐ろしい感情を経験したことが明らかになった。最終的に、私たちはハロルドの自己批判で役割を演じている諸要因についてさらに多くのことを学んだが、今提示した素材の中では、受動的なものを能動的なものに変えるというこの欲求は、作業可能な表面(Paniagua, 1985)や、私が「近隣で」作業する(Busch, 1993)と呼んでいるものに近いように思われた。
FB: 私の印象では、人々が電話やメールに返信してくれないとき、それが彼らをあなたが怒らせたからではないとわかっても、それであなたの見方は変わりません。相手との距離を感じ、それは自分が何かをしたからなのだと思わないと、非常に居心地の悪いものがあるようです。
 この介入は、分析者中心の介入(Steiner, 1994)から始まり、今ここ(Gray, 1994; Joseph, 1985)での明確化(Bibring, 1954)が続き、アナ・フロイト(Anna Freud, 1936)のやり方で前意識(Green, 1974)の防衛を表している。
ハロルド:うっかりコップの水を倒してしまって、母が私に激怒したときのことをちょうど考えていました。母の怒りの激しさは、その行為に見合ったものではなかったように思います。しかし、当時は自分が何かとても悪いことをしたと感じていました。ほとんどの人は、私のことをかなりいい子だと見ていたと思います。学校での成績もよく、友達も多かったし、スポーツも得意でした。私が学業やスポーツで優秀な成績を収め、表彰されると、母は私のことを誇りに思ってくれていると感じました。しかしそれで、終わりのない批判のようなものを口にするのが止むわけではありませんでした。今になってようやく、母は自己愛的な理由で、「こんなに素晴らしい子供を産んで、私はなんて素晴らしい母親なんだろう」といった誇りを感じていたのだとわかります。家の外での母親は、家の中とは別人でした。家の外では、優しくて感じのいい人のようでした。いとこたちの間では、大好きなおばさんだった。家ではよそよそしく、気難しく、批判的でした。おそらく今は、家での母親があまりに違っていたとき、母に嫌な思いをさせたのは私だ、とどうして私が感じたのかが、分かります。
FB: それは重要な洞察だと思います。誰かがよそよそしいと感じたとき、それが自分のしたことのせいだと思い込んでしまうのはなぜか、今ならわかるかもしれません。あなたの母親は、批判を通してあなたと最もつながっていたようですが、今では、他人が出てこないと感じ、それがあなたを心配させるとき、その人とつながっているための重要な方法のように感じます。
 ハロルドの連想は彼と母親の関係に及んでいたので、私は彼の洞察を評価すると同時に、転移と彼の相互作用の中で起こっていることの一面を振り返るために、それを詳しく説明することが重要だと感じた。フロイトもハルトマンも対象関係を無視していると批判されたが、これは誤解である。確かに対象関係論の視点には、現代フロイト派の視点と矛盾するものは何もない。
ハロルド:うーん!そう感じなかったことがあったか覚えていません。先週、先生は疲れているように見えましたし、私は自分があなたを退屈させていると思いました。金曜日に先生が体調が悪くてキャンセルしたときに初めて、それが私のせいではなかったと気づきました。
FB: 私が退屈していたという感じ方について、何か思い当たることはありますか?
HAROLD:そうですね、時々、私が話していることに先生が、他の人たちよりも熱心に見えることがあります。例えば、私が部署のミーティングについてまた話すときには、あなたはあまり熱心ではないと思います。
FB: ハロルドの観察が正しいと思ったので、こう言った:あなたが正しいかもしれませんね。気を付けるようにしますよ。
ハロルド:うーん!それは驚きです。以前の分析では、私の分析者は私が彼について抱いていた感情を正当だと認めることは、決してなかったので。ありがとう。沈黙。私が考えていたことを言うのを躊躇っていたのは、それが同じいつものハロルドだからです。私はジュリー(彼の妻)のことを考えていて、今朝彼女がどのように遠くよそよそしかったか、私は何をしたからだろうかと思っていました。 
FB:つまり、私があなたに、前の分析者があなたに与えなかったものを与えたと感じた後、あなたの考えは誰かが遠いよそよそしい人に向かいますね。近さは不快なようです。
ハロルド:私は自分がこれを続けているのが気になります。
間があった後、セッションは終わった。

セミナーであれば、参加者からさまざまなコメントを聞いてみたいところである。このかなり折衷的なところには、いろいろな感想がありうるだろう。
詳しくは当日思いつくままに述べたいが、まずは巧みに感じられる。かなりのスムーズさに、too good to be trueではないか?と疑い始めもすることだろう。これは全体像ではなくて、何処かに排除された悪い関係はないのだろうか、とも。
全般的なこととして言えるのは、さまざまな学派を踏襲したうえで、結局著者独自のブレンドになっているのだろう、ということである。彼の転用は、必ずしも原義通りではないし、元の文脈にあった特定のタイプの患者への適用という考慮は、もっと場面場面に応じたものになっていることで、分かりやすいが浅い印象を与えている。

ブッシュ『精神分析マインドの創造』に序文を寄せているパニアグアは、「古典的」と見なされるアメリカのとあるインスティテュートで一者自我心理学に基づく訓練を受けた。彼はその後、さまざまな学派を顧慮して身に着けてはいるが、いろいろ学んだ末?の結論として、自分の「分析手法に大きな変更は必要ないと感じた」と述べている。その立場ではどうなるのかを追って見よう。

セシリオ・パニアグア 岐路に立つ技法 Technique at the crossroads

「私の長年にわたる被分析者は、あるセッションで、私に依存していることへの屈辱感を苦々しげに訴えた。その時の彼が男性的自尊心を主張するための唯一の防衛策は、父親のように挑発的になることだった。そして彼は、最近シェークスピアを読み直したところ、シェークスピアが「ろくでなし」であることがわかったと付け加えた。彼の判断では、この作家の大芝居は人間の苦難に対する現実的な理解を欠いていた。彼の暴言(スペイン語ではもっと荒々しく聞こえるような気がする)に私は驚き、無言で笑った。患者は私の鼻で笑う声を聞いて、面白いとは思わなかった。彼は、偉大なる吟遊詩人は「悲劇に登場する登場人物たちがヒステリックに誇張されているため、世界中で不当な賞賛を受けている」という彼の意見を「嘲笑」したことを非難した。私は、彼の侮蔑的な表現が意図的にグロテスクなものであるという考えを彼が私と共有していることを当然だと思っていた。このようなやりとりは初めてではなかったし、私たちは場にふさわしく笑い合った。しかし、今回のように、ささやかな笑いで治療関係に奉仕しようとした私の試みが裏目に出たこともあった。私は、ある状況における彼のユーモアのなさについて盲点があったようだ――私が自己分析で考えるべきことである。
 私は、微笑んだり時折笑ったりすること--もちろん、患者が劇的なエピソードを語っているときや怒っているときは別である--は、「分析者がそこに実在する人間であることを[感じる]こと」の一部であると信じている(Hall, 2021)。私はまた、このような分析者側の人間性の表出が、その強度とサブカルチャーの環境によっては、失態とみなされることもあることを理解している。米国での研修で、共感と善意を伝えようとする私の微笑みが、患者には過剰に映る可能性があるとスーパーバイザーの一人に指摘されたことを覚えている。しかし、私自身の協会では、笑顔はほとんどの場合、期待される平均的な反応だと考えている。今回、被分析者と接する中で、私の一人笑いの別の意味が見えてきた。それは、私の人生のある時期における自己防衛的な行動を振り返るきっかけとなった。おそらく私は、私の逆転移的防衛を隠すことを目的とした無意識の策略を、部分的には治療同盟の共感的補強として、受け取ろうとしたのだろう。
 逆転移は避けられない現象であり、分析者はそれを理解し、コントロールする必要がある。その存在を否認することはしばしば分析にとって致命的だが、それに振り回されることも同様に有害である。確かに、臨床内におけるその発現が治療の障害となりうるからといって、その概念を排除してよいということにはならない。スピッツ(1956)が指摘したように、問題は逆転移の存在からではなく、その行動化から生じる。患者との二人称的な関係は、実にわれわれの逆転移的反応に気づかせる。ラッカー(1957)は、「[逆転移]は最大の危険であると同時に、理解のための重要な道具かもしれない」(p.303)と述べている。たとえば、この患者の発話は、オセロやリアやハムレットをスペインの古典の登場人物と比較する私の関連性がない浮遊する考えに気づかせてくれた。この特異で偏見に満ちた物想いが、私の独り笑いを誘ったのかもしれない。
 私はこの被分析者の非難に満ちた反応に、どう反応すればよかったのだろうか。私の穏やかな笑いは、私のサブカルチャーの中で本当に適切な反応だったのだろうか?私は自分の育った環境で学んだパターンを自動的に繰り返していたのだろうか?もしそうなら、この話題はどう切り出せばいいのだろうか。また、彼の反応はどこまで分析可能なのだろうか。私はそのときまでに、彼の鬱積した怒りと、転移した権威者に対する復讐心に満ちた軽蔑をよく知っていた。この患者は、幼少期の父親を、要求が多く、懲罰的で、思いやりのない人物だと表現しており、私の中に、過去の経験の「新しい版や複製」(フロイト、1905年、116ページ)以外のスタンスや特徴を見出すことに苦労していた。彼は、私が男性的優位の架空の台座から彼を卑下し、嘲笑したいという願望に駆られていると感知した。彼は叱責を通じて私を狼狽させ、過去の屈辱のレベルまで私を引きずり降ろそうとしているのかもしれないと思った。この臨床の岐路における道筋の技法的な選択についてのさらなるコメントとともに、この非常に短いヴィネットについての私の考察を述べたい。
 私は黙ったままで、私の笑いに対する彼の感情とそれに対する彼の反応を拡大するような、さらなる連想を待つこともできた。私は付加的な転移の置き換えを特定するために、私との相互作用における過去の同様の反応を彼に思い出させることもできただろう。私は、このときの彼の扱いにくさと、彼の苛立ちの防衛的性質をさらに探究することもできただろう。彼が攻撃されたり嘲笑されたりしていると感じることがいかに多いかを知っていた私は、彼が私たちの役割を逆転させる珍しい機会と思われたことを分析しようとしたかもしれない。もしかしたら、私は私に対するエディプス的な対抗意識に触れることもできたかもしれない。シェイクスピアの登場人物に関するさらなる連想について彼に尋ねることもできただろう。これまでの多くの場面で明らかになった、熟達した男性に対する彼の羨望について言及することもできただろう。私は彼が、父親や私に比べて自分が劣っていることに痛ましくも触れた直後に、彼が巨大な作家を失格にしたことを指摘することもできただろう。これらはすべて、深さ、洞察力、共感力、彼の防衛の揺らぎへの綿密な注意、彼の受容性の評価の程度を変化させながら、私自身の特異性の見当をつけようとしたものである。私はこれらの可能性を、一者心理学の技法と矛盾しないものと考えている。
 私が理解する二人称アプローチに従えば、私は患者に、(即興的または意図的な)その時点での私の連想や、幼少期や最近の過去に関連する認知的・情動的記憶についても話すことができただろう。また、分析者は患者が見ることのできない夢を患者と共有すべきであるというビオン(Bion, 1962)の言説に従って、私の空想、回想、あるいは「逆転移夢」(Bergstein, 2013)を彼と共有することもできただろう。さらに、サブカルチャーの比較に関する経験や文学の知識も話すことで、私自身をより「リアル」に見せることができた。これらはすべて、私の「人間らしさ」を示し、彼の無意識とより深いつながりを作るという二重の目的を持っていた。しかし、このようなアプローチは、本当で「本物の性質」(タウバー、1954)を欠いてはいないが、連想のために不必要な外的素材を彼に提供することになっただろう。ここで問題なのは、彼が私の考えや傾向に関する知識を、防衛的な知性化の正当化として、彼自身の連想と混ぜてしまうことだった。間違いなく、分析者側のこの関与は、彼自身の伝記的経験に関連する怒り、ねたみ、迫害的感情に関するその後の素材を著しく色づけし、その結果、転移現象の分析を妨げることになっただろう。」
著者は、彼が使用に至らなかったこれらの技法は、「暗示」に戻るようなものだという。必要なのは、分析的な設定の中で分析的態度で、分析を行なうことである。
「私は、禁欲、中立性、匿名性(距離を置くこと、遠さ、無関心、高慢さと取り違えてはならない)は、今でも私たちの職業において基本的な役割を果たすべきだと思う。私たちのウェブ時代において、匿名性はより難しくなっており、分析者が私たちの現実的な個人的特徴に、特に長い治療において気づかないと考えるのは、いずれにせよユートピア的である。しかし、このような認識とそれに伴う連想や暗示で十分ではないだろうか?なぜ不適切な開示でさらに問題を複雑にするのか?もちろん、精神分析的でないケースでは、上記の三要素を厳密に適用することは不適切であろう。この技法的ルールの存在意義は、患者の転移を可能な限り純粋に探求することであり、この目的は、支持的手段や対人的影響が重要視される多くの心理療法において、必ずしも優先されるものではないことを心に留めておく必要がある。」
著者の古典的スタンスは明らかだろう。しかし著者はそれに不自由を感じている様子ではない。では誰に、こうしたことを伝えたいのだろうか。

レイチェル・ブラスは、精神分析の領野の範囲を定義しようとすることを巡って、ディベートを想定する。極端な客観主義者、つまり真実は一つで、必ず追求可能だとするものに対して、極端な相対論者は、心理は社会的構成物であり、誰も絶対の権威を持ちえず、そのような主題は、不和をもたらすばかりである。――と言う。紹介しているレイチェルは、後半の反論の方に熱が入っているようである。彼女は、精神分析の多様性と統一性を分かりやすく提示するために、〈キリスト教〉を上げる。流派ごとに見ていくと、そこには差異と不和が溢れてくるが、他の宗教との相違は、かなり明確である。この論文は、精神分析について考える際に、さまざまな論点を提供している。

レイチェル・ブラス 「それは精神分析ではない!」と断言すること:私たちの分野の限界を定義しようとする、政治的に正しくない行為の価値について Affirming “that’s not psycho-analysis!”: on the value of the politically incorrect act of attempting to define the limits of our field

ディベートでは、背理法が盛んに用いられている。ある主張の行き着くところが極論になるのならば、それは限られた局面でしか成立しないものである。しかしその論争で何かが得られても、強制力はないので、合理的・理性的な変化は緩慢である。複数の流れ――30近い――が何をしているのかは、具体的に見る必要がある。

2023年にこの領域で興味深かったのは、各学派の歴史を眺望することによって現代の精神分析が何であるかよりは何をしているのかを、29の章によって説いている。それを吟味するのは、また次の機会としよう。

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