日本社会のパートナーシップ恐怖症
自分の妻を「嫁」と呼ぶ男性について、女性蔑視ではないかとか、そもそも嫁は息子の妻のことなので用法としておかしいとか、論争になっていることがあります。
「あれは関西の芸人が使っているのが広まっただけで、他意はないんだ」という説もありますが、関西特有の言い回しがたくさんあるなかで、「嫁」だけがぜんぜん関西人ではない人にまで広まったのは何か理由がありそうです。
思うに、妻を嫁と呼ぶ男性は「パートナーシップが怖い」のではないでしょうか。
「夫と妻」は一対一のパートナーシップで結ばれた関係です。
(一夫多妻制の国もありますが、それも「一対一×人数分」のパートナーシップ関係に変わりはないです)。
対して「嫁」は「家」という集団のメンバーで、夫とは「同じ家のメンバー」というメンバーシップでつながっています。
妻は「私の妻」ですが、嫁は「ウチの嫁」であり、所有格が団体になるのです。
昔の結婚は、個人と個人の結びつきと言うより、「家」という会社に「嫁」という職種の新入社員が入ったという感覚で、結婚式なども「新入社員歓迎会」みたいなものだったのかもしれません。夫になる人としては「自分の部署に新人が入ってきた」感じですね。(余談ですが柳田国男の『婚姻の話』という本で、結婚式当日に新郎がよそに外出させられ、ぶらぶら時間をつぶして終わったころに帰ってくる風習の地域が紹介されていて面白かったです)。
もちろんブラックな家で嫁を虐待するところもたくさんあったでしょうが、わりと待遇が良く大事にしてくれる家もあったでしょうから、「嫁」が一律に不幸とも言い切れません。
その延長線上にいる日本人男性としては、「パートナーシップとしての結婚」に直面してどうしていいかわからないので、とりあえず「嫁」と呼んで「いやあパートナーではなくメンバーなんですよ」風を装っているのではないかと思います。親もきょうだいも子どももなく、身内は妻一人、という男性でも「嫁」と呼ぶのかわかりませんが、その場合は存在しない幻の他メンバーを想定していることになります。
この「パートナーシップ恐怖症」は夫である男性個人に限りません。世間レベルでも同様です。
パートナーシップとしての結婚を定義するなら「一対一の対等な個人による、排他的な協力関係」と言えますが、これは極めて高度な人間関係なので、理解が難しいのです。
カップルに対して「あそこはカカア天下だから」とか「亭主関白だから」と言いたがる人がよくいますが、女性蔑視というより、「夫婦が対等であるくらいならむしろカカア天下のほうが安心」なのです。パートナーシップというのは「押されたら押し返さなければいけないが、絶対に土俵を割らせてはいけない相撲」をえんえんと続けるようなものなので、見ているほうとしては「どっちがボスなのか決めてくれ」という感じなのでしょう。どちらかが相手を尻に敷いている体勢のほうが安定して見えますからね。
そもそも社会のなかで、結婚以外のパートナーシップ関係を築いている人をめったに見ません。せいぜい共同経営者と起業している人か、社交ダンスやフィギュアスケートのペア競技者くらいでしょうか。
日本のフィギュアスケートが、シングルのレベルはあれほど高いのに、ペアは一貫してパッとしないのは不思議に思いませんか。スポーツでお家芸と言われるものは、ほぼ個人競技か、野球のような典型的チーム競技です。
音楽でも、ソロ歌手としてすごくうまい人や、合唱団の一員として完璧な人が、デュエットをやらせるとガッタガタになります。海外の音楽番組を見ていると、ソロ歌手同士で気軽にデュエットする場面がよくあり、しかもみんな普通にうまいのですね。日常的にデュエットを楽しむ文化があるのかもしれません。
私たちは、集団の一員としてボスの指揮下で生きるか、あるいは山奥でひとり修行するような完全な孤独者として生きるか、しか選べないのでしょうか。
一人の人間と一人の人間が、支配する者と支配される者に固定されることなく、状況に応じて柔軟に交代でリードをつとめ、支えたり支えられたりして生きていく、というのはなかなか興味深い関係だと思うのですが、みんな怖がって挑戦しないのはもったいないですね。