川上弘美『センセイの鞄』
また「ロマンチックとは縁遠い性格でほとんど恋愛小説を読んだことがない自分がいいと思った恋愛小説」の紹介です。
前回はこちら。
今回は川上弘美『センセイの鞄』です。
主人公はツキコさんという女性で40歳くらい、センセイは「三十と少し」年上で高校時代の恩師にあたります。行きつけの飲み屋で偶然再会したことがきっかけで、すこしずつ心を通わせていきます。
季節の移り変わりやおいしそうな食べ物とともに、二人のもどかしくもほほえましい恋の進展がコミカルに描かれているためか、川上弘美作品の中でも一般受けするものとみなされているようです(個人的にはこのセンセイは文学史上屈指の素敵おじいさんと言えるくらい、魅力的なキャラクターです)。
ただ、初めてこの小説を読んでから20年近く経ち、自分がツキコさんと同じ年頃になってみると、別の面が見えてくるようになりました。
センセイとツキコさんの年齢差が何を意味しているのか。
それは「死との距離の差」です。
「いつだって、死はわたしたちのまわりに漂っている」とあるとおり、センセイの残り時間が限られていることは、物語の中で暗に、またははっきりと、絶えず提示されています。
一方のツキコさんはもう若くもなく、かといって老人でもありません。
「中年」というのは何が「中の年」なんだろう、と昔は思っていましたが、これは「生と死の中間地点に位置する年」ということではないでしょうか。
私自身、まだまだ生きることに縛られていますが、最近になって、どこか遠くのほうで死から呼ばれているような気配をうっすらと感じ始めるようになりました。
「あちらの世界」からの死の引力と「こちらの世界」へつなぎとめようとするツキコさんの引力のあいだで、センセイも揺れているようにみえます。
夢の中でセンセイとツキコさんが「妙な場所」である干潟へ行く幻想的なシーンがあるのですが、これは「生と死の中間に位置する場所」のようなのです。
センセイとツキコさんが肝心なところでぐずぐずと逡巡するのは、この境界線を越えるのが怖かったのかもしれません。
ツキコさんにとって最大の恋敵は死神であって、それは勝ち目のない闘いでもあります。
この心温まる恋の物語は、同時に避けられない終わりに向かって突き進む悲劇性を帯びているように見えてくるのです。