自然神との対話の足跡④
那賀川をさかのぼり、2019年10月16日にその一部が国史跡に指定された「若杉山辰砂採掘遺跡」、「加茂宮ノ前遺跡」などを巡ってきました。1950年代に遺跡の存在は知られていたようですが、1980年あたりに近くで数年暮らしていたにも関わらず、見る機会を逃していました。
生産拠点が縄文時代の住居跡や配石遺構(ストーンサークル)などと共に発見されたことをこの度確認しました。縄文海進の時期には「加茂宮ノ前遺跡」の場所が生産だけでなく直接の流通拠点であった可能性が高く、丸木舟で日本全国に辰砂(しんしゃ)を運んでいたと考えます。現代の鉱業と同じような活動を行なっていた事実は、縄文時代を文明と呼ぶべき十分な理由になります。縄文後期から国内最大の水銀朱生産の拠点であった「加茂宮ノ前遺跡」の発掘は、歴史を塗り替える考古学的な価値を持つ発見であると思います。律令制の時代に若杉山で生産された辰砂が鮎喰川下流域から板野郡の郡頭遺跡に運ばれ、そこから各地へと搬出されていった記録が残されています。
水銀朱とは辰砂という鉱物を粉末にした赤色の顔料で、縄文時代に既に使用されていました。縄文時代の人々は赤色を神聖な色と考えており、蘇生や霊を封じ込める力があると信じていたようです。古代(2000年~1500年前)より、死者を葬る儀式の中で赤色顔料を盛んに使う風習になり、邪悪なものを封じ込め災いを防ぐ 「魔除け」 のために使用されていたようです。弥生時代後期から古墳時代中期に神社の柱などが赤く塗られているのもその理由からだと言われています。
水銀朱は九州、四国、本州西半の中央構造線に沿って、辰砂(素材は硫化水銀:HgS)として採れますが、実際に採掘できる場所は中央構造線南の地層となっています。
辰砂の採掘は石英脈を狙って岩盤そのものを打ち割ることで行われており、採掘場所として石灰岩を割り取る露天掘りによるものと、チャート岩盤を横穴状に掘り進めるものの2種類が若杉山辰砂採掘遺跡で確認されています。
次の写真の山頂付近に白く映っている岩石を見ても確認できますが、この地域は地質的には花崗岩、石灰岩が多く露出しています。
第21番札所太龍寺の丁石は広く知られているとおり、南北朝時代に切り出された花崗岩に石碑が刻まれて18基残っています(11基が徳島県文化財に指定されています)。
太龍寺は「西の高野」とも称され、弘法大師(空海)が19歳のころ、この深奥の境内から南西約600メートルの「舎心嶽」という岩上で、100日間の虚空蔵求聞持法を修行したという伝えは、大師著作『三教指帰』に記されています。真言宗の開祖である弘法大師の親族は辰砂の製造・流通を取り仕切っていた(殯儀礼などを任されていた)と言われており、高野山の周辺にある多くの丹生遺跡と繋がります。
考古学は腰の重くて頭の固い研究者に任せず、市民が自分の足で確認してお互いに情報交換して作り上げる時代になったと考えます。海岸で拾った石は、中央構造線を境に明らかに赤みを帯びています。このことは縄文人以来、空海でなくても地元の人は皆気付いています。加茂宮ノ前遺跡から那賀川を下った海岸線にあるJR牟岐線の駅名は「阿波赤石駅」と命名されています。
人生は宝石箱をいっぱいに満たす時間で、平穏な日常は手を伸ばせばすぐに届く近くに、自分のすぐ隣にあると思っていた……