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僕は、鏡の前でにらめっこ中だ。家系的に髪には恵まれていない気がする・・・。僕もその道をすすむのだろうか。僕は、今のところは、気にしないでもよさそうだけど、20代の頃に比べると、髪のボリュームがなくなってきたような・・・。髪が細くなってきた気がする。まぁ、アラフォーだし仕方ないか、でも抗って、せめて60歳までなんとか粘らせたいものだ。
今、国の高齢者雇用施策は定年延長の方向だが、髪の定年も延ばしたい。

髪の悩みは多い。別に、これは男性だけに限ったことではなく、女性も多いらしい。顧問先で、女性管理職で50代前後の方と話をすると、そう深刻さはなく、笑いながらも、髪の話題が出てくる。

女性の社会進出にともなって、ストレスの増加、ホルモンバランスの乱れなど、昔に比べたら、髪によくない影響もあって、悩む方も増えているのかもしれない。
「まぁ、それはともかく、今日も仕事に取り掛かる前に朝刊を確認しとこうかな」

僕は、仕事に入る前に朝刊を確認する。顧問先関係の方が、お悔やみ欄に載っていないか、一面、三面と仕事に関係する話題はないかを通読する。そして織り込みチラシも軽く目を通す。

一つの折り込みチラシが目に止まった。
「あっ、『HASAMI&CCカット』がオープンするんだ」
HASAMI&CCカットとは、ここ数年、地元で人気の美容室で、何店舗か展開している美容室だ。僕も何度か行ったことがある。そこそこ知名度もある。

HASAMIは、なんとなくオーナーさんの名前か、美容室だけに、はさみからとったものと予想できる。CCは、なんの略だろうと思っていたら、以前「ちょきちょき」と顧問先に教えてもらった。「ちょきちょき」とは、なんだかかわいい。

洋風でスタイリッシュな店内で一見、素敵女子向けかなと思うけど、老若男女問わず、賑わっている店だ。週の中で何日か、素敵女子の時間帯、子どもさんの時間帯、シニアの時間帯と分けている。
お客様のカテゴリーによって、店内に求める雰囲気が違うため、対応しているのだ。

落ち着いた雰囲気がいい、子どもさんの声がにぎやかでもOK、店員さんと語りながらカットの時間を楽しみたい、などだ。この顧客層が求めるニーズに応える形で、時間分けしているのもウケているようだ。

店のマスコットキャラクターは、大きい目が特徴で、両手をあげているカニだ。名前は、「カニちょっきん」。スタイリストさんも、小さい子どもをカットするときは、カニちょっきんの帽子をかぶって、カットをしてくれる。このあたりの心遣いも素晴らしい。

10分程度でスピードを売りにする理髪店より、少し長めの時間、30分から1時間程度で、丁寧にカットしてくれる。スピードを売りにする理髪店と、2~3時間かけて、じっくり丁寧にカットをする美容室の中間のようなスタイルだ。意外とこういう店がないので、ありがたい。

さらに、HASAMIでは育毛にも力をいれているところが嬉しい。
僕も以前、体験したことがある。頭皮の毛穴の汚れを落とすスキャルプシャンプー、頭皮の血行をよくし発毛効果をあげるため微弱の電気を頭に当てる専用の機器、すっきりと空いた毛穴に育毛促進剤の注入までしてくれる。

スタイリストさんと話をしたら、「当たり前ですが、髪がある人がいないと業界としては商売あがったりなんですよ」と笑いながら教えてくれた。

そりゃ、そうだ。極端な話だが、頭髪がなくなってしまえば、美容師さんの仕事が無くなる。歯医者さんもそう。歯がなくなれば、歯科医の仕事はなくなる。

髪にしろ歯にしろ、事前にケア、予防して、残すことは本人にとってもよいことだ。そして商売相手を減らさない努力は、事業として大事なことだと思う。

そう考えたら僕だって例外じゃない。社労士の顧客は会社がメインだから、会社が残るように、各種の提案を行って、事業の発展を後押しすることが、自らの生業を確保することになるのだ。


税理士の百田来人(ももた・らいと)先生から電話だ。
百田先生は、今はとても想像できないが、学生時代、野球に打ち込んだらしく甲子園の一歩手前までいったらしい。

細マッチョだったとも聞いたことがある。今の百田先生は「どうしてその体形になった!」と突っ込みを入れたくなるほど、おデブだ。腹が出すぎているので、ベルトのバックルが下斜め45度、地面の方向を向いている。

名は体を表すとはよく言ったもので、体重は、三桁間違いないだろう。
「名前はライト、守備はレフト」と、いつも汗をかきながら、飽きもせず必ず毎回この下りを出してくる。僕も、最初の頃は反応していたが、最近は、スルーして、すぐ本題に入るようにしている。

まぁ、間違いなく悪い人ではない感じを漂わせている。
突っ込みどころ満載だが、百田先生は、どことなく愛嬌があって「甲子園の一歩手前だった」とか「俺は、税理士なんだ」と偉ぶらないので、好きな先生だ。
残念なことだけど、士業の中には、そこそこ難しい試験に受かっているせいか、どうも変に上から目線で、プライドが高い人もいる。

百田先生には、そういったところはないので、好感がもてる。
ただ、夏場は、あまり近づかないでほしい。これは胸に秘めておこう。

僕が開業当初に、百田先生から、顧問先を紹介して頂いてからのお付き合いになる。その当時から、この「名前はライト、守備はレフト」の前振りは全く変わっていない。リアクションはしないが、それはそれで継続していることは「自分を印象付ける」という目的は達している。

今日の電話は新規顧問先の紹介だ。
「あやみ先生、従業員が100名超えの会社なんですが、セカンドフーズ株式会社さまを紹介させてもらえませんか。この地域に5店舗以上展開している飲食業です。業種柄、人の入れ替わりは多いようですが、業績は堅調ですし、よい顧問先になると思いますよ。」

一人事務所の僕にとって、100人超えの顧問先は、負担感も感じるが、せっかくのご紹介だし、喜んでお受けすることにした。それにしても、ライト、レフトのあとに、今度はセカンドまで出てきた。今日は野球ネタの多い日なのかなと思ってしまう。

その後、セカンドフーズの青木社長に連絡をとり、とんとん拍子で顧問契約は決まった。社長自身は出張等が多く、会社にいることが少ないとのこと。娘さんが総務部長で、契約書等の書類のやりとりは郵便で済ませた。


「なんか気になる・・・」
僕は、セカンドフーズの被保険者記録を見る。
社労士は、新規に顧問に入った場合、現在の会社の被保険者状況を確認するため、事業主の同意を得て、年金事務オフィスから「事業所別被保険者記録一覧表」を代理取得する。

被保険者記録を取得することで、いつ誰が、健康保険の資格を取得した、あるいは喪失したかが分かるので、社員データの整理が行いやすいのだ。この記録は退職者の分も出てくる。

いつも通り、会社の被保険者状況を確認するために、記録をみる。
すると最近半年間でも、たったの2カ月で退職している社員が結構いる。飲食業ということで入れ替わりは多いとは思うが、それにしても、2カ月で退職は早すぎるし、少々数が多い。

会社内の雰囲気がまずいとか、社員間同士のトラブルで、人間関係がよくないなどの問題でも抱えているのだろうか。

一抹の不安を感じながら、セカンドフーズの被保険者データを、社労士専用ソフトに入力する。100名越えの会社のデータ入力は、手間も時間もかかってなかなかしんどい。


「だいぶ、髪伸びたなぁ」
鏡に映る自分の姿を確認する。
そういえば、ここ2か月ほど髪を切っていない。
「この間、新聞の折り込みチラシにHASAMI&CCカットがあったから行ってみるか。頑張った自分へのご褒美に育毛コースも頼もうか。チラシにクーポンがついていたよな。」

あらためてチラシをしっかりみると、マスコットキャラクターの「カニちょっきん」と共に各店舗の店長が顔写真と名前が載っている。名前といっても、最近は、カスハラやストーカーの問題もあって、フルネームではなく、名字だけだ。ワーキングネームかもしれないが。最近オープンした、事務所から自転車で10分ほどの店舗にいくことにした。

店に着くと非常に感じのよい好青年が登場した。
20代後半ぐらい。ショートカットでダークブラウン。女子バレーボール選手でよく見かけるような髪型だ。とにかくさわやか。身長は僕より高く180cm超え。みるからにモテそうといった感じである。

予約せず飛び込みで行ったが、運よくちょうどお客さんが空いている時間だったらしく、すぐにカットしてもらえることになった。
「担当させていただく美濃和希(みの・かずき)です。よろしくお願いします」
「美濃さんですね。こちらこそよろしくお願いします」
「今日はどんな感じでカットしましょうか」
「全体的に2cm程度切ってもらって、ツーブロックでお願いできますか?」
「分かりました。しっかりカットさせていただきますね。」

カットがおわり、オプションメニューの育毛コースもお願いしてみた。
まずは、スキャルプシャンプーで頭皮の毛穴の汚れを落とす。座席で仰向けにのけぞりシャンプー台に頭を向け、顔にタオルをかぶせられている。
普段、シャンプーはアシスタントの方がされるそうだが、今日は初回だし「いつも以上に丁寧に」とのことで美濃さんが直接おこなってくれた。

シャンプーの間、僕は、「美濃和希さん、どこかで聞いた、あるいは見た名前のようだけど、どこだったかなぁ」と考えていた。そうしている間に育毛コースも一通り終わり、とってもさっぱりした。

カットも育毛コースも、大満足。
自転車で風をきり、頭皮の毛穴が開き、トニック系の少しスースーする心地よさを感じながら、僕は事務所へ帰った


事務所に戻り、残務整理的に、何社かの手続きの作業を行う。今月は育児休業給付金の初回申請がおおいな。忘れないようにしないと・・・。
「さっきの美濃和希さん、どこで名前みたんだっけ・・・あっ思い出した。」

僕はすぐさま、この間、顧問先になったばかりのセカンドフーズの被保険者記録一覧表を見る。
「あったあった。美濃和希さん」
わずか2か月で辞めていることで、なんとなく印象に残っていたんだ。

「そっかぁ、前職は飲食業だったんだ。でも美容師さんだし、なぜ飲食業に。それに僅か2か月で辞めたということは、何か合わなかった?」と、いろいろ思いを巡らせた。

社労士はこういった感じで、意外と近い人の、前職を知ることがある。もちろん守秘義務に反するので、誰かに口外することはない。その辺は、僕は口は堅いし、結構しっかりしているほうだと思う。

顧問先になったセカンドフーズは、その後も、2か月ぴったりで退職する方が何名かいる。いや、退職というより、計画的な感じがする。2か月で退職する意味があること・・・
「そうだ、任意継続だ」

任意継続と言うのは、健康保険の制度で、在職中の健康保険を、退職者の意思でそのまま続けられる制度だ。社労士は略して「任継(にんけい)」と言ったりする。
健康保険の保険料は、本人の給料に応じて決まる。分かりやすく言えば、給料の高い人ほど保険料も高い。そしてその保険料は本人と会社が半分ずつ支出する。

任意継続の場合、会社を辞めているので、本人の分と会社の分を、全額本人が納めなければならない。つまり在職中の保険料の2倍にはなるが、国保より保険料が安いこともあるので、退職後に任意継続を選択する人もいる。

任意継続をするために、最低必要な保険加入期間が2か月だ。
言い方を変えたら、2か月在職しさえすれば、退職後も保険料こそ2倍になるが、任意継続にすることができる。
「でも、何のために・・・」
しばらく僕は考えていた。
「分からない・・・」

ちょっと考えるのをやめた。
気分を変えて、仕事の着信がないかスマホの履歴を眺めた。
今は特にないようだ。あっ、でも百田先生から電話が入っている。

「あっ、なんだろう。折り返すか。百田先生に・・・、
 ももた・・・ 百 ひゃく。そうだ!百(ひゃく)だ!」

僕は百田先生への折り返しの電話をやめて、セカンドフーズの従業員数を確認する。

「やっぱり!。そうだ。セカンドフーズの従業員数は、110名か。
なるほど、見えてきた」

セカンドフーズは、健康保険の適用拡大事業所だ。
通常、健康保険加入は週30時間勤務が必要だけど、従業員数の多い適用拡大事業所なら、週20時間勤務があれば健保加入できる。

地域によって最低賃金が違うので異なるが、最低賃金で加入するなら、今なら月給90,000円ほどで社保加入できる。
90,000円で健康保険に加入して、2か月後に退職。90,000円で算出された任意継続の健康保険料なら、在職中の2倍になっても、国保より大分低く抑えられる可能性が高い。

セカンドフーズの2か月で退職した人を確認すると、みな報酬が90,000円ほどだ。退職後も保険料を低くするには、給与額は低い方が都合がいい。
おそらく健康保険に入れるぎりぎりの額で加入させて、2か月後計画的に労使合意の上で退職をしているのだろう。

美濃和希さん以外にも、何名か同じように2か月で退職している方がいた。それが美濃和希さんと同じように、その後、HASAMI&CCカットに就職しているのか、もしかすると別の会社に就職しているのかまでは、今は分からない。


「名前はライト、利き手はレフト、守備位置はセンター。なんちゃってー」
軽く新ネタになっている・・・・百田先生が、相変わらず、ズボンからはみ出したお腹、ベルトが地面の方向45度を向いた、その姿で、前振りだ。
「あんた、守備位置はレフトだったんじゃないのか!」と、僕はツッコミを入れようと思ったが、外野ならセンターを守ることもあるだろうし、それよりも、百田先生との、やり取りが面倒くさいので、にこやかにかわす。

「あやみ先生、HASAMI&CCカットってご存じですか。
実は、最近、HASAMIさんの顧問に入ったんです。この間、オーナーから相談があって、労使トラブルがあるみたいです。社労士さんに相談にのってもらいたいとのことでした。先生、相談にのってもらってよろしいですか?」
「分かりました。今度、訪問してみます」
偶然ってあるんだな。この前、行ったばかりだよ。

それから数日後、僕はアポイントののち、HASAMI&CCカットを訪問した。オーナーの波佐見勝人さんが出迎えてくれた。白髪交じりだが、メッシュで整えた頭髪。少し胸元の空いた紺色のシャツ、7分丈の白のパンツ。裸足で革靴を履いている。

おしゃれで、言葉使いや雰囲気は紳士的な方だ。でも、そこにちょっと、チョイ悪な感じも見えて、それがまたカッコイイ。ああ、そういえば、HASAMIは、オーナーの波佐見さんの名前からとったんだなと、今頃気づく。

「はじめまして。あやみ先生。オーナーの波佐見勝人です。
税理士の百田先生から先生のことは伺っています。ご多忙中恐れ入りますが、よろしくお願いします。それとこちらは、息子の好夢(こうむ)です。今後店舗マネジメントも任せていきたいので、勉強のために同席させてください。」

「社労士の佐々木あやみです。こちらこそ、よろしくお願いします。実は、私、先日、最近オープンしたお店でカットさせてもらいました。新店舗開店おめでとうございます。」
「そうでしたか。ご来店ありがとうございます。」
「担当させて頂いた者を覚えていらっしゃいますか」
「確か、美濃さんでした。美濃和希さんです。カットもシャンプーもとっても上手でした。大満足です」
「そうでしたか。ありがとうございます。」
といいつつも、オーナーの表情が少し硬い。

「じつは、今日の相談というのが、その美濃のことなんです。」
「どうされたのですか?」
「実は、美濃が、出産手当金がないのかってうるさいんですよ。」
「えっ、出産手当金って、美濃さんは、女性なんですか?」
「そうです。背も高くて、声もそれほど高くないので、大体男性に間違えられますね」

思い込みというのはよくない。背は僕より高い。名前も和希さん。
僕は、勝手に美濃さんは男性だと思っていた。被保険者台帳でも性別までは見落としていた。
「失礼ですが、御社の今の保険は何ですか?」
「ほとんどの従業員が、前職の任意継続です。うちは個人事業なんで、基本国保です。でも任意継続をすることで、本人の保険料を抑えられるからやりなさいと、美容室専門のコンサルタントからの指示なんです。」

ちょっと嫌な予感がする。「コンサルタント」というのは、本当に、人によるという前置きはするが、時にろくでもないアドバイスをする輩がいるものだ。

「任意継続といっても、前の職場の保険料の二倍になるから、人によっては負担が増えると思いますが、その辺はどうですか?」
「セカンドフーズという会社があるでしょ。ウチは完全に入店してもらう前に、セカンドさんに2カ月、週20時間、月換算で約90時間勤めてもらうんです。といっても労働時間は、セカンドフーズでの仕事ではなく、ウチで仕事をしていくためのマニュアルや教育用ビデオがあるから、自宅学習をしてもらっているんです。」
「そういうことですか。」

セカンドフーズに在籍して、自宅学習とはいえ週20時間、月90時間勤務して2カ月間勤務すれば、釈然としない部分はあるが、任意継続の要件は満たす。一応給与は出ている。勤務実態という意味ではどうなんだろうと思うところはあるが、「研修」と言えば通るだろうし、在籍出向などとあまり変わらない気がする。違法性などの問題はないだろう。

意外に知られていないが、健康保険は、入ることができる会社とできない会社がある。
株式会社などの法人だと、そこに勤める従業員は健康保険は強制的に加入対象になる。しかし法人登記していない、個人事業なら従業員が5人以上いないと健康保険の加入対象にならない。

さらにややこしいことに、例外の例外もあって、個人事業で美容室なら、従業員数が5人以上どころか、何人いても、事業所として健康保険に加入する必要がないのだ。

セカンドフーズで勤務した時間に応じた給与90,000円で算定された任意継続は2年間続けられる。
給与が90,000円に対しての保険料なら、それほど負担感は無い。もちろん事業主負担もない。その後のHASAMIで正式に勤務したときの収入を考えたら、国保よりは随分低く抑えられるだろう。

本人及び事業所の保険料負担を抑えたいということであれば、合理的な方法と言える。よく思いついたものだ。

セカンドフーズ側は何かメリットはあるのかと考えたが、この店にきて、その答えはすぐに分かった。HASAMIに来店した方には、飲食店の割引クーポンを配布したり、客がカット中にみる雑誌代わりのタブレットにセカンドフード管轄の飲食店の広告が結構な回数流れている。

HASAMIの客層を考えると、飲食業であるセカンドフーズの店舗にいく可能性は高いだろう。
やり方はともかく、非常に親和性の高い、お互いウィンウィンの関係が見受けられる。
「状況は分かりました。でも任意継続だと、出産手当金は出ないですよね」
「そうなんです。美濃には何回も説明するのですが、分かってもらえないです」

残念ながら国保や健康保険の任意継続には、出産手当金の制度はない。
出産手当金とは大雑把にいえば、女性が産前42日、産後56日の計98日間、仕事を休んでいても給与の約7割が補償される制度だ。出産を控える女性にとっては、ぜひとも欲しい、使いたい制度である。

ただ、HASAMIが個人事業で、社会保険の適用がない事業所だということを考えれば、致し方無い部分もある。


「経営的には健康保険に加入しても大丈夫だと思いますよ。結構、利益も出ていますし」
HASAMIの経営状態を確認するため、百田先生に電話で聞いた答えだ。
「そうなんですね。事業所として健康保険に加入申請してもよさそうですね」
「僕は、いいと思いますよ。なにか資料が必要ならいつでおっしゃってくださいね」
今日は、レフトもライトも言わなかった。珍しい。
いつもはスルーしているが、無いと無いで少し寂しい感じがする。

しばらくしてから、アポをとって、波佐見オーナーを訪ねてみた。
「先日の美濃さんの件ですが、可能であれば、事業所として健康保険に加入するのはどうでしょうか?」
「また急に何を言うかと思ったら。店として健康保険に入ったら、事業主負担とか、払うお金が増えるでしょう?」

「もちろん、そうです。百田先生にも確認をしていますが、HASAMIさんは、事業所として健康保険に加入しても経営状態には影響はないそうです」
「でも、任意継続をしてもらって、せっかく本人は保険料が少なくて済むのに、わざわざ、会社として健康保険を作るなんて」
「きっと、スタッフ様は喜びますよ」
「いや、それでも健康保険に加入して、会社負担が増えるのは、事業継続を考えたら心配だ。今は認めることができない。今の仕組みが嫌で、辞めたい奴は辞めてもらえばいい。どうせ、スタイリストの連中は、みんないずれ独立したいと思っているんだから!」

紳士的な勝人さんが、顔を赤らめて激高寸前だ。ちょっと話が長くなりそうだ。

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一通り話し終えて勝人さんがトーンダウンしたところで、店の奥から高齢の女性が現れる。僕はそれが、勝人さんのお母さまだというのがすぐ分かった。以前、勝人さんから目の前の高齢女性のことを伺っている。

波佐見タツさんだ。
大分前にオーナーを勝人さんに譲っている。80歳を超えていると聞いてはいるが、とてもそうは見えない。身長は150センチぐらい。髪は白髪だが、ポニーテールにしている。背筋が伸び、言葉にも上品さが漂う。こちらも自然と頭を垂れてしまう品格のある方だ。

今病を患っているらしく、病気療養中らしい。でも、目の前のお姿からは、とてもそうは見えない。
「勝人、お前は、スタッフを大事にしているのかい?」
「おふくろ・・・、なんだよ急に。」
「お前がね、店を大きくしてくれているのは、お母さんは嬉しく思っているし、頼もしく思っているんだよ。でもね、スタッフは大事にしないといけないよ。お母さんは詳しいことは分からないんだけど、ウチは経営的にも健康保険に入ることもできるんだろう。」
「でも、健康保険に入ると、今よりも大分経費がかかるんだよ」
「任意継続って言うのかい。他の会社に頼んで、お願いしているんだろう。それは、本当にスタッフが喜ぶことかい?」
「何で知っているんだ?」

「僕だよ」と言って、店のバックヤードから、息子の好夢さんが現れた。
「僕が、ばあちゃんに言ったんだ。スタッフが、正規で雇用されているのに『任意継続の保険証が恥ずかしい』って言っているって。あと、セカンドフーズで2か月、形式上勤務して、ウチに入るから保険料が安くなるとはいっても、なんとなくセコい感じがするって。会社がスタッフを大切にする感じがしないってね。」

「俺にはそんな話はなかったぞ。」
「ある訳ないじゃん。経費削減ばっかり言っている父ちゃんに、相談なんかできないよ」

タツさんが話し出す。
「勝人ね、もともと波佐見理容は、私が始めて、お客様を大事にする以上に、スタッフを大事にしてきたの。だって、そうでしょう。店がスタッフを大事にしているのが伝われば、スタッフは、自然とお客様を大事にするだろう。ハサミを通じて、店から、スタッフから、お客様にありがとうって伝えるのが波佐見の原点だよ。」

タツさんのありがたい言葉に、場が静まり返る。
高齢者の言葉は、含蓄があり、それだけで半端ない説得力がある。
「それとね、美容師がみな、独立したいとか思いこむのはよくないよ」
「少なくともオレはそうだったけど・・・」
「もちろんプロの仕事だから、意欲のある子は、独立していって構わないけど、でも、もともと独立希望だったけど、『ここで働き続けたい』と思う仕事場をつくりなさい。一番いけないのは、仕事場が不満で『独立するしかない』ってスタッフに思わせてしまうことだよ。」

タツさんのお言葉が深すぎて、僕まで背筋が伸びる。身長が1センチ高くなっていただろう。
タツさんが僕に話しかける。
「あやみ先生って言ったかしら。ウチはこんな感じで、まだまだ足りないことがあるけど、これからも力を貸してくれないかしら。若い美容師さんにいい職場を提供したいわ。」

タツさんが深々と最敬礼をされる。そして続ける。
「正直言うと、この歳になって恥ずかしいのだけど、社労士さんのことを知らなかったの。ごめんなさいね。波佐見理容は個人事業だったし、保険も国保だったからそんなに手続きがあったわけではないの。労働保険は商工会に頼んでいたから、実は健康保険の手続きは疎かったのね。」
「いえいえ、前身の波佐見理容、そして今のHASAMI&CCカットは素晴らしい事業をされていると思います」

「ありがとう。勝人も好夢も美容師になってくれて、私、本当に感謝しているの。勝人が頑張って、これからも店舗を増やしていくのだと思うけど、どんなに大きくなってもスタッフを大事にしたいと思っているの。経費を削減するために、制度をうまく使っているとは思うけど、やっぱりなんとなく器の小ささを感じさせると、スタッフも離れちゃうと思うの。」
勝人さんもいるので、さすがに「そうですね」とは言いづらいが、心の中で拍手喝采する。

「おふくろ、分かったよ。オレは店を大きくすること、店舗を増やすこと、経費を下げることばかり目が向いてしまったのかもしれない。」
「勝人、好夢くん、いつもありがとうね。私は二人には本当に感謝しているのよ」
タツさんが、顔のしわをより深くして、にっこりと笑みを浮かべている。
「あやみ先生、若いのに、相手のことをしっかり考えて感心ね。あなたなら安心だわ」

勝人さん、好夢さんも、うなずいて僕を見ている。
「ありがとうございます。僕はHASAMIさんの労務を頑張りますから、HASAMIさんは僕の髪をしっかり守って下さいよ。最近少し髪が細くなっている気がして。60歳までは持たせたいんです!」
「ははははっ」
一堂に笑いが起こる。僕のユーモアも悪くないようだ。
1週間後、HASAMIさんと正式に顧問契約をすることになった。

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最初に行う手続きは、健康保険の適用だ。
個人事業から法人にして、健康保険の適用を行いやすくする。個人事業でも適用できないことはないけど、残念なことに、代表者が健康保険に加入できない。

それに個人事業は法人より必要な書類が多くて、手続きに手間がかかること。百田先生にも相談して、健康保険の適用のしやすさ、そして経営規模を総合的に考えて、いま、法人成りがベストと判断した。

「株式会社波佐見 HASAMI&CCカット」
1か月程で、新規適用が認められ、健康保険証ができた。

タツさんは、75歳以上の後期高齢者のため、健康保険証を持つことはできないが、真新しい、勝人さん、好夢さんの保険証をまじまじと眺めている。「波佐見」の名前の入った保険証をみて、タツさんはうっすら涙を流して喜んでいた。
「保険証一枚出来ることで、こんなに喜んでくれる人がいるんだ」

健康保険証の発行手続きは、社労士にとって、基本中の基本。
今まで何十回、何百回と行ってきたことだろう。あまりに慣れすぎて、いつしか事務的に手続きを行っていた自らを恥じた。

美濃和希さんにも保険証が発行された。彼女もこれで出産手当金を受給することができる。美濃さんも大変喜んでいたことを後日聞いた。

12
保険証ができて2週間後、タツさんは亡くなった。
末期の癌だったらしい。
HASAMI&CCカットの今後を見届け、勝人さん、好夢さんに「スタッフを大事にする」波佐見の原点をしっかり伝え、確実にバトンパスをして旅立った。

タツさんの棺には、目を細めて喜んでくれた、勝人さん、好夢さんのピカピカのプラスチックカードの保険証をいれた。

そして、参列者は自らの髪を僅かに切って入れてあげた。
タツさんに小さい頃から髪を切ってもらった方、中には三世代でお世話になった方もいるようだった。
僕も、自らの髪一本1センチほど切って、棺に入れさせていただいた。

勝人さん、好夢さんの保険証は、明日にでも再発行手続きをする予定だ。
保険証の再発行申請書には、紛失した理由を書くのが通例だが、「母(祖母)が天国で誰かに会ったときに自慢するため」と書くつもりだ。

これぐらいの粋な言葉は、保険証紛失の場合の連絡先、協議会けんぽの方も認めてくれ、やかましいことを言われることもないだろう。

「保険証一枚でも、こんなに人を喜ばせることができて、世の中に貢献できるんだな。僕は素晴らしい仕事をしている。」

僕は、タツさんの遺影に最敬礼をして、斎場を後にした。


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空のものであり、実在のものとは一切関係ありません。



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「採用がうまくいく社員100人までの会社がやっていること」
メディア等掲載状況
<メディアの皆様、ご紹介いただき本当にありがとうございます!>

12月28日(水)プレジデント・オンライン様
休憩室に電子レンジがない・・・・
なぜか社員採用に失敗してしまう中小企業が見落としている6カ条


1月18日(水)東洋経済オンライン様 1回目
採用難でも好人材が応募してくる会社のひと工夫


1月25日(水)東洋経済オンライン様 2回目
「採用面接で聞きづらい質問を聞くテクニック」


2月1日(水)東洋経済オンライン様 3回目
前職を短期で辞めた応募者を中途採用する注意点


1月26日(木)ライフハッカージャパン 様
印南敦史の「毎日書評」
応募がこない・・・中小企業が採用で
成功するために忘れてはいけない「3つの視点」


2月28日(火)ライフハッカージャパン 様
印南敦史の「毎日書評」
【音声配信】
♯175 応募がこない・・・中小企業が採用で
成功するために忘れてはいけない「3つの視点」


3月25日(土)ダイヤモンド・オンライン 様
採用面接で応募者に嫌われず
「仕事の能力・積極性・協調性」を見抜く方法【質問集付き】

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