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月曜日の朝9時、業務開始のとたんにスマホに着信。見慣れた電話番号だ。
正直なところ、僕は、午前中はあまり電話に出たくない。
でもお得意様の顧問先の電話なら、そうも言ってられない。
「はい、佐々木です」と電話に出るといつもの聞きなれた声。
「先生―っ、スター事務機の田辺です。朝早くからごめんなさい。今、電話いいですか?」
「あっ、恵子部長、いつもお世話になります。(電話)大丈夫ですよ。どうされましたか?」
スター事務機は、僕が開業早々に顧問先になってくれた思い入れのあるお客様。
その会社の総務人事を統括している、田辺恵子人事部長からの電話だ。
僕は、いつも恵子部長と呼んでいる。
ご本人も、その呼び名の方が好きらしく、そう呼んでほしいと言われている。
「実は、ちょっと退職勧奨したほうがよいか、どうか迷っている社員がいるんです。今度、その社員と話し合いを行うことになってまして。
その席に、先生同席お願いできませんか?」
社労士の仕事は、世間的には「何をしている人か分からない」と言われることがある。
僕は、社労士をしているけど、恥ずかしながら僕自身もうまく説明できない。
まぁ、結構いろんな仕事をしているから、一つに絞り切れず説明しづらいということもある。
今回のような、会社と社員とのトラブルの相談を受けることだってある。
そして会社と本人の話し合いの席に、「同席する」なんてのも結構よくある仕事だ。
この仕事は説明しにくいし、一般的には分かりにくい仕事かもしれない。
だけど顧問先の会社から必要とされる大事な仕事だ。
「いいですよ。また改めて詳細の情報はいただくとして、日時はいつですか?」
「今週の金曜日20日の14時からです」
「スケジュール確認しますね。えーっと、ああ大丈夫です。御社に13時30分までには伺います」
「あっー、よかった。先生がいるとやっぱり心強いから。じゃぁ、また詳細はメールで送りますので、当日はよろしくお願いします」
「分かりました。こちらこそよろしくお願いします」
そう言って電話を切った。


僕は、あやみ。
佐々木あやみ。37歳で社会保険労務士事務所の代表をしている。
代表といっても一人事務所。いわゆる、おひとりさまの個人事業主だ。

僕の名前だけど、佐々木は普通だからいいんだけど、「あやみ」が昔は好きではなかった。
「あやみ」で、平仮名なもんだから、名前だけを見た人、聞いた人だと、100%女性と間違えられる。
これは正直、名をつけた親を恨んだ。
そんなわけで学生の頃は自分の名前が嫌で仕方がなかったけれど、年齢を重ねるごとのこの「あやみ」に愛着が湧いてきた。
今はジェンダーが言われているし、多様化の時代でもあるから、ちょっと珍しいぐらいの名前も受け入れられやすくなっている。
何より、ちょっとした個性が発揮できて気に入っている。
今は名付けてくれた親に感謝している。
自分で言うのも何だが、現金なものだ。
その気に入っている、「あやみ」を使って事務所名にした。
あやみ社労士事務所が僕の事務所名だ。
自分の名前を事務所名にして「ザ、個人事業主」といった感じもするけど、両親は喜んでくれた。
僕が子どもの頃、自分の名前を嫌がっていたのを知っていたし、何をやってもダメダメだった僕が事業をしているなんて、どことなく誇らしく思ってくれたんだと思う。
もう独立してから3年が経とうとしている。開業当初は大分苦労したけど、少しずつ顧問先が増えて、今は、自分一人生活できるぐらいの収入は得られている。
僕は一人暮らしで、2DKの部屋を自宅兼事務所に使っている。
社労士は、いわゆる「おひとりさま」開業も結構多いし、自宅開業も多い。
一人で仕事をしている分には、自宅で仕事をしていてもそれほど困ることはないんだけど、顧問先からの信用という点では、やっぱり来所型の事務所にしないとと最近考え始めている。
そして、自宅だと顧問先に「お越しいただく」ことは難しい。
顧問先が「先生の事務所で相談したいのですが」と言われても、全力で「私が御社に出向きます」と言うか、「近所の喫茶店でお待ちしています」と言って、お越しいただくのを逃げている状態だ。

「先週受けた事務処理がたまってきたなぁ。デイサービスまごころさんの社保の資格取得に、Web Withさんの労災申請準備もしないとなぁ。」

こんな感じで、今週の仕事の進め方を考えていたら、デスクトップパソコンのメール着信音がなる。
恵子部長からのメールだ。メールを開封し読んでみる。

佐々木先生
いつもお世話になります。
先ほどのお電話の件です。
辞めてほしい社員ですが、先生が日頃書類のやり取り等をされている
総務の川崎琴乃です。
どうも最近、上層部の悪口ばかり言っているようなのです。
まだ本人に真意は確認していないのですが、
彼女のSNSでも、内部の人間でしか知らない情報の
書き込みがあり、ここでも上層部の悪口を言っている様子です。
とは言っても、今のところ、川崎本人からの聞き取りは
行っていないので、すぐに退職勧奨をするとかではなく、
まずは事実確認ができればと考えています。
先生にはお忙しいところ恐れ入りますが、
同席の程よろしくお願いいたします。

「川崎さんが、退職勧奨の対象者かぁ」
川崎さんは日頃僕が、対応してもらっている総務課の方だ。
手続きに必要な書類をお願いするとすぐにメールで送ってくれるし、とにかく対応が早い。
控えめな方だけど、話をすると、ただおとなしいという感じではなく、笑顔が素敵な女性だ。
思わず好意を抱いてしまいそうな素敵な方である。
いかんいかんと言いながら、自分で右のこめかみあたりを軽くたたく。
「それにしても、なんで川崎さんが会社の悪口を吹聴しているのかな」
僕は、とても気になった。気になりながらも、まずは聞かないことには始まらないなと思い、金曜日まで日常業務をこなしていた。


金曜日、少し早めにスター事務機に到着する。
恵子部長がいつもの明るい感じで迎い入れてくれる。
「先生、ご多忙中のところすみませんね。さぁ、会議室にどうぞどうぞー」
会議室に着くや否や、恵子部長が話し出す。
「もうしばらくしたら川崎がやってきますが、少しだけ詳細を話しますね」
「なんか普段やり取りをさせていただいている僕からすると、川崎さんの行動が信じられない感じがしますが、何かありましたか?」
「そうなんですよね。私もよく分からないです。ただ...」
「ただ、どうされたんですか」
「川崎の担当替え、営業部への異動の話があるんです。これについては、先生には初めてお話しましたし、このことを知っているのは、私と社長、営業部長だけです。もちろん川崎は知りません」
「これまでの総務部から営業部の異動なんですね。もちろん理由があるんですよね?」
「川崎は、会社の内外からの評判もいいんです。しっかりした対応ができるし、ソツがないんですよね。取引先から少し無理難題を言われることもありますが、断るにしても、相手に悪い印象をあたえないんです。全てにおいて安心して仕事を任せられるんです。」
「確かに、川崎さんは安定して仕事をされている感じがしますね。」
「そうなんですよ。そのソツのなさ、安心感を見込まれて、営業部から川崎を異動させてほしいとのリクエストがあったんです。」
「なるほど。確かに御社の営業スタイルにも合いそうな感じもします。」
「正直、最近営業部が苦戦していて、なかなか数字が上がらないんです。ただ、ウチの営業は基本的にルート営業なので、数字が上がっていないからといって、川崎に急に飛び込み営業などをさせる訳ではないので、総務部から営業部の異動は、それほど負担はないのかなと考えています。」
「そうだったんですね。では、もしかしたら川崎さんが、そのことを何らかの形で知ったかもしれないとも恵子部長は思っているんですね。」
「はい、もしかしたら営業部に行きたくないのかもと思っています。」
「トントン」
会議室のドアをノックする音がする。
「川崎です」
「どうぞ。入って下さい」
川崎さんが会議室に入り、着座する。
恵子部長が話を切り出す。
「今日は、佐々木先生にもお越しいただきました。単刀直入に申し上げますね。実は、川崎さんが、ウチの会社の悪口を同僚などに言いまわっているということ、あとSNSに会社の悪評を書き込んでいるという話を聞いているんです。今の時点で、決して川崎さんを責めようとかそういったつもりはないんだけど、実際、どうなのか、ちょっと聞かせてもらいたいなと思っているの」
川崎さんが視線をまっすぐにして恵子部長の話を聴いている。
しばらくしたのち、川崎さんが口を開く。
「そういった話なんですね。ちょっとびっくりしました。」
「びっくりしたってどういうこと?」
「正直なところ、営業部への異動の話があるのかなと思っていました。」
「知っていたの?」
「知っていたというか、なんとなく感じていただけです。最近、営業部の二川部長が、やけに最近私に声をかけてくるし、今まで営業部の仕事とか話したことなかったのに、『こんなやりがいがあるぞー』的な話が多いので、なんとなく私を営業部に引き入れたいのかなとは思ってました」
川崎さんは、さすがにソツがない。あやみは思った。
「まぁー、二川部長は何というか分かりやすい人だからね。しょうがないな、あの人は」
恵子部長が苦笑いをする。
「会社の悪口は、私は言ってないです。ただ最近、二川部長が私によく声をかける様子を見ていてか、営業部の北野さんが、私のことを快く思っていないようには聞いてことがあります」
「二川部長は、お調子者で、典型的なおやじ体形だし、決して「シュッ」としている感じでもないから、北野さんが『焼くとか焼かない』の問題はまずないわね。」
そのあたりの話にまったく「かすり」もしないというのも、同じ男性としては、若干悲しい気もする。
恵子部長が続ける。
「単に北野さんが、川崎さんが営業部に異動になるかも、をどこか感じていて、その場合、同じ女性としてライバル視しているって感じかしら?」
「そうかもしれないです。外れても遠からずだと思います」
恵子部長と川崎さんのやりとりを聞いていて、あやみは思った。
あやみは以前、社労士として独立する前に、女性が多い職場に勤めていて、そこでの女性同士のライバル視を見てきた。
「なんか前の職場でこんなことあったなぁ。」
あやみは思った。
あくまで僕の考えだし、決してどちらがいいとこいうことはないのだが、女性が女性をライバル視したときは、どちらかと言えば直接的に言うというより、少し水面下で動くようなイメージがある。
前職では、男性のライバル視も見てきたのだが、少なくとも僕が見てきた感じでは、男性同士の場合、直接その本人に対してライバル視をむき出しにする感じがある。「俺はお前に勝ってやる!」みたいな感じだ。
それこそ営業成績であったり、どんな成果を上げたなどの「結果」が勝ち負けの基準になる。
そしてライバル視しているときは、お互い顔も合わせないし、声もかけない。
それに対して、女性が女性をライバル視したときは、直接「私はあなたに勝ってみせるわ」とか「営業成績で勝って見せるわ」と言うよりも、自分にどれだけ人が集まるかが大事だったりする。
いわゆる「派閥」だ。自分への求心力を優位にするために、派閥を作るために、水面下で対象者をディスってみたり、対象者の周囲の評価を落としてみたりする。
或いは妙に明るく振舞ったり、「やさしさ」の押し売りをするような人もいる。
つまり自分の立場を優位にしようとする傾向があった。
そんなわけで、女性同士のライバル視の場合、表面的には大人の対応をしている。お互いに一通りの挨拶や、軽い会話などはすることが多い。
どちらかと言えば、男性のほうが小学生のけんかっぽい感じだ。
もちろん男性でも女性でも、人にもよるんだろうけど。

恵子部長が話を続ける。
「川崎さんは、会社の悪口とか言っていないってことだよね?じゃあ、なんで川崎さんが会社の悪口を言っているような話が私たちの耳に入ってきたのかしら」
「もしそういう話が田辺部長たちの耳に達しているのなら、私には分からないです。」
「じゃぁ、SNSの書き込みは?これ、見て。」
恵子部長が、実際に会社の悪口の書き込みがされた川崎さんらしき、アカウントを見せる。
「どうでしょうか。誰かが私に見せかけたアカウントを作ったのかもしれないですね。そもそも私、SNSとか面倒なので、2年ぐらい前にすべて辞めました。今持っているのは、日常的に家族や友達とやり取りするものだけです。投稿とかすることはないですね。」
川崎さんの言葉は、表情や言葉の落ち着きぶりから、信頼できるものだなと、あやみは思った。
ましてや、あやみ自身も女性同士のライバル視案件を以前の職場で見てきたので、なんとなく誰かが、川崎さんを「落とそうとしたり」派閥を優位に作りたいのかもしれないと思ったこととも合致している。
もちろん今は、あくまでそう思っただけど、誰がやったなど、変な先入観は持っていない。
恵子部長が続けて話し出す。
「そうなんだね。会社の悪口の件、SNSの件、聞かせてもらってありがとう。またいろんな調査をしないといけないと思う。また話を聞かせてもらうかもしれないけど、そのときはお願いね。ちょっと気分を害したと思うけど、そこは許して下さい」
川崎さんは、特に怒ったり、悲しんだりすることなく表情を変えることはない。
そのうえで冷静に答える。
「いや、その件は別にいいんです。なんとなくもし誤解されていたとしても、しっかり事実を申し上げることはできる自信があったので。ただ、」
「ただ、何?」
恵子部長が川崎さんに問いかける。数秒の沈黙の後、川崎さんが話し出す。
「営業部への異動は見送ってもらえませんか?私は総務部から営業部への異動が嫌とかないですし、北野さんとの関係をそれほど気にしているわけでもないです。そして会社が私に期待をかけてくれていのすはありがたいのですが、営業部の体制に問題がある気がするんです。」
「問題があるって、どういうことなの?」
恵子部長が興味深げに尋ねた。
川崎さんは少し言葉を選びながら続けた。
「営業部でここ最近成績が伸び悩んでいるのは、北野さん、橋元さん以外にも、小さな派閥争いが原因かもしれません。二川部長はあんな感じで憎めないところはあるのですが、ちょっと管理不足な感じらしいです。リーダー格の北野さんと橋元さんは営業成績も個人で争っているのですが、ちょっとそれが行き過ぎてしまい、周囲が嫌気がさしていて、他の部分でも別の派閥みたいなものができているようなんです。」
「そうなんだね。なんとなくはそう思っていたけど」恵子部長がうなずく。そして続ける
「みんな自分の立場を守ろうとしている感じなのかしら。」
川崎さんが続ける。
「私が言うことではないかもしれませんが、その営業部に私が入れば、余計にいろん混乱が生じそうな気もします。結局、取引先に迷惑がかかりそうな気がするんです」
僕からみて、やっぱり川崎さんはしっかり現状把握ができているようにみえた。
突然、恵子部長が僕に話をふる。
「佐々木先生は、これまでの話を聞いてどう思いますか?」
「そうですね。今の時点では川崎さんの話を伺っただけなので何とも言えませんが、川崎さんの話がその通りだとすると、今の時点で川崎さんを異動させるのは、リスクが高い感じがします」
社労士の仕事は、専門家なので、見解を求められることも多い。
その見解に基づいて即動かれる管理職の方は意外と多いので、社労士は発言には気を遣う。
恵子部長が口をひらく。
「川崎さん、だいたいの事情が分かったわ。話してくれてありがとう。今日のところはこれぐらいにしましょう」
川崎が深く一礼をして会議室を後にする。
しばらくして恵子部長が話し出す。
「先生、お立合いいただきありがとうございました。やっぱり派閥争いなんてあるのかしらね。従業員も30人程度の会社でね。なんか残念だわ」
「いえいえ、僕が見た感じですが、御社はよい雰囲気だと思いますよ。その証拠に川崎さんが今日はよく話をしてくれたじゃないですか。よくない会社ってのは、社員の方が口を閉ざし始め、大事な情報が出てこないんです。話を聞いたとしても、いい情報、当たり障りのない情報しかでてこないんです。少なくともこの1時間だけでもいろんな情報がでてきましたよね。」
社労士になってから、いろんな会社を見てきたけれど、「いい会社」はよい情報も悪い情報もしっかり出てくる。
一番危ないのは、上層部だけが「ウチはいい会社だ」と思っているのが一番まずい。
時々ちょっとしたトラブルがあって、僕に電話があるぐらいの会社がちょうどよかったりする。
小火のうちなら消火もしやすい。
「さて先生、今日出てきた話、どうしていきましょうか」
「そうですね。今日はあくまで川崎さん側から見解なので、やっぱり他の方にも聞き取りを行うのがセオリーですよね。もともとは、『川崎さんが会社の悪口を吹聴している』『SNSに投稿している』についてどう対応していこうかのお話でしたから」
管理職は孤独だから、管理職の苦労に寄り添い、社労士が状況を察するのも大事な仕事だ。
「とりあえず今日はここまでにしましょうか。また対応は社内で検討します。先生立ち合いありがとうございました」
恵子部長は丁重に挨拶をされ、僕はスター事務機を後にした。


事務所への帰り道の車中、僕は明日の予定を考えていた。
「明日は、さくら不動産さんと、要産業さんの訪問があったな。それと・・・」
運転をしながら明日の予定を考えている最中に、スマホの着信。
スピーカー機能で電話に出る。川崎さんだ。
「スター事務機の川崎です。先ほどはありがとうございました。実は先生にちょっとお伝えしたいことがあって。今、お電話大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。今、近くにコンビニが見えたので、車止めますね」
車を通りがかりのコンビニの駐車場にとめて、続きを話す。
「いま、車を止めたんで大丈夫ですよ。どうされましたか?」
「先ほどの話なんですけど、私が会社の悪口やSNSに悪評を書き込んでいる件、たぶん、恵子部長だと思います」
「えっ、恵子部長がですか?なんで」
「私を営業部に異動させたくないんだと思います。正直なところ、私は営業部でも構わないんです。北野さん、橋本さん、他の小派閥の件もありますが、それほど私にとっても重大事でもありませんし、私自身はあまり派閥的なことは気にしないタイプです」
「でも、さっき川崎さんは、『営業部への異動は見送って下さい』とご自身で言われましたよね」
「あれは、私が恵子部長の反応を見るためです。先生も気づかれたと思います」
確かにそうだった。川崎さんが「営業部への異動は見送って下さい」と言ったとき、妙に恵子部長は嬉しそうだった。僕もそれは分かった。
「でも、川崎さんが悪い立場になれば、川崎さんの社内での処遇が悪くなったり、あるいは川崎さんが退職するなんてこともありますよね?」
「そうなんですけど、そこまでの考えは今の部長にはないと思います。それに、処遇が悪くなったとしても、直属の上司は田辺部長ですから、のちに評価を上げればいい訳ですし、おそらく私は退職まではしないだろうと考えているはずです。」
やはり川崎さんは鋭い。
周りがよく見えていてクレバーだ。
それと恵子部長がどうにか川崎さんを手元に置いておきたいと思うのもよく分かった。
社労士の仕事は、法律をガチガチに使うかと言えば、答えは「NO」だ。
今日聞いた話で、今のところは、僕から法律の話はほぼほぼ皆無だ。
意外とそんなもので、法律の知識を常に使うわけではない。
それ以上に、相談者、対象者の気持ちを考えられるかという能力の方が大事だと思う。
もちろん法律の勉強も日々必要だけど。

川崎さんの電話の内容に驚きつつも、あやみは次、どう動くべきか考えていた。
仮に川崎さんの言うとおりだったとしても、恵子部長に向かって「恵子部長が犯人ですか?」と言う訳にもいかない。
あくまで今の段階では、川崎さんからの一方的な話だ。
社労士というと、社会保険や雇用保険関係が主な仕事と思われがちだが、実際に多いのは、やっぱり「会社内の相談ごと」であることが多い。
僕の感覚だけど、開業年数が増えるほど「相談」の割合が多いはずだ。僕は開業年数はまだ浅いけど、どういう訳か、相談が非常に多い。
その中で、一番話が進めにくいというか、気を遣うのが、日頃やり取りをしている方が、その対象者になっている場合だ。
例えば、比較的あるケースとしては、日頃やり取りをしている担当者の方がパワハラの加害者になってしまった場合などである。日頃懇意にしている分だけ聞き方が難しい。
今回は、パワハラのケースではないけれど、日頃かかわりのある恵子部長と川崎さんが、この事案の対象になっているのが、僕としてはやりづらさは感じる。
いろいろ考えたが、一旦そのままにしておくことにした。
しばらく、スター事務機からの連絡を待つことにした。
社員トラブルの話は、変に社労士が、アドバイスしすぎる、動きすぎることで顧問先を混乱させてしまうこともあるからだ。
また、恵子部長からすれば、僕が、恵子部長を飛び越えて、川崎さんから連絡を受けたというのを耳にしても、よい気分がしないだろうし、逆に川崎さんからしても、話したことを僕が恵子部長にすべてを伝えたら、立場が悪くなったりするかもしれない。

判断が難しいところではあるが、今のところは、川崎さんからの話は、僕の胸にしまっておくことした。
社労士になると、意外とこういう気の遣い方をすることは多い。
分かりますよね。社労士の先生方!


川崎さんからの面談から3日が経過した。
その間、恵子部長や川崎さんからは何の連絡もなかった。
と思っていたら、僕のスマホが鳴る。恵子部長の携帯番号だ。
「はい、佐々木です。」
「先生、先日はお世話になりました。実は、あれから急展開がありました」
「どうされたんですか?」
「川崎さんが退職願を出してきたんです」
「えっ。そうなんですね」
あやみは、驚いた。
でも、まさか、先日、川崎さんと話をしたとはいえないし。
「退職願はどんな感じでしたね。例えば会社から辞めさせられたとか書かれてましたか?」
「いえ、一般的な普通の内容でした。」
「そうですか。それなら自己都合退職ということで、ごく普通に退職手続きを進めたらよいでしょうか?」
「はい、お願いします。」
そういったやり取りをして電話を切った。
「なんか、いろいろあったけど、なんかあっさり退職の話になったな」
結局のところ、もともと依頼のあった案件、川崎さんが会社の悪口を言っている、SNSに書き込みをしているようだから(川崎さんを)辞めさせたいという、会社の希望は、達成されている。
事情、過程はともかく、会社が望んでいる形になったともいえる。
釈然としない部分はあるが、会社からの強い希望が無い限りは、今回の件は、深入りしすぎず一旦ここまでで終了するのが筋かもしれない。


3か月ほどたった時、地元のフリーペーパーに、退職した川崎さんが載っていた。
よくある「わが社の輝く看板社員」的なコーナー。
川崎さんが、人事担当者として頑張る姿が記事になっている。
どこで頑張っているかと言えば、スター事務機のライバル会社、トータルOAだ。
すぐに恵子部長に電話を入れる。
「佐々木です。川崎さん、トータルOAさんにいらっしゃるようですよ」
トータルOAに川崎さんが転職したことは、恵子部長も知らなかったらしい。
「そうなんですか?」
恵子部長が驚いた感じで、答える。
「今日、僕はそちら方面に行く用事があるので、後ほど御社にお邪魔していいですか」
「大丈夫です。今日は、私は終日在社なので、先生のタイミングでお越しください。」
「ありがとうございます。後ほどお伺いします。多分15時前後になると思います。」
15時にスター事務機を訪問する。
「トータルOAさんに行ったんだね。川崎さん。」
「そのようですね。ライバル会社に転職したんですね。少し驚きました。」
「おっしゃる通りです。やられましたね」
そういって恵子部長が続ける。
「もしかしたら、トータルOAさんから、引き抜きがあったのかもしれないですね。最近ヘッドハンティングまではいかないけど、一般職でも他社への誘いはあるんです。昔は、それこそ経営幹部になるような人をヘッドハントしていたでしょ。今は特に役など付いていなくても、ヘッドハントは珍しくないですね。」
「確かに、他の顧問先様でもそういった話は聞きます。」
「ヘッドハントだとエージェントやその会社に文句がいくこともあるし、川崎さん自身も会社を裏切ったみたいな感じになるから。川崎さん自らの考えか、あるいは誰かの進言で自己都合退職の方向にもっていったのかもしれません。」
「普通に辞めればいいような感じもしますけど、失礼ですが、御社は、普通に退職は難しいのですか?」
「川崎は、社内評価が高くて、慰留は強く働くでしょうし、そうなると辞めにくいかもです。だから自ら悪い感じを、自作自演していたのでしょうね。そうすれば辞めやすい。転職先からそういった退職の流れを指示されていたかのかもしれないですね。あくまで想像でしかないですが。」
あやみは、川崎さんからの口から出てきた、営業部の二川部長、北野さん、橋元さんの話、小さな派閥の話、恵子部長の話は単なる作り話だったのだろうかと思った。
でも、もしかしたら本当に「辞めにくかったのかもしれない」と川崎さんの身上にも思いをはせていた。
こんな時、あやみは、社労士として目の前の話だけを聞くのではなく、いろんな視点で物事を考えられるようになったのは、自らの成長を感じていた。


「へぇー、今はそんなこともあるんだねぇ」
久しぶりに、あやみは高木の事務所にいた。高木は、あやみの社労士の師匠だ。あやみは、独立する前に高木の事務所で約2年間修業させてもらっている。
あやみは高木に、守秘義務には配慮したうえで、今回の件を相談してみた。
「今後、転職、退職は、法律も含めて、世間の考え方が変わってくるかもしれないね。」
「古い話で悪いんだけど、昔はさ、『立つ鳥跡を濁さず』って言っていたものだけどね。今はそうではなくて、自分のキャリアアップが重要なんだろうけど。」
「けど、何ですか?先生。」
「やっぱり退職はきちんとした形でした方がいいよね。今の時代、転職は別に普通のことだけど、よっぽどブラック企業に勤めたのでもない限り、応援してもらえるような形で退職した方が、のちに本人が伸びるよね。」
「そんなもんですか。」
「だって君がそうだろう。しっかり引継ぎをして退職して独立したから、私も応援できるし、今、お茶のみにきているじゃないか。はははは」
「ありがとうございます。先生にそう言ってもらえると嬉しいです」
「あと、会社側も『辞めさせない』『辞めにくい』会社ではなくて、『ここで仕事をしていきたい』と、社員が思う会社作りをしていかないといけないよね。」
「あっ、確かにそうですね。他社から、社員にお誘いがあっても『今の会社がいいです』と断ってもらえる会社になっていたらすごくいいですよね。」
「そうそう、社員がそこに勤め続けたいと思える会社づくりのお手伝いは、今から時代、間違いなく社労士に求められていることだよ。佐々木君もがんばらないとね。」
「はい!がんばります」
しばらく高木のもとで談笑して、あやみは事務所に戻った。


川崎の退職で、この件が一旦終わって、さらに3か月くらいたった時に、恵子部長から電話が入った。
「川崎さん、オフィスOAさん、退職されたみたいですって。上層部と軋轢が生じたみたいです」
「そうですか。何かあったのでしょうかね?」

「高木先生の言ったとおりだった。」
やっぱり、どんな形であれ「立つ鳥跡を濁さず」は時代が変わっても大事だ。転職でキャリアアップするときに、一番大事な事かも。
前の会社に迷惑をかけない。
あやみはそう思った。


【注意書き】この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。



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