2001年 アフガニスタン取材記③ タジキスタンでアフガニスタン入国準備
2001年に起きた「9.11アメリカ同時多発テロ事件」。
あの日、ワールドトレードセンタービル崩壊の衝撃的な映像と恐怖が世界中に拡散した。
1ヶ月後、アメリカと有志連合諸国はテロの首謀者ウサマ・ビン・ラディンを囲まうアフガニスタンに対して軍事作戦を開始。
そして11月13日、半ば鎖国状態の中で厳格なイスラム法の行政を行なっていた同国のタリバン政権は首都のカブールが陥落し崩壊同様となった。
その二日後、私たちはアフガニスタンを目指して慌ただしく日本を出発した。
本文章はずっとパソコンのフォルダー奥に保存されてた取材手記を、改めて構成し直して公開しているシリーズになります。
2001年11月18日(日)ドゥシャンベ到着
たっぷり四時間のフライトし夜が白々と開けてくる頃、タジキスタンの首都ドゥシャンベに到着。ドンっと飛行機の車輪が地面に当たった瞬間、無事着いたとホッとした。
遠くに雪のかぶった山々が見え、盆地のような場所なのか。タラップを降りるときデジカメで写真を撮っていたら、警備員に怒られてしまった。
出発前はアフガニスタンの国内情報ばかり集めていて、隣国でトランジットするタジキスタンという国に関しては、元ソ連邦の一国ぐらいしか知識がなく、いきなり全く未知の国への入国だった。
中に入るとともかく行列を作らされて一つ一つのチェックを受けて行く。私達は事前に連絡を取ってこの空港でタジキスタンのビザを取る事になっていた。
臨時のビザ発給デスクではソファに陣取った外務省の役人らしい人がゆっくりと発給作業をこなしていた。集めた手数料(一人52ドル)もアタッシュケースに無造作に入れていて、これ結構怪しい。私達以外にも30人ぐらいの報道陣が同じ様にここでの発給らしい。結局、私達の順番は一番最後ぐらいに回され、ここで1時間半もかかってしまった。
ドゥシャンベ滞在中のモスクワ支局の二人がここまで迎えに来てくれたので、待ち時間も現地での情報を教えてもらう時間となりやや安心した。
二人はロジ担当としてカブール陥落前からドゥシャンベに滞在していて、アフガニスタンを目指すクルーをしっかりサポートしていてくれてた。
無事ビザが発給されるとその足でタジキスタンの外務省に出向きマルチビザの発給手続き。空港でのビザは短期のシングルビザでアフガニスタンから脱出する際に使えなくなるため。紛争地域に入る際は退路はいくつも作っておくという事である。
私は外で待機になったので持参した衛星電話インマルミニのテスト。南側にアンテナを向けると、いとも簡単に使えるようになった。カブールにいるAカメラマンに現地の状況を聞いた。
次にホテルにチェックイン。外務省の裏側で立地は最高。大きなホテルだと思ってたら2階建てのペンション風だった。私と番組キャスター、VEのHさんは2階の6号室に入った。2ベッドルームにリビング。百平米ぐらいありそうなゆったりした部屋。可愛そうだがHさんにはソファの臨時ベッドを使ってもらう事に。
午後、アフガニスタン大使館にビザの申請をしに行ったが、あいにく日曜で発給作業は休み。明日の申請になった。
この時点での状況は、タジキスタン政府の飛ばしているマスコミ輸送用ヘリの順番が火曜(2日後)に2人、金曜(5日後)に2人の空きを確認。しかも荷物が一人20キロ制限があるらしい。かなり厳選して持ちこむ必要がある。
スタッフで検討の結果、第一便でYキャスターと私が入り、先に取材を始める事になった。(午後の情報で荷物が一人50キロに緩和された)
夕食はオーストリア料理店。
タジキスタンにインターネット接続ポイントが無く、接続をあきらめていたら、プリペイド式があるそうで早速手に入れた。5ドルで2時間繋げる。パウチされたカードの端を切ると中からIDとPASSWORDの書かれた紙切れが出てきて設定できる。ホテルの受付の直通電話のモジュラージャックをパソコンに付け替えてモデムでダイヤルアップ。問題無く繋がった。288ぐらいしか出てなさそう。23時半、さすがに眠いのでベッドに入る。
2001年11月19日(月) アフガニスタンのビザをGET!
7時に目覚める。ぐっすり眠れたので気持ちが良い。穏やかな朝日が差し込んでいたので、早速散歩に出る。
5分も歩くと大通りの交差点に出た。あちこちから落ち葉を掃くほうきの音がする。多くのオバちゃんが地元の衣装なのか絨毯柄のワンピースを着ている。(下にズボンをはいてる)満杯のバスや歩道を歩くビジネスマンや学生を撮影。 路上でパンを売っている親子を撮影して、デジカメの液晶ファインダーで見せてあげたら随分と受けてしまい、もう一枚もう一枚とせがまれる羽目になった。こんな騒ぎでもなければなかなか外国人が入らないだろうから、彼らにとっても珍しいのかも知れない。しばし子供達と楽しい一時。
9時、ホテルで朝食。目玉焼きがうれしい。VEのH君が腹痛でダウン。特に用事が無いので部屋で横にならせる。
10時半にアフガニスタンのビザを申請に行く。
大使館と呼ぶには粗末な建物だった。申請書、写真1枚、タジクのプレスカード(コピーも)、パスポート(コピーも)を用意。大使館の中庭に何と柿の木があって真っ赤に熟していた。手数料はマルチで200ドル。
取得した入国ビザから読む、アフガニスタンの複雑な現状
12時にタジキスタンホテルの1Fでマスコミ輸送ヘリ会議に立ち会い。
明日フライト予定のエントリー者が読み上げられたが、キャンセルや不在が多数出て、私たちは四人全員が明日ヘリに乗り込めそうになってきた。(17時の時点で運賃一人2300ドルを支払い四人乗れるのは決定)
昼食に続いて買いだし。
買いものカートがある小奇麗なスーパーでウォッカや石鹸などを買いこむ。
カブールにはたいていのものは手に入るがお酒だけは全く無いとの情報だったので、白いウォッカを水のボトルに入れ替えて持ち込む事にした。
夕食は昼間おかし屋さんが夜、韓国料理店に変身するお店。 店には何と裏口の厨房から入る。お菓子屋の入り口は閉められていた。最初に味噌スープに白いご飯。ナムル、小さい餃子と続き美味しかった。吉岡さんが北朝鮮系の女主人に韓国語で話かけたがあやふや。聞けばおばあちゃんの代の1900年に北朝鮮を後にしたらしい。百年の間に料理の味も微妙に変わりロシア風にアレンジされてしまったのだろう。 ホテルに戻って簡単に梱包。一緒に行けるので荷物の仕分けをしないでもすんだ。いよいよ明日カブールに入る。
2001年11月20日(火) まさかの砂嵐でヘリ欠航
6時起床でチェックアウトの準備。
大量の機材をおんぼろ車に詰め込んでタジキスタン空港に向かった。空港前では相変わらず荷物運びの子供達が待ちうけていて、勝手に運び始めた。大切なカメラなどは自分で運び他はもうお任せ状態。受けつけは一番乗り。続いて毎日新聞やマニラのCBSニュース等がやって来た。
8時に空港職員が難しい顔でやってきて「天候調査中」と告げられた。タジク側もアフガン側も良くないそうで、特にアフガンサイドは砂嵐で視界が不良で、下手をすると砂嵐は数日続くらしい。ものの30分ぐらい後、正式に今日の欠航が決まりホテルに戻ってきた。
各地に状況の電話連絡した後、昼寝。窓に当たる雨の音で目が覚めた。2時間ぐらい寝た様だ。15時に遅い昼食に出た。しっかり冷たい雨が降っている。小奇麗なレストランで鳥料理。それなりに美味しいが、朝からお腹の調子が悪いので、ビールは控える。
14時のヘリ待ちのメディア会議では明日も天候は悪そうで、フライト出きるかは半々か。VEのH君もまあまあ回復した様で安心。
ビールを飲みたいところだが、お腹の調子が良くならず、またも控える。明日に向けて早寝。
2001年11月21日(水) 又もドゥシャンベで足止め
6時起床。
窓から空を見ると青空が見え、今日のフライトは期待が持てそう。
軽い朝食後に機材を積み込んで出発。今日は車に荷物を載せたままで状況を見る事になった。8時過ぎると昨日と同じ顔ぶれのマスコミ陣が徐々に集まり出した。ところが結果がなかなか決められず11時近くまで空港前で待機となった。その結果、結局今日も欠航となった。何となく力が抜けた感じでホテルに戻る。
カメラ、編集機、音声機材などの動作チェックをして再梱包。後はやることが無いので、H君と二人で散歩に出た。天気が良いので昨日の寒さが嘘のようにポカポカ陽気。相変わらず町はのんびりムード。すぐ隣の国で空爆だ、難民だ等と大騒ぎになっているのが信じられない。
19時からホテルの地下にあるサウナタイム。ドゥシャンベの滞在はこのサウナでかなり救われている。しばし1階の本部で雑談。イチローのMVPが話題に。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?