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2001年 アフガニスタン取材記⑤  カブール市内で取材開始


2001年に起きた「9.11アメリカ同時多発テロ事件」。
あの日、ワールドトレードセンタービル崩壊の衝撃的な映像と恐怖が世界中に拡散した。
1ヶ月後、アメリカと有志連合諸国はテロの首謀者ウサマ・ビン・ラディンを囲まうアフガニスタンに対して軍事作戦を開始。
そして11月13日、半ば鎖国状態の中で厳格なイスラム法の行政を行なっていた同国のタリバン政権は首都のカブールが陥落し崩壊同様となった。
その二日後、私たちはアフガニスタンを目指して慌ただしく日本を出発した。
本文章はずっとパソコンのフォルダー奥に保存されてた取材手記を、改めて構成し直して公開しているシリーズになります。



コーランの音で目覚め

ホテルの部屋からの朝の風景

5時15分、コーランのお経の音で目が覚めた。
カーテンを開けると白々と夜が明け始めたところ。慌てて1階下のH君の部屋に行き(カギがかかってない)窓を開けてカメラを三脚に乗せた。コーランの音と夜明けの感じをカメラで記録。
8時出発。今日は雲が多く天気はいまいち。まず外務省に出向き滞在許可を申請しようとしたが、金曜はイスラムの安息日で手続きができず明日に延期。

いよいよ取材開始

最初に向かったのがタリバンの施設近くの団地でアメリカ軍の誤爆に見舞われた地区。道路を走って行くと突然道の真中に大きな穴が開いている。直径8m、深さ2mぐらいのクレーター状の穴は放置されたまま。その近くの空き地にも一つ、そして一番悲惨だったのが団地の一階脇に直撃した爆弾。丁度そこで遊んでいた5歳の女の子が巻き添えで無くなっていた。
母親に話を聞く事が出来、涙ながらに当日の様子を語ってくれたが気の毒でならなかった。

誤爆で空いた窪みに降りるYキャスター

続いて2回も誤爆された国際赤十字の備蓄倉庫。殆ど壊滅的な被害を受けてた。大きな倉庫が骨組みだけ残して瓦礫の山。雑感とリポートを撮ったが、爆撃のすさまじさを実感。

誤爆された国際赤十字の備蓄倉庫

カブールの街中の様子 〜札束と人形〜

バザールで簡単な買い出し。
まずは両替だが、銀行機能は壊滅しているので、バザールの道端でお札を広げている人や、札束を持ってウロウロ歩きまわってる人等、闇両替商が幅を利かせている。
驚くのはその札束の厚さ。百ドル紙幣を交換すると400万アフガニ弱が手に入る。1万アフガニ百枚の札束がほぼ4束になる。キャスターが両替をする様子も映像で記録する。財布に入る量ではなく、札束をそのままポケットに入れて使う感じ。

闇の両替商
100ドルが1万アフガ二400枚弱になる


また、確かに町に女性の姿が本当に少ない。一部で報じられているような、タリバン政権崩壊後にブルカ(女性が外出するときにスッポリ体を覆う布)を脱いだ女性がいると聞いたが、実際は見つけられなかった。ブルカを被った女性たちは、私達のカメラを見ると背を向けたり、逃げたりするのは昨日通ってきた田舎の部落と同じである。
雑貨店で水や非常食などを買い込む。お酒を除く食材、飲料、生活用品は豊富に揃っていた。ショーケースの上にタリバン時代に禁止されていた人形が置かれていた。

街中での物資の量は想像を超えていた
真新しい人形が


ホテルに戻り、しばらく休憩。昼食はホテルの四階レストランで薄味のチャーハン。
15時半に再出発。公開処刑が行われていたカブールスタジアムと言う競技場へ。Yキャスターの長いレポートを良い感じの西日の中で撮影できた。続いて夕暮れ時の町の雑感を撮影。
ラマダン期間中なので、アフガンの人達は昼間一切の食事が出来ない。丁度夕刻5時過ぎだろうか、バザールで撮影中にコーランの音が聞こえてきたとたん、周りのアフガン人たちが一斉に食べ物を口に入れ始めた。誰も彼もがむしゃむしゃと物を食べてる。顔には出してないが、本当は相当お腹が減っていたのだろう。サブーとファジールも何処からかパンを見つけてきて食べていた。
当然、昼間一切の食事が出来ない反動で、夕方からレストランが繁盛する。町の普通のレストランに入ると、タリバン当時は禁止されていたテレビを見ながら食事をしている人が多かった。皆楽しそうだ。
そんな客にしばしインタビュー。そのレストランで夕食も済ませる。鉄の串で焼いた本格的なシシカバブは臭いもそれ程強くなく、何とか食べられた。支払いは何とドライバーのサブーが強引に払ってしまった。立場が反対だからと辞退したが大丈夫だという表情でニコニコしている。

金串から肉を取ってくれるドライバーのサブー

特に東南アジアなどで経験する日本人、金持ち、ボッタクルという図式と全く違い、私達を海外から来た客人というスタンスで気を使いながらも対等に接してくる感覚が気持ち良い。サブーの気持ちとプライドを立ててこの場はごちそうになった。

連絡手段は衛星電話のインマルミニ頼り

電話などの通信網が機能しなくなってるカブール市内では日本やパキスタンやタジキスタンの前線基地との連絡は携帯型の衛星電話頼りになっていた。
少し厚いノートパソコン型で、蓋がアンテナになっている。蓋を南の空に向けて設置して通信衛星を使って通話ができる。
移動中やセッティングしていないと通話できないので、時間を決めて定期連絡を取る様にしていた。
あるとき、ホテルの部屋で通話をしていたら、ホテルの支配人がパキスタンに居る家族と連絡をしたいと懇願してきた。
ずっとお世話になっていたので使ってもらったのだが、大変感謝されました。

戒厳令下での夜間移動

その後の夜が大変だった。昨日と今日の素材をフライアウェイの衛星回線を使って日本へ送る予約時間が23時10分から1時間取ってあった。
ところが夕方の段階で22時から外出禁止令が出ている事を知らされた。これでは伝送するインターコンチネンタルのAP通信まで移動できない。いろいろ考えた結果、22時前にインターコンチに移動して、向こうのTBS本部でギリギリまで編集、そして伝送。仕方ないから寝袋で寝て帰ってこようと言うことになった。
ホテルの部屋での編集もオシオシで戦争のような状態。21時半、編集を中断して車でインターコンチへ移動開始。既に町には人っ子一人出ていない。
インターコンチの部屋から屋上のAPのテントに上がったのは回線を押さえた時間ギリ。慌てて向こうが出してくれたケーブルを持参したVTRと結線。細かな確認もできず送り始めたら音声が日本に行かなく、再チェックするとVTR側で接続するコネクターを間違っていた。繋ぎ直してもう一度送り直しをしていたら5分損してしまい、結局最後迄送る事が出来なかった。残りは明日の送りになる。

ラップトップ型映像編集機

当時のカメラ機器の状況
信じられないかもしれませんが、当時の動画収録はハイビジョンではなくSD画質。録画はメモリーではなく小さなビデオテープでした。
動画編集もテープTOテープ。ノンリニアでパソコンでする以前の状態でした。
それでも録画方式はデジタル化していたので何度も編集でコピーしてもOK。
そしてご覧のラップトップ型の編集機が開発されていた大活躍しました。

この時の出張中は、取材を終えて映像伝送の時間までの間に、伝送時間に収まる様に撮った素材を粗編集して伝送してました。夕食後にカメラマンの私が雑感の編集。インタビュー部分の編集をディレクターが交代で分担してやってました。



 24時半、外国人プレスが同乗していれば大丈夫というS記者の話を信じて車で帰路に付いたが、たった10分の道のりで四回も銃を持った警備員の検問を受けた。そしてもう少しでホテルというところまで来たときヘッドライトの向こうに警備員が見えた。又かと思ってたら、警備員がいきなり銃をこちらの車に向かって構えた。私と斉藤ディレクターの二人は思わず声を出してしまい、私は膝に抱えていたVTRで頭を隠してしまった。銃を構えたままの警備員が近づいてきてドライバーのサブーと話をして、通行を許可された。威嚇だけですんだが、陥落したとはいえ戦時中の国だし、外出禁止時間中の移動で何があってもおかしくは無い。肝を冷やす一件だった。
 25時、ホテルに戻る。ドライバーのサブー、通訳のファジールは自宅に帰ることが出来ないので私達のキープしている部屋を分け合ってホテルにそのまま泊まる事になった。OAが迫って厳しいスケジュールで動く私達にヤナ顔一つせず仕事をしてくれる二人のまじめさには敬服する。
 まだ水道が不通で、顔を洗う事も出来ない。ウェットティッシュで顔と手を拭いて気持ち悪いがそのまま寝てしまった。


次回は、その後のカブール市内での取材。そして番組内でのキャスター生中継です。
公開までしばらくお待ちください。

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