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2001年 アフガニスタン取材記④  ヘリで国境越え〜カブール入り


2001年に起きた「9.11アメリカ同時多発テロ事件」。
あの日、ワールドトレードセンタービル崩壊の衝撃的な映像と恐怖が世界中に拡散した。
1ヶ月後、アメリカと有志連合諸国はテロの首謀者ウサマ・ビン・ラディンを囲まうアフガニスタンに対して軍事作戦を開始。
そして11月13日、半ば鎖国状態の中で厳格なイスラム法の行政を行なっていた同国のタリバン政権は首都のカブールが陥落し崩壊同様となった。
その二日後、私たちはアフガニスタンを目指して慌ただしく日本を出発した。
本文章はずっとパソコンのフォルダー奥に保存されてた取材手記を、改めて構成し直して公開しているシリーズになります。



当時のカブールへのアプローチ

白い部分が3000m超えの山脈地帯

当時のアフガニスタン情勢のおさらい
アメリカ中心の援護を得て「北部同盟」軍が首都カブールを陥落して1週間。タリバン軍は南部のカンダハルなどを中心に交戦中だった。
カブールからの情報では電話などの通信回線は全く機能していなく、電気ガス水道のインフラもかなり怪しい状態だった。
首都カブールへのアプローチは空路含めて全く機能していなく、無理してパキスタンとの国境カイバル峠超えの陸路で向かったジャーナリストが潜んでいたタリバン残党や山賊に襲撃される事件も多発していた。
唯一、現実的なカブールへの移動手段が「北部同盟」軍と友好関係にあったタジキスタンから同国の飛ばす大型ヘリコプターでカブールの北、ヒンズークシ山脈山中に降り立つルートだった。ヘリの移動は高所の山越えや残党からの対空攻撃の危険もあったが、カブールまでの陸路は「北部同盟」の支配エリアなので比較的安全だとされていた。

2001年11月22日(木)3度目の正直でヘリコ飛ぶ


 7時起床。真っ赤な朝焼け。8時に今日は飛びそうだと電話が入る。朝食はお腹の調子が悪いので殆ど食べずに出発。空港参りは3回目になると荷物運びの子供達にも顔見知り。チップは吹っかけるが一生懸命荷物を運ぶ彼らは憎めない。

毎日お世話になったポーターの子供達

入国の際、税関チェックを受けなかった点でいちゃもんを付けられ、税関でしばらく足止め。
バスでターミナルからヘリコの駐機場に移動。大小様々なヘリコプターが並んでいて、どのヘリコかドキドキしていたが、見た感じは一番新しそうな機体の前で降ろされて一寸ほっとする。機材を機体の真中に山積みにして、自分達はベンチシートの座席に座る。

Mi-8(ミル8)は、ソビエト連邦のミル設計局で開発されたヘリコプターである。北大西洋条約機構の使用したNATOコードネームでは「ヒップ」と呼ばれた。2020年までに17000機が製造されたという。

wikipedia
搭乗する大型ヘリコの前で

Yキャスターのアフガニスタン入国レポで1ブロック作る事になっていたので、ヘリコに乗り込むところからカメラを回し始めた。11時丁度に出発。重い機材と満員の人間を乗せてヘリコプターは離陸し南下し始めた。

操縦席の先にアムダリア川が見えた
高度を飛行していたのでENGカメラを担ぐと息が切れた


 景色はすぐにドゥシャンベ市内から一変し、木も生えてない荒涼とした山々が何処までも続く。よくこんな土地で人間が生活しているものだと思う。
40分後にアフガニスタンの国境のアムダリア川を越え、とうとうアフガニスタン領空に入った。しばらくは同じような風景が続いたが、給油地のタロカンをパスして(結局給油しないで)ヒンドゥークシ山脈超えに入るとまたも景色が一変。雪を被った険しい山々が目の前をさえぎった。操縦席から前方の撮影が出来たので山脈はまるで大きな壁の様だった。ヘリコは徐々に高度を上げて、尾根の低いところをギリギリで超えていった。

雪を被った4000m級の山々を超えていく
川の中洲の臨時ヘリポートに降りていく

カメラを回していると息が切れてフラフラしてきた。何度も水を飲みながら撮影を続けたが、最高で4400mもの高度を飛んでいたようだ。ヘリコは密閉性が低く外部からの空気が入ってきている。高山病になりかねない高さだ。
尾根を超えるとヘリコは深い渓谷沿いに一気に高度を下げた、全く木が生えてない山と違って、渓谷の川沿いには黄色く紅葉した大きな木が生えていて、空から見ても美しい。アスタナクという小さな部落にある川の中州を利用したヘリポートに無事着陸。大きく揺れることも無く快適なフライトだった。今回のカブール移動の中で一番心配だった移動が無事に終わったのでほっとした。


ヘリポートでは北部同盟の兵士らの出迎えがあり、移動用の車と通訳は北部同盟の外務省ラインで半ば強制的に決められていて、私達も言われるままに機材を指定された車に乗せカブールに向けて出発。ドライバーは名をサブ-と言い、このアスタナ村のすぐ下流の村出身のタジク人。車のフロントガラスには先日暗殺競れたマスード司令官の写真が貼ってある。マスードもこの谷あいの出身で、この地域は北部同盟の一つ拠点になっていた。通訳として乗りこんできたのもこのエリア出身のタジク人でファジールと名乗った。
結局、アフガニスタン取材中はこの二人が最後まで私たちの面倒を見てくれた。

同日 カブールまでの5時間の陸路移動

車が村を出たのは14時になっていた。
ここからが大変な移動で、渓谷沿いにガタガタで埃が舞うひどい道をひたすら走る事になった。沿道のあちこちに破壊された装甲車や戦車が置き去りに去れている。時より通過する部落での子供達の表情の明るさが意外だった。

パンジシール渓谷の河岸だけに緑がある
道路際を歩く住民
ロシア侵攻時の戦車の残骸

また大人の女性はブルカを被っている人が多く、ショールだけの人も私達が近づくと背を向けたり顔を隠したりしてイスラムの教えをしっかり守っていた。助手席からそんな仕草を見ていると奥ゆかしく見え、かつての日本女性の気質に通じるものを感じる。
男女平等という西側先進国のスタンダードな考えから見ると、イスラム国家の女性は他人の男性の前で顔を見せない、あまり外を出歩かないと言うのはおかしいのかも知れない。でも西側の「物差し」を無理やり押し付けるのもどうなのだろうか。首都カブールなどの西洋化した都会人はともかく、アフガニスタンの農村部では、タリバンの厳しいイスラムの規律は当たり前に受け入れられていたとも聞く。本当の所はどうなのだろうか。

作っている最中だったマスード将軍の墓地


 この間暗殺された北部同盟のマスード司令官の墓(パンジシール渓谷ジュンガラック村)や国内難民キャンプなどで車を止めながら移動し、挙句の果てにパンクまでしてしまい、ジャボルサラジという町まで出てきたときには日が暮れてしまった。
先日の山賊の事件もありこの後の真っ暗な中の移動はやや肝を冷やした。ともかく街灯どころか人家の明かりすら全く無い所をずっと走り続ける訳で、見えるのは月明かりでうっすら浮かび上がる山々の稜線とヘッドライトの照らす範囲だけ。
バグラム空軍基地周辺では地雷で危険と言うマーク(道の端に置いてある白い石)が続く。
 5時間かかって、遠くにカブールの明かりが見えてきたときは本当にほっとした。家々や街灯の明かりがまるで宝石の様にキラキラと輝いて見えた。インターコンチネンタルホテルにより、先にカブール入りしていたS記者、Aカメラマンとドッキングし、私達のホテルまで一緒に移動。細かな説明を受けてチェックイン。
決して綺麗ではない小さなホテルだが、ホテルの部屋も無く寝袋に寝ているプレスがいる状況ではありがたい。おまけに一部の部屋ではお湯も出る。
四階のレストランでシシカバブなどを食べ、急いで今日撮った映像をプレビューし解散。さすがに結構疲れた。

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