猫の恋
85歳になる彼女は、博学で話していると面白く、関心することばかりである。
知り合いが、ブランド仔猫を飼ってすぐに怪我をして入院することになり、その仔猫を数ヶ月預かったそうだ。
仔猫はすくすく育ち、退院した元飼い主はなんとも複雑な気持ちになってしまったらしく、結局預かった彼女がそのまま引き取り飼い主になることになった。
以前も何匹か飼っていたが、ニャーというものなら野良だろうが血統だろうが、同じ猫だと思っていたから、こんな立派な猫は初めて飼ったと笑っていた。
猫は、彼女の手元に来た時には、すでに避妊されていたらしく、少し残念そうだった。
今、飼い猫や野良猫の去勢避妊が主流であり、各地の猫ボランティアの活動の頑張りもあり、盛りのついた猫の声はおろか、野良猫自体が都内の彼女の近所では見なくなったと話していた。
俳句の初春の季語に、”猫の恋”というのがあるが、それが詠めなくなってしまうね、と笑っていた。
ちょうど、”ほしとんで”という俳句漫画を読んでいたので、”猫の恋”とは面白い季語だと覚えていたが、彼女の何がすごいかって、そういうのがすぐにでてくるところである。
”猫の恋止むとき閨の朧月” 松尾芭蕉
うちの方はまだ野良猫が叫びあっていて、つい先月、野良仔猫を保護したばかりだから、こちとら季語としてまだ使えそうである。
調べると面白いのは、
芭蕉以下の正風の俳人たちに好んで使われていたし、今も割と人気な季語らしいのだが、古くからだとその原形は平安時代にさかのぼるのだとか、
藤原定家に「うらやまし声もをしまずのら猫の心のままに妻こふるかな」(『北条五代記』)という歌があるが、このような卑俗な素材は、雅な和歌、連歌の世界ではあまり取り上げられることはなかった。
(https://japanknowledge.comより)
野良猫の発情期はいつの世も激しく情熱的だったのだろう。
猫のためとはいえど、約1000年前から続く季節の風物詩がなくなるのは寂しいものである。
猫の発情期というと思い出すのが、萩原朔太郎の詩、
“猫”
まっくろけの猫が二疋
なやましいよるの屋根のうえで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のようなみかづきがかすんでいる。
『おわあ こんばんは』
『おわあ こんばんは』
『おぎゃあ おぎゃあ おぎゃあ』
『おわあ ここの家の主人は病気です』
(萩原朔太郎”猫” 青空文庫より)
表現力たるや…凄すぎる
萩原朔太郎の詩を初めて読んだのは、高校の教科書(“竹”かな)で、あまりの衝撃に頭を抱えたのを覚えている。
なんかもう怪我しそうなほどキリキリと張り詰めた糸みたいに繊細で神経質すぎて、そのうえ凄まじくスタイリッシュで、胃の痛みと共にド野暮な私などが読んではいけない崇高な作品な気がして、完全に気後れしてしまった。
なのに授業では、恐れ多くも彼の詩をアホな中高生に読解させようてしていたのだから…
今でも、この人の詩の格好の良さと繊細さには、気後れしてしまう。
↑熊谷守一”斑猫”
人の世も猫の世も、いろんな意味で去勢避妊されて、淡白になってしまったのかもしれない。
平安時代の方が、歌を読むかぎり、よほど恋に情熱を注ぐ人生を送っていたのではないかと思う。
むしろ、いのち短しあの時代において恋しかしてないんじゃないかとさえ思う。
今は、それ以外にやることが多すぎるのかもしれない。
“遺傳”
人家は地面にへたばつて
おほきな蜘蛛のやうに眠つてゐる。
さびしいまつ暗な自然の中で
動物は恐れにふるへ
なにかの夢魔におびやかされ
かなしく青ざめて吠えてゐます。
のをあある とをあある やわあ
□
もろこしの葉は風に吹かれて
さわさわと闇に鳴つてる。
お聽き! しづかにして
道路の向うで吠えてゐる
あれは犬の遠吠だよ。
のをあある とをあある やわあ
□
「犬は病んでゐるの? お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのです。」
□
遠くの空の微光の方から
ふるへる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた
遺傳の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。
□
犬のこころは恐れに青ざめ
夜陰の道路にながく吠える。
のをあある とをあある のをあある やわああ
□
「犬は病んでゐるの? お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢ゑてゐるのですよ。」
(萩原朔太郎”遺傳” 青空文庫より)
いいえ子供、私が病んでゐるのですよ。
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