「ワーク・ライフ・バランス」に配慮するマネージメント
この文章は、2023年7月13日に富山市役所で行われた「現任所属長研修」のために用意したレジュメです。
1 はじめに
「ワーク・ライフ・バランス」とは何なのか?
内閣府HP「仕事と生活の調和」=「国民一人ひとりがやりがいや充実感を感じながら働き、仕事上の責任を果たすとともに、家庭や地域生活などにおいても、子育て期、中高年期といった人生の各段階に応じて多様な生き方が選択・実現できる」
…といったイメージのようである。
本日は、こういったことをめぐる職場マネージメントについて、私の考えるところをお話しする。ぶっちゃけ「釈迦に説法」である。しかし、私は、この8年の市役所での勤務経験を踏まえて、発すべきと考えるメッセージを忖度なく発信する。
お前の専門性と関係ないじゃん、とか、綺麗ごとに過ぎないだろ、組織の実情に全然合ってない、といった感想も出るでしょうが、私の話をどう受け取り、どう活かすか(一部でも)、それともスルーするかは、職場のリーダーであり、マネージャーである各自の判断に委ねます。
2 良質なマネージメント
組織には、達成すべき社会的な目的(パーパス)がある。
市においては、いうまでもなく「全ての市民の幸せ」である。
これを実現するためには、組織を健全に運営するマネージャーが必要であり、大きな組織においては「層」として必要となる。
マネージャーとは、マネージメントをするプロのこと。
プレイヤーとしての経験が豊かでも、マネージャーの資質とは関係がない。むしろ、プレイヤーとしての優秀さが、しばしばマネージャーとしての問題(各種ハラスメント)につながる。常識的な知識や先輩の真似でできるほど簡単な役割ではなく、不断の勉強が必要。
年功制組織の場合、長く勤めたプレイヤーが順番にマネージャーになっていくが、このことを当然視すると、プロになるための勉強をしないマネージャーだらけとなり、組織としては大きな<弱み>となってしまう。
例えば、最低限参照すべき以下のような資料を読んでいますか?
〇内閣官房内閣人事局「国家公務員のためのマネジメントテキスト」
職場のリーダーである所属長が、良きマネージャーとして良質なマネージメントを行うためには、メンバーの「ライフ」面に目配りすべきは当然。このことが本日のテーマ。
3 リーダーであり、マネージャーである所属長の責務
暗く、どんよりした顔の職員が、いい仕事などできるはずがない。
(パワハラが組織を根本的に破壊する理由)
職員が幸せでなければ、市民を幸せにする仕事はできない。
(業務で疲弊した職員が市民に良質なサービスを提供できるはずがない)
職員が幸せに働ける環境を整えるのが、リーダーであり、マネージャーである所属長の責任。
一人の人間の中で、私生活は不幸だが仕事は充実、なんて絶対にあり得ない。
そうであれば、職員の悩みごと、困りごとに寄り添って支援するのが、所属長の当然の任務となる。そういう所属長が層として存在しなければ、決して組織力は発揮されない。
メンバーの我慢を当然とし、まして美徳と見るのは、基本的にブラック企業の発想と同じ。ブラック企業は、実際には生産性が著しく低く、持続性に欠け、直ぐに潰れる。最初から潰れるのを前提に、短期間で労働者を搾取し、荒稼ぎして逃げる、組織犯罪型のビジネスモデル。継続性も発展性もありえない。
皆さんの中には、「自分が若いころの上司は我慢を強いるばかりだったのに、何故自分達はそうしてはならないのか。理不尽だ。不公平だ」と思う人がいるかもしれない。一人の人間としては自然な感情であろう。しかし、自分が上から酷い目に合わされたから、下に同じことをしてよいか(正当化されるか)といえば、よいわけがない。児童虐待被害者が成人して行う児童虐待が単なる犯罪であることと全く同じ。
組織を一歩一歩、より良く変化させていくために力を尽くすのが、リーダーであり、マネージャーである。旧態依然、同じ過ちを繰り返すだけでよいのであれば、誰でもできる。案山子でも立てておけばよい。
「何故自分が今、リーダーであるのか」
「何故自分が今、マネージャーであるのか」
皆さんが、誇りと自負を持って働いているのであれば、どう行動すべきかは自ずと明らかなはず。
4 「ワーク」と「ライフ」
所属長としては、メンバーが「ワーク」=賃労働だけに全精力を注ぎ込んでくれれば、楽ちんであろう。しかし、そんなことは人間の在り様に反する。
「ワーク」優先は組織の都合であって、個々の職員にとっては、「ライフ」側こそが重要(精神論ではなく、冷静な状況認識)。
ここで、「ライフ」と一括りにされているが、性質の異なるものがごっちゃにされている。
まず、睡眠という大脳生理上絶対に必要な時間が確保されなければ、人間活動の全てが成り立たない。睡眠時間を削って働くのは、酒を飲みながら働くのと同レベルの不合理な行動。美徳でも何でもない。
次に、(賃労働を支える)家事労働の心身への負担は、しばしば賃労働より大きい。「家事育児など誰でもできる(女がやればいい)」と考える男性がいるが、単に無知=経験値がない。女性職員が増えるという自然の流れの中で、メンバーが抱える家事労働の総量は増加の一途となる。マネージメントに当たる者が家事労働(の大変さ)について無知であることが許される時代ではない(個人的には、妻闘病中の2間専業主夫をやり、妻病死後は13年間父子家庭をやっていたので、家事に無知な男性の言動には怒りすら覚えます)。
さらに、人の生きる喜びは「余暇」(「余」「暇」とは酷い言われようであり、この言葉を考えた人は仕事馬鹿なのかと思わざるを得ない)、すなわち、個人で、または家族と過ごす自由時間にこそある。通常、ここが人の生きる目的、生きる意味。賃労働は、そのための手段に過ぎない(賃労働とそこでの地位に最も価値があるとみなす価値観は歪んでいる)。また、個々のメンバーの自由時間が充実して初めて、賃労働の負荷に立ち向かうエネルギーが生じ、自発性や創意工夫が生まれ、ビジネス組織にも活力がもたらされる。
したがって、メンバーへの支援がマネージャーの任務である以上、メンバーの「ライフ」側への配慮が必要であることは当然のこととなる。一人の人間である職員について、その「ワーク」の面しか見ない人、見えない人は、マネージャーとしての資質に欠けることになる。
組織の都合に立ち、メンバーが「ワーク」を優先して当然と考えるマネージャーは、メンバーとの間で表層的なコミュニケーションしか成立せず、大体はハラスメント的な言動に至る(かえって組織にとって大きなダメージに)。
そして、マネージャーの役割が、「上から圧を加えて権力的にメンバーを動かす」ことから「横に立って支援し、個々のメンバーが強みを発揮できるよう環境を整える」ことに変化すれば、「男性的」なイメージは時代遅れのものとなり、マネージャーの女性比率が上昇しても何の問題もないどころか、むしろマネージャー「層」の多様性(組織の柔軟性)が確保できることになる。
男性と「男性的な」(ジェンダー的な意味で)女性しかマネージャーを担えない組織は、今後間違いなく衰退していく。
5 否応なく変革を迫られる組織
従来の日本のビジネス組織は、心身共に壮健な男性労働者(専業主婦付き)を構成員とする暗黙の前提があり、決まりきった業務を体力勝負で乗り切るカルチャーを形成していた(特に人減らしの中では)。
しかし、現在は、公正に選抜すれば、女性が当然に半分を占める。
結婚、出産、育児、介護といったライフイベントに付随する家事労働が、主として女性の負担とされる日本社会においては、女性職員が増えれば、職員数が増えない限り、組織に投入される労働量の総計が減るのは必然。
世帯のサイズも縮小しているため、高齢者の増加とは逆に、介護の担い手は減少する。「娘が」「長男の嫁が」という介護の定式は崩壊し、「働き盛り」の中年男性が親の介護を迫られる場面も否応なく増加する。単身世帯の非婚男性は、ライフイベントに乏しくても、当然日々の家事労働をしなければならない。親と同居する非婚男性は、若いうちは母親に家事労働を押し付けられるが、その代わりいずれ介護から逃げられない。配偶者のいる男性でさえ、女性の就業率の上昇と意識の変化により、今後は家事労働全般から逃げることは難しい。個々のメンバーにとって、24時間の中で家事労働が占める比重が増し、相対的に賃労働を縮小せざるを得なくなるのは、必然的な流れ。
これを組織論から見れば、様々な時間的なハンデを持つ構成員を与件とし、個々の強みと弱みの噛み合わせの工夫によって組織を何とか回していく(本来の意味でのマネージメントの)必要性が強まるばかり。
既存の価値観に胡坐をかいて「昨日あるがごとく今日ある」体質の組織は、急激な少子化の中で必ずメンバー獲得競争に敗れ、持続できなくなる。
組織のマネージャーは、組織の継続性を生み出すためにこそ、常に社会の変化に即して組織を柔軟に変革していく責任を負う。若者が志望してくれないのは、もちろん若者が悪いのではなく、組織のマネージャー層が怠慢なのである。
社会の流れから、無駄な仕事を「やらない」「止める」決断をすることこそ、今のマネージャーに求められる。仕事を増やすことは、誰にでもできる。しかし、「この仕事は無駄だから止める」「無駄なプロセスだから省略する」という決断は、リーダーでありマネージャーである所属長にしかできない。
この点、地方公共団体には法令による厳しい縛りがあり、法令上の義務を「止める」ことはできない。しかし、法令で縛られていないフィールド(よっぽど広い)では、同じ結果ならば、「楽に」やる方が正解。
押印が廃止された分野で、何か特段の不都合は生じただろうか。そうであるにもかかわらず、長年にわたり、何となく必要とされ、漫然と続いてきたのである。こういった無駄は、探せばいくらでもあるのではないか。
例えば、会議の持ち方(綿密なシナリオを作ってそのとおり演じることに何の意味があるのか?)、資料の作り方(内部検討用資料をプレゼンソフトで化粧することに何の意味があるのか?)、業務の可視化・標準化(業務が属人化し、誰かが休んだら止まるようでは、組織の体をなしていない)。
常に問題意識を持ち、無駄を排し、生産性の高い仕事に集中できる環境を一歩一歩実現していくのが、マネージメントである。
6 若手との意識のギャップを率直に認める勇気
組織のエネルギーは、いつの時代も若手がもたらす。主役は若手。
組織を持続・発展させたければ、次代を担う若者の価値にフォーカスすべき。
自分もまだまだ若手と思い込みたいかもしれないが、全くの錯覚。昭和生まれの自分達の意識・感覚が既に古くなっていること(我々から見た「明治の人」と同レベル)を率直に認める勇気が必要。
睡眠時間を削って働くこと、長時間残業することは、脳にとっては、酒を飲みながら働くことと同じ効果(判断力、集中力の著しい低下)をもたらすが、何故か「頑張っている」「真面目」と評価してしまう。
逆に、しっかり寝ること、なるべく残業しないこと、年休を100%行使することは、効率良く、集中してパフォーマンスを発揮するための必要条件であり、歴史的・社会横断的な常識であるが、何故か「やる気がない」「組織に反抗的」とみなしてしまう。
これらは、「昭和的」価値感(非科学的精神論)の象徴である。
我々世代がやってこなかった長期間の育休や、育児短時間勤務といったこ
とを実行する若手職員の存在こそ、組織のカルチャーを変え、組織の継続性を生み出してくれる。それを支援するのは、所属長の当然の仕事である。
年休・育休の申し出を受けて嫌な顔をしたり、ハラスメントで答えるような所属長がいるとすれば、職員のモチベーションを下げ、心理的安全性を損ない、組織を硬直化させる害悪でしかない。
我々の世代は、職場でそれなりの肩書を得るだけで「立派な仕事をしている」と家族に評価されたかもしれない。しかし、今の若手職員は、職場でどれだけ評価されても、家庭で貢献できなければ、普通に離婚されてしまう。子供が幼いころに相当な割合で家事を分担しておかなければ、配偶者から一生恨まれる。そういう価値観の変化に対応できるよう、組織を変化させていくのが、マネージャーの力である。
そうはいっても、50代であるマネージャー層には、社会の価値観の変化が中々感じ取れない。感覚が古く、感度が鈍くなっているからである。だからこそ、若手を中心とするメンバーの声に、謙虚に耳を傾ける必要がある。
7 ない方がよい面倒事(迷惑)ではなく、当然の組織課題(お互い様)
「ライフ」重視を強めるメンバーによる「ワーク」縮小は、当然の社会の流れであり、どの組織においても共通する課題である。
にもかかわらず、個々のメンバーの希望を「迷惑」と捉えて抑圧(ハラスメント)するリーダーがいるとすれば、それは職責を放棄し、自らの無能を示す行為である。各メンバーの業務負担を調整すること、無駄な業務やプロセスを切り捨てる決断をすることは、メンバーにはできず、リーダーであるマネージャーにしかできない。安易な惰性に流れず、自らに与えられた権限を適切に行使する責任を、強く自覚すべきである。
それぞれのメンバーの悩みごと・困りごとの組織的なフォローは、「迷惑」ではなく、「お互い様」である。このマインドセットこそが、心理的に安全な組織を形成するために必須である。助けられたメンバーが、次に助ける側に回ることで、組織は生産性を高めることができる。自分のことしか考えないメンバーをいくら集めても、決して組織力は発揮されない。
メンバーが他者の悩みごと、困りごとへの対応を「迷惑」と考え、互いに牽制し合い、我慢し合う組織文化においては、全てが個人の問題に矮小化され、本来浮上すべき組織課題がいつまで経っても認識されない。対応は常に先送りとなり、茹でガエル状態に陥る。外の社会はどんどん変化しているのに、組織の内側は常に「昨日あるごとく今日ある」。これでは、ギャップが拡大する一方となる。下の世代からは、旧態依然の恐竜化した組織とみなされ、人材が獲得できなくなる。もはや集団自殺である。
組織の継続性を生み出すには、リーダーは「迷惑ではなく、お互い様」というスローガンを、口が酸っぱくなるほど繰り返すべきである。このことを理解できないリーダーは、変化が加速する現代社会の組織を率いる資質がない。
8 再び、リーダーとしての所属長の責任
メンバーのあり様は、リーダーの写し鏡である。
メンバーが「勉強しない」「覇気がない」「モチベーションがない」「夢がない」のは、リーダーがそうだから。
メンバーが暗く、どんよりしているのは、リーダーがそうだから。
メンバーの困りごと、悩みごとの原因を軽減・除去するために必要な力は、リーダーしか持っていない。
難しい問題にぶつかったときこそ、何のためにリーダーである自分が存在
しているのか、その存在意義を自分の胸に問うてください。
あなたは市役所が好きですか?
もし好きでないなら、それは何が原因ですか?
その原因を少しでも減少・緩和させるため、これまで何か努力をしましたか?
そのために、所属長として、自分の権限を行使しましたか?
リーダーが自分の組織を愛していないのに、メンバーが愛しますか?
9 所属長も一人の人間
と好き勝手に厳しい言葉を並べてきたが、所属長も一人の人間であり、スーパーパーソンではない。責任の重さに押し潰されそうになったり、決断をする勇気が出ないことも、いくらでもある。人として当たり前である。
ところが、皆さんの部下、特に若い人ほど、概ね、皆さんを一人の人間として見ていない。「課長」という機械、感情なく精勤し、部下を権力的に動かしても心の痛みを感じないロボットのような存在と見ている。このような捉え方は、縦社会の秩序意識が自然に生み出す感覚であり、日本社会のコミュニケーションが貧しくなりがちな大きな原因。同じ人間の発する言葉じゃなければ、心に届いたり、動かしたりできるか? そんな人になりたいと思うか?
共感なければコミュニケーションなし。
だから、成功談(自慢話)でなく、失敗談を話してください。
勝利経験でなく、挫折体験(とそこからの回復)を語ってください。
武勇伝でなく、恥ずかしい姿を見せてください。
表面的な強さだけでなく、本当は弱い存在であることもさらしてください。
そうやって初めて、若者は「ああこの人も人間なんだ。自分と大して変わらない存在なんだ」と理解でき、共感の基盤が形成される。
わたし的には、痛T(でかでかとアニメキャラがプリントされたTシャツ)を着ることが最強のコミュニケーションツールです(笑)。
そもそも、スーパーではない普通の人間が所属長をできる仕組みになっていないと、若者や女性から「自分はいいです」と言われてしまう。これでは、層として多様なマネージャーが確保できず、組織文化が硬直し、組織が衰退する。
このことは永遠の課題ともいえるが、少なくとも、仕事の面では、所属長が自らSOSを出すことを「恥」と捉えず、「ビジネススキル」と捉え、積極的に周囲に助けを求め巻き込む(庁内のリソースを動員していく)姿勢を見せるべきである。所属長が、自らの行動をもって、職員に範を示すのである。
問題を個人で抱え込まず、周囲を巻き込んでいく技術、ヘルプシーキングこそ、最強のビジネススキル!(これを理解せずブラックな我慢大会に陥りがちなのが日本の組織の弱み)
例えば、市役所では、私のような存在や、警察からの出向職員など、外部人材でありながら組織内に存在するリソースがある。こういった特殊なリソースを素早く動員し、困難事例に対して可能な限り早く、「楽に」対応していくことを追求していただきたい。
逆に、周囲からのSOSを受けたときに、これはうちの所管ではないと切り捨てるのではなく、できる限りサポートに回ってほしい。その姿を積極的にメンバーに見せてほしい。
助けを求めたら助けてもらえる、助けを求められたら助ける、その循環がメンバーに組織への愛着と心理的安全性をもたらし、組織力を劇的に高める。
互いに仕事を押し付け合うぐらいなら、さっさと一人で片付けた方が早い。
しかし、一人では決してできない大きな仕事が、組織であればできる。
組織のパーパスの価値が大きければ大きいほど、各メンバーのちょっとした努力の集積が、大きな社会的価値を生み出す。市役所のパーパスは利潤追求ではなく、「全市民の幸せ」。でかい! めちゃめちゃでかい!
互いに助け合うことが。人類の種としての<強み>であり、人が必ず組織を構成して社会活動する根本的な意味。足を引っ張り合うだけの組織であれば、ない方がまし。
目の前の雑事に忙殺されるだけではなく、ものごとを大きく捉え、一人の人間として、組織がもたらす目の前の仕事の<価値>や<意味>を考え抜き、自分の言葉でメンバーに伝えていただきたい。それがリーダーの存在意義である。
10 最後に~自分自身のワーク・ライフ・バランス
皆さんは役職定年まであと数年、今座っている席は、直ぐに後輩へ、さらにその後輩へと、どんどん引き継がれていく。
私も、役所生活はあと数年であろう。
市役所という組織は、大きなパーパスを有するがゆえに、50年後、100年後にも健全であり続けなければならない。これは全市民に対して負う、特別に重い責任である。ここが民間企業とは根本的に異なる。
組織を健全に引き継いでいくためには、後輩を育成しなければならない。
あなたは、後輩から見て、「早く自分も所属長になって、この人のように活
躍したい」と思ってもらえる所属長ですか?
いつも暗く、どんより、じめじめ、イライラしていませんか?
そんな様子の所属長を見て、後輩が、後に続きたいと思うでしょうか?
生き生きと、ハツラツと、わくわくしながら仕事ができていないとすれば、その理由は何なのでしょう?
もちろん、仕事の厳しさ、綺麗ごとでは済まない実情があるでしょう。
しかし、もし、自分自身のワーク・ライフ・バランスが崩れていることが原因の一つであれば、それをどうやって具体的に改善しますか? できますか?
このことは、個人の課題であるのはもちろん、組織の課題でもあります。
「ワーク」で重責を担っている皆さんだからこそ、ご自身の「ライフ」にもしっかり目を向け、「バランス」を図っていただきたい。50代が「ワーク」だけで終わると、役職定年後は「濡れ落ち葉」待ったなしですよ!(人生100年時代、せっかく「第2の人生では最若手」になるのに)
自分自身をしっかりケアすること、
自分の家族とちゃんと愛し合うこと、
それらを通じて「ああいう人になりたい」と思ってもらえる人間であり続けること。
いずれも所属長にとって立派な「仕事」です。
ちなみに、私事ですが、役所内における中々にヘビーな問題を次々と相談される精神的負荷に対しては、ガチのアニオタですので、ガチのオタ活(例えば「市役所アニメ同好会」「市役所ガンダム会」の活動)をもって、自分自身をしっかりケアしております。(にっこり)