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【読書】中島敦を読み、宇宙の怖さに思いを馳せる

 広大な宇宙のスケールで時間や空間を考えることは、人を底知れぬ恐怖に陥れることがある。天文学的距離、地質学的年代、宇宙の歴史の長さからすれば、人は卑小でありその運命のまえに為すすべもない。そして、現代の天文学は太陽の寿命と地球のたどる悲惨な運命についても予測しているーー

 中島敦は「山月記」「李陵」など中国古典に題材を得た作品で有名だが、「北方行」は同時代の中国を舞台にした未完の長編である。同作では、ある人物に地球の運命に対する絶望と虚無感を語らせている。

「僕の小学校の時、悪い教師がいてね、まあ悪いかどうかは分からないが、とにかく僕は憎むべき男だと思っているんだが、」と、突然何の関係もなく伝吉が言出した。
「そいつが、そう、三年の時だったかな。地球の運命ってものについて話したことがあったんだ。しかも何時間も何時間もね。如何にして地球が冷却し人類が絶滅するかを、その男は、――実際憎むべき悪漢だよ――如何にも恐ろしげな表情を以て話すんだ。僕はこわかったね。恐らく蒼くなって聞いていたことだと思う。が、まだそれは――人類がなくなるのや地球がひえるのは我慢が出来たんだ、所が、何と、そのあとでは太陽さえ消えて了うというじゃないか。太陽も冷えて消えて了って、真暗な空間をただぐるぐると誰にも見られずに、黒い冷たい星共が廻っているだけになって了う。それを考えると、僕は堪らなかったね。それじゃ、自分達は何のために生きているんだ。

中島敦「北方行」『中島敦全集3』筑摩書房、1993年、263ページ。

 名を折毛伝吉というこの人物は、小学生のときに地球滅亡の運命を教師から聞かされ、以降人生の意味を見失ってしまったという。「北方行」は1930年代中国の時事問題を絡ませながら中国在住の日本人を描いた群像劇であるが、未完のまま中断された。上記の引用部分は、横浜の女学校を舞台にした「狼疾記」の博物教師の独白にもほぼ同様の形で登場する。

 中島敦という作家は言うまでもなく、中国古典のみならずメソポタミアやエジプトなど古代文明を題材にした歴史小説を書いた作家である。中国やオリエント地域の数千年にわたる文明史は、ひとりの人間の視点からは圧倒的な長さであり、考古学と文献学の成果には歴史研究を志す学生たちをひきつけてやまない迫力がある。筆者もまたそうした学生の一人であったはずだ。
 しかし、そうした文明史は地球の存続、宇宙の存続という巨視的なスケールから見れば一瞬の出来事にすぎない。そして現代宇宙論が明らかにしたところによれば、太陽は数十億年先の未来に燃焼が止まり寿命を終え、輝きを失うという。ただし、中島敦の作品と異なり、現代の学説では、太陽が冷却する前に地球は高温の灼熱地獄となり生物の存続は不可能になるとする。
 中島敦の時代から一世紀を隔て、科学と技術は進歩を遂げたにもかかわらず、宇宙的なスケールから見た人間の卑小さに変わりはない。

 筆者はこの夏、北九州市の博物館「いのちのたび博物館」を訪れて、幼い頃に学んだ地質学や宇宙論を久しぶりに思い出した。中島敦の作品集も再読した。
 「いのちのたび博物館」は西日本最大級をうたう総合型博物館で、圧巻は古生物の化石が並ぶ「アースモール」である。太古の大地を行き交った恐竜や翼竜たちの姿が目に浮かぶ。

北九州市の「いのちのたび博物館」
同じく北九州市の「スペース・ラボ」

 生物学から始まり、地質学、天文学……年代を遡るように科学の入門書を手に取って、今年の夏は過ぎていった。ページをめくるごとに中島敦の不安をわが身のものとして感じながら。

 ひとつ気になることがある。中島敦「北方行」の主人公は、幼い頃に抱いた虚無感から抜け出せぬまま、成人すると上海に渡り、以降も中国に住んでいる。村松梢風が『魔都』を、横光利一が『上海』を描いた時代の、秩序のたがが外れ人々の欲望や野心がむき出しになった時代のモダン上海である。伝吉は上海でダンサーの女性と同棲し頽廃的な生活を送る。
 現代でいえば、タイやインドネシアなどに移住する若者がいるのと同じようなものなのだろうか。
 宇宙論的な視点は、人を今ここにある秩序の外に引きずりだしてしまう。
 しかし、虚無は虚無で終わらない。「北方行」は、学友でもある朝鮮人の新聞記者が、伝吉を戦地の取材に誘うところで終わる。内乱が続く中国の現状を見たい、ということだろう。はたして、この作品に続きが書かれたとすれば、伝吉はどのような体験をすることになるのだろうか。虚無と頽廃にすさんでいたかに見えた人生は、外国や他民族という外からの視点を彼に持たせるに至った。
 宇宙的な時間や空間は、人を底知れぬ恐怖や絶望に追いやるとともに、人を突き動かす無形の力を持っているのかもしれない。

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