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孫正義

実業家の伝記
~ 孫正義 揺るがない男 ~

【生い立ち】
 佐賀県の朝鮮人集落で生まれる。父は密造酒の販売や、パチンコ店の経営で稼いでいた。自身が朝鮮人であることに、強いコンプレックスを抱く。祖母の、人のために生きることという言葉に影響を受ける。

 司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に強い影響を受け、脱藩浪士に憧れる。
 その影響からか、米国カリフォルニア州に短期留学をする。
 高校を中退し、米国ホーリー・ネームズ・カレッジに入学する。

高校在学中にシャープに自動翻訳機を売り込んで得た資金1億円を元手に、米国でソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立。インベーダーゲーム機を日本から輸入し、米国で販売した。

日本へ帰国後、会社を設立するために福岡市博多区に事務所を構えた。

コンピュータ卸売事業の「ユニソン・ワールド」を博多区雑餉隈で興す。そして、ユニソン・ワールドと経営総合研究所の共同出資で福岡県大野城市に「日本ソフトバンク」を設立し、代表取締役社長に就任。

1990年、日本ソフトバンクをソフトバンクに社名変更。1994年にソフトバンクの株式を店頭公開。

1996年には米ヤフー社とソフトバンクの合弁でヤフー(Yahoo!JAPAN)を設立。同社代表取締役社長に就任。

2001年からヤフーと共同でADSL接続サービスのYahoo!BBの提供を開始。以降、ソフトバンクは、それまでのPCソフト卸・出版から通信業に本業の軸足を移すことになる。

2006年10月にソフトバンクテレコムの社長を兼務。続けてボーダフォン(現・ソフトバンク株式会社)を買収し、同社取締役会議長、代表執行役社長兼CEOに就任した。

【転機】
・どのような局面においても、己の成すべきことを貫き通したこと。
・人生50ヶ年計画。
・世の中を喜ばせたい。

ー マインドの高さ ー
・事業を立ち上げた後、仲間が辞めていき独りになったとしても、不安は一切感じることがなかった。
・病気になっても、早く仕事に復帰したくて仕方がなかった。
・全財産を投じる、博打のような事業展開も平気で実行した。

→ 普通なら尻込みしそうな窮地に置かれても、その不安を越えた、確かな使命を持っていた。目先の使命に対して、必要であればリスクを越えた力を注ぐことに躊躇いはなかった。根底には、人々の役に立ちたいという純粋な気持ちがある。

ー 学ぶ姿勢 ー
常に勉強をしている。如何なる時も、講義の録音を聞き続けた。
講義では、最前列に座り、とにかく質問をした。明確な目的があったからだと思われる。

ー 人生50ヶ年計画について ー
・20代で名乗りをあげる。
・30代で軍資金を集める。
・40代で勝負を仕掛ける。
・50代でビジネスプランを確立する。
・60代で後継者に引き継ぐ。

→ 人生の大まかなプラン設計があった。年代ごとの目標を立て、その目標を達成するにあたって、必要事項をこなしていくというものだった。50ヶ年計画により、どのような状況においても、成すべきことは変わらなかった。





 

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