悪気がない仕打ちは許さねばならない、ことはない
悪意がない、あるいはその暴力性を自覚していないハラスメントを受けたとき、怒りを収める必要はあるのだろうか? という問題について、このところずっと考えている。
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オタクである私のTwitterアカウントには、しばしば二次創作にかんするトラブルと注意喚起についての記事がリツイートされてくる。今回TLに流れてきたのは、合同誌の表紙イラストをめぐるトラブルだった。
ツイートを見る限りは、イラスト提供を依頼された発言者の身に起きたトラブルと、それによって彼女が被ったPTSDに焦点が合わせられているように読めた。
参考
厚生労働省「みんなのメンタルヘルス」
こころの病気を知る>PTSD
有償・無償を問わず、それまでの交流で培った信頼関係を基に行われる契約書を交わさないイラスト提供依頼、その使途をめぐるトラブルについては頻繁に話題にのぼる。このツイートもそうした注意喚起とマナー向上を求めるものだと当初は思っていた。
けれども事件の詳細を確認すると、それがイラストの依頼・受注に関するマナーを問うものではなく、彼女が作品を提供した友人によるハラスメントと、相手の人間性への怒りを表明する記事であることがわかった。
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「ハラスメントとは種類を問わず、その被害者から生きる気力を奪うものである」とは、前の記事に登場した先輩のことばである。
日本社会において、ハラスメントの被害者は「加害者は自覚的に意地悪な言動をしている訳ではない」という見解をもとに、日常的に被る抑圧を受け流す、あるいは寛容であろうとする傾向が見られると私は考えている。他ならぬ私自身もそうだった。
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上司と部下、サービス業者とその顧客、先輩と後輩など、両者の関係が対等なものではない場合には、この傾向は特に顕著になる。加害者の発言に対して少しでも被害者が後ろめたさや正当性を感じると、更に拍車がかかる。
第三者に相談をしても「加害者さんも悪気があってのことじゃないんだから、許してあげて」という反応を返される事が多い。
救いを求めてすがった相手から暗に不寛容さを指摘されることで、被害者はセカンド・ハラスメントを被ることになる。
けれども、悪意があろうがなかろうが、ハラスメントの暴力性は揺るがない。被害者はすでに傷つけられているのだから。
(そもそも人間の思考というのはひどく曖昧で、当人にも自覚できていない領域=無意識がある。ましてや他者がその真意を正確に読みとることは不可能だ)
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日本社会の教育現場では、「自分がされて嫌な事は他者にしてはならない」という教訓を叩き込まれる。大人になってより広い対人関係の中で生活することになっても、この言説に縛られている人は多い。
ところがこの教訓はうまく機能しない場面が多い。なぜなら、人はそれまで置かれてきた環境での経験から学習し、それに基づいて独自の行動原理を形成するからだ。人格形成の基礎になった経験と、そこから何を学びとるかは千差万別。「他人から見たら些事であっても、私には許し難い!」という事態が頻繁に起こる。
人間の感性は身体と結びついた固有の特性だ。それゆえ他者の言動に怒りを感じること自体は、理不尽な社会をサバイヴする上で起きるごく自然な反応で、本来ならば咎められるものではないのだ。
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ここで必要になってくるのが、相手の行動原理が共に生きるに値するかを見極める能力だ。
ハラスメントを恒常的に、誰に対しても行う人というのは、自己や他者の言動とその影響に対する認知の歪みを抱えている。
こうした認知の歪みは、新たな属性(就職、出産、高い社会的地位とか)を手に入れても治るものではない。
強い忍耐をもった理解者や主治医に寄り添われながら、トライアンドエラーを繰り返して、ようやく自分の言動を見直すことに繋がる可能性が出てくる。
そうでない場合は、残念だが手の施しようがない。
楽しく、心豊かに生きていく上で、どうしても譲れないラインを見つけること。幼児教育において真に求められるのは、道徳観に訴えかける教訓を徹底することではなく、関係を断つべき他者を見定める能力を培う訓練だと思う。
異なる価値観で動く他者と衝突することは避けられない。多様な人間が集まる社会で生きていく上でトラブルはつきものだ。
人間は年齢を重ねれば自動的に大人になれる訳ではない。他者へのケアや配慮は、こうしたトラブルに試行錯誤しながら対処することで初めて習得できる。
異なる行動原理と相対したとき、自分の心と身体を守るための対処法を学習するには、実地訓練を重ねるしかない。
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ここで話は、冒頭の悪意のないハラスメントへの対処に戻る。
対等でない相手の言説に盲目的に従うことは、自分の心と身体を蔑ろにすることに他ならないと思う。
もっとも、抑圧的なふるまいをする相手に立ち向かうには大きなエネルギーが必要だ。心身が弱っている人にそれを求めるのは酷である。
そんな時には、自分ともハラスメント加害者とも異なる価値観の持ち主との対話、交流の経験が活きてくる。
けれども人生には限りがあり、自分にとって生きるヒントになるような出会いに巡り会えるかはわからない。
文化人類学という学問の価値は、まさしくここにある。未知の価値観・行動原理を学ぶ上で、参照軸となりうる世界に、他者のフィールドワークを通じてアクセスできるのだ。
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私は文化人類学のこの特性に、希望を見出している。フィールドワーカーとしての五感と言語化しづらい直感を信じて、今日も生きている。
もしも力になれたならサポートいただけると嬉しいです。 あなたのエールで私の生が豊かになり、やがて新たな記事となって戻ってくるでしょう:)