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あの日の夜景はもう見られないと悟った
職場の同僚に誘われて、先日長崎を訪れた。私も彼女も長崎は2度目。しかし、6年前に訪れた私に対して、彼女は幼少の頃に訪れたらしく記憶がないという。そこで、王道の長崎観光ルートを満喫しようということになった。
2人とも写真を撮るのが好きなこともあり、写真映えするスポットを調べながら旅程を立てた。彼女はツアーコンダクターさながらにてきぱきと計画を決定していく。私はただ「それいいね!」と言うだけになってしまっていることに申し訳なさを感じつつも、こういうことは得意な人が進めるのが一番だとも思い完全に彼女に任せっきりだった。
そんななか、夜景を見に行こうという話になった。長崎の稲佐山の夜景は「新3大夜景」のひとつと呼ばれているらしい。そのときはじめて、私はしっかり意見を出した。
「前に長崎に行ったとき、日が沈んで夕日が色濃くなるにつれて灯りが少しずつ付いていくのがとんでもなくきれいだったよ!暗くなりかけに現地に向かい始めても良いかも。」
当日私たちは旅程通りに順調に観光を進め、夕方17時には稲佐山を上るルート上に居た。ピンク色になりつつある街の中を車で走り抜ける。光も少しずつ付き始めて、とってもきれい。「見て!!すっごくきれい!」と運転席の友人に声をかけては、「運転手によそ見させたら駄目だった、ごめん!」と気付くというやりとりを繰り返した。
――私これが見たかったんだよね!!
そう思って感動する、、はずだった。
夜景を見てからの帰り道、興奮する彼女と騒ぎながらも私の心は別の場所にあった。それは6年前の長崎の記憶。当時の私の隣には、その当時付き合っていた彼がいた。心からずっと一緒に居たいと思えていた彼との長崎旅行は、今回の旅行とは正反対なくらいぐだぐだだった。
旅程を組んでいても、楽しくなったらそのスポットに長居した。おいしいごはん屋さんでは感想を話しながら食べるから時間がかかった。たまに車の運転を私に代わっては、その下手さ加減に怖がったり笑い転げたりしていた。
そんな幸せな記憶におけるハイライトが、まさに稲佐山の夜景だった。それも山頂から見た夜景ではなく、今回も提案したように夕日に街の灯りが浮かぶものだった。はしゃぎつかれた体で車に乗り込み、山に向けて海沿いを走りながら見たあの夜景が忘れられない。人生で初めてこんなにきれいなものを見たと思うくらい心を奪われ、見入っていた。
今回の旅でも私はその夜景を見る予定だった。それを期待して旅程を組んで貰ったし、車の中でもいまかいまかとあの感動を待ち焦がれていた。一緒に旅行に行った同僚にもあの感動を共有したかった。それなのに、私にそんな時間は訪れなかった。
理由は何なのか分からない。彼と一緒に見たからきれいだったのか、はたまた、当時の私の心が澄んでいたのか。ただ一つ分かることは、いくら見たいと切望しても「あの日の夜景はもう見られない」ということだ。
これまでの人生でも、越えられない記憶や塗り替えられない感動は存在した。今回が初めての経験でも無いし、この結果に納得もしている。ただ、こんなに残念に思ったのは正直初めてだった。随分と前に失ってしまった彼との時間を思い出し、懐かしく温かく切ない気持ちの沼にずるずると引き込まれかけた。確実に戻らない時間だと分かっているからなのだろうか。
きっと今後も自分史上最高の感動を見つけることが出来るだろう。その時に誰と一緒にいるかは分からない。家族かもしれないし友人かもしれない、もしくは、今の自分では想定できていないシチュエーションがあるのかもしれない。それがいつ訪れるかは分からないが、きっとその瞬間も一度しか経験出来ないのだろうと思う。今回の経験から、もう二度と戻れない場面があるのだと身をもって学んだ。これからは一瞬の感動や光景は一度切りだと心に刻んで、しっかり目に焼き付けて生きていきたい。
最後に、久しぶりに思い出した、遠い記憶の中にいる彼に伝えたい。
――もう戻れなくても最高に幸せだった。いつかあの夜景を塗り替えてみせるよ。