3月11日
10年前の今日、私は中学2年生だった。
学校の体育館で体育の授業を受けていた。
体育館を二面にわけて、卓球とバドミントンにわかれてやっていた。
男女わかれていたけど3クラス合同だったから、だいたい40名強いたと思う。
私は保育園のころから一緒の子と組んでバドミントンをやっていた。
地震!!
卓球をやっていた子達の間から、突然大きな声がした。
そこで私たちははじめて動きを止めた。
それまで揺れていることに気づかなかったのだが、体を動かさず立っているとみるみるうちに揺れが大きくなっていった。
私は咄嗟に、体育館で地震にあったときはどうするべきか、小学生のとき読んだ災害マニュアルを思い出した。
体育館で自身にあったときは、体育館の中央に集まると書いてあったはずだ。
もちろん教室など机がある環境だったら机の下にもぐるのが鉄則だが、体育館にはそんなものはない。
私はバトミントンを一緒にやっていた彼女の手を引いて、体育館の中央にしゃがみこんだ。
ところが、卓球をやっていた子たちが「早く!早くこっち来て!」と叫んでいる。
みんな卓球台の下にもぐっていた。
一つの卓球台に4~6人の子がもぐっていたと思う。
私と彼女はべつべつになって、余裕のある卓球台の下に潜り込んだ。
あのときの揺れの強さはは筆舌に尽くしがたい。
私の住んでいた地域は震度5強だったことがのちにわかったけれど、その時は震度7なんじゃないかと思った。地震体験車でしか体感したことのない揺れだった。
卓球台には私のほかに3人はいたと思う。4人だったかもしれない。
私は前後左右に滑る卓球台の脚をしっかりと持った。
揺れが続いている間、4人の反応はばらばらだった。
あまりの揺れの強さに笑ってしまう子。
虚空を見つめたまま体をこわばらせる子。
「体育館が崩壊するんじゃないか」と繰り返し不安を漏らす子。
そのときの私はというと「この体育館は比較的新しいから、たぶん大丈夫だと思うよ」とそのつど言っていた。ここ3年以内に体育館の補強工事が行われていたことを、親づてに聞いたのを思い出したのだ。
その話を後日家族にしたら「おふうらしい」と笑われたっけ。
悲鳴がどの卓球台からも聞こえていた。
固まって虚空を見つめていた子が、「あのさ…」と口を開いた。なぜだか私に「泣いていい?」と聞くので、「いいとおもうよ」って返した途端、その子は声をあげて泣き始めた。
揺れが収まったあとも、みんなしばらく呆然としていた。
そして徐に一人の子が卓球台から出てきたとたん、みんなが一斉に悲鳴をあげながらグラウンドにつながる非常口に向かって走り始めた。
非常口はすぐに人でいっぱいになって、押し合い状態だった。
私は周りがパニックになると逆に冷静になる性格で、漫画やドラマでしか見たことのないその光景が実際に目の前で起こっていることにちょっと引いていた。
それから全校生徒がグラウンドに避難して、しばらく待機していた。
グラウンドにいる間も2度ほど余震があって、そのたびにゆらゆら揺れるポールが倒れてこないか私はずっと睨んでいた。
校長先生が持っていたラジオから、東北が震源で、津波がやばそう的な情報が流れていた。
てっきりここが震源地かと思っていたので、東北の揺れは想像を絶するにあまりある。
それから1時間後くらいに、各自家に帰った。
家には妹と祖父母、猫2匹とうさぎ1匹がいた。
帰るまで家の状態がわからなくて怖かった。
家族は怪我をしてないだろうか。猫は脱走してないか。うさぎのゲージが物で潰れてないか。
帰ってみると、皆無事で、少しホッとした。
でも部屋の中は棚のものが結構落ちてしまっていた。
それから記憶はとぎれとぎれで、覚えているのは、
東北の津波の映像を見たこと。
家の前の小学校に、配給水をもらうため長蛇の列ができていたこと。
ガソリンが全然いれられなくて、でもたまたま最近入れていたので車の移動は心配なかったこと。
翌日、スーパーの棚からほとんどの食品がなくなっていたこと。
福島第一原発が水素爆発したことが報道された瞬間、テレビの前で父が絶望的な声を出したこと。
翌日、放射性物質が含まれる可能性が高い雨の中を登校することに父が怒り、校長先生に連絡をいれたこと。
学校についたら絶対によく体を拭くんだよ、と父に何度も何度も強く言われたこと。
土日かなんかを利用して、大阪の従兄弟の家に避難したこと。
私のあの当時の記憶は、こんな感じ。
地震が起きた瞬間のことは、10年前とは思えないほど、鮮明に覚えている。
でも地震後は東北の津波や原発事故など各地で色んなことがありすぎて、かえって自分の身の回りの記憶は忘れつつある。
東日本大震災について、くり返しくり返し報道されている。
あの日を忘れない。そんな言葉が添えられて。
津波で街が消えたこと。たくさんの命や財産がのまれたこと。原発事故の最前線。どれも絶対に忘れられてはいけない、後世に残さなくてはいけない出来事だ。
でも、テレビの向こうの誰かの体験と同じように、私の体験もまた、忘れてはいけないと思っている。
だから、毎年やってくる3月11日に、私は必ずあの日の話をするのだ。
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