30. ココアをひとつ

失敗したか、もっと早くやっておけばよかったか、確かにそうだ、いまというものが変わっていたかもしれない、果たしてそうか、楽しいことは嬉しいことはなかったか、少なくともあの頃の自分は震えていなかったか、笑い合ったあの日々は、泣き腫らした帰り道は。何かを書くことについて昔より、20代や30代より静かになったここ数年。投稿もそんなにしていないけど考える事だけはしている、形にしなくても組み立てて震えることはしている、変態か。人によって目標も到達地点も違うけれど、自分にとってはいい傾向というか、悪くない気はしている。そもそも承認欲求が強すぎた、他人からも自分からも含めて、そこを少しずつ納得していかないと人生がつらい一方だし、なんかその為に書いてるって本物ではないんだよね、結果は後からついてくるものでなんせ楽しくないといけない、少なくとも自分の理想像はそこにあるはず。それだけではないけど、もう少しあと少しだって、ようやく思えるようになってきたんだよね。ということで、最近は時々投稿して落選します、主催と選者にしてみたら迷惑かもしれないことですが、あぁそうか載らなかったかぐらいの気持ちのが大きいです。勿論ちょっとした悔しさはありますが何で悔しいのかはよくわかりません。

ココア共和国今号、投稿詩からの思いを読んで、一回も載せてくれないって声とかあるんやな、なんか某所でもそんな感じの意見読んだな、それはそれぞれの雑誌の方向性とか傾向とかあるんだから仕方ないでしょうよと思ったり。そこに合わせていくか自分でやるかの二択よね。それはそれとして。色々と示してくれたのはとても有難く、選考基準を教えてくれるなんて他でなはいだろうし、ここでと思うならそれに沿って書いていくのもひとつだと思う。ただこれが詩壇とか詩の世界において最上級でベストではないよね、そう思って売っていこうとしているのではあるけれど、でも後にあるように、感動すれば選ぶことになる、個人的にはそこが一番大事かな。でも箇条書きの多くはそうかもねと感じるところなので、狭義の意味での現代詩かな、そこらへんでの要素には必須ではなくとも成り得るのかもしれない。ある程度からは感性の問題になるけど、どうしても受け入れられないものっていうのは正直あって、だとしてもそれが不正解ではないしダメなわけではないことも大事。

傾向に合わせる、必要とされているものを書くことが自分は嫌になってしまったし、好きな文体の雰囲気に寄せていく努力も苦痛になってしまったので、いまは自分の書きたいように書くことが立ち位置で、そのうちそれらが楽しくなれば苦しくとも喜びとなればまた方向性は変わる。プロとかいう線引きがこの界隈にあるのかはよくわからないけど、少なくとも依頼を受けてどうこうという人にはならない、なれない、いま目にする書き手たちの情熱とは比べものにならない、沸騰してない、いまは白湯だ、それはそれで意味はあるけど。それでもすべてを投げ出して筆を折って終わりにはならないと思う、人生に寄り添って言葉は常にあるのだろう良くも悪くも。食えなくても書くっていうソウルが好きだ、実はそこが1番好きだ、食いたい人はがんばれ食える、それはそれで素晴らしい世界。言葉はいつも裏切らなかった、私も言葉を裏切らない。すべての言葉が私ではないけれど、私のすべては言葉です。


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