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愉しき哉、幼年時代

はじめに

 幼年時代の愉しかった思い出を記憶から呼び戻そうとすると、過去から現在の長い年月の中で、事実なのか空想なのか判断に迷うことがある。だが体験という情報が脳に入力されて記憶となっていたことには違いない。
現代の子供達の有様を憂慮して、「昔はこうだった」と引き合いに出して諫めるつもりはない。時代がどうあれ幼児期のあらゆる経験が、自己形成に繋がるということは普遍性なものである。

1. 懐かしい町

 私が生まれ育った町は、東西方向に高さ50mほどの丘陵を挟んで南北に分断されている。南は城郭・武家地、寺社地、北は町人地であった平山城の小さな城下町である。
丘陵を縦走する切通しは開削跡の岩壁に草木が繁り、薄闇の洞の中に導かれるようであった。夜の切通しはたった一つの電灯が、人待ちするように闇を照らし、光の滲みの中で不気味に響く自分の足音から逃れるように、早足で通り抜けていた。この切通しだけは今も変わらず、懐古に浸ることの出来る唯一の場所と言える。
 昔、この丘陵は外堀の役目を果たしていたと思われる。地形が二分されているために町の拡がりや連携さがなく、城下町の名残があまり感じることが出来なかった。だが城下町特有の伝承行事は季節ごとに多様にあり、秋祭りなどは町民総出の興奮が狂喜の渦を巻いていた。

 戦後数年を経て社会経済の復興は進んではいたが、被災が少なかったこの町さえも、物資不足と失業で人々の暮らしは貧しかった。
町人地だったM地域は昔ながらの米屋、酒店、衣料店と商店が多く、労働者家庭との生活事情の違いが大人の世界では見え隠れしていた。

2. 私の幼年時代

 子どもの格差が出るのは小学生になってからである。学力の差が自分のポジションに成り得る。この時代の学力の差は家庭の経済事情が明らかである。裕福な家庭であれば教育に比重を置く。友達もそのカテゴリーで作られていく。幼児期の遊び仲間は、平等、能力、チームワークの上で築かれていた。純粋さがまだまだ残っている年齢だからこそ、無条件に受け入れられるのであろう。

 当時私は、近所のY子ちゃんが習っていた「バレエ教室に行きたい」と、不相応な願いを親にせがんだところ、「そんな贅沢な習いものはダメ」と一蹴されてしまった。
 子どもが就学1年前になると、この時代にも通園することが浸透し始めて、私も通うことになった。母に連れられた私は、幼稚園の門をくぐるとばかり思っていたが、園前を通り過ぎてしまった。母に尋ねると、「幼稚園は昼で帰されてしまうのよ。保育所はね、働くお母さんのために、子どもを夕方まで置いてくれるから安心なの」
 私はその頃、近所のおねえちゃんに連れられてキリスト教教会の「日曜礼拝」に通っていた。教会の不思議な雰囲気が好奇心を刺激し、賛美歌や聖書の話を聞くことで、自分が特別善い子になった気分になっていた。
家庭事情はもちろん、カトリック教信者でもない我が家は、そんな娘の「幼稚園に上がりたい!」など聞き入れるわけがない。不満の保育所通いが楽しいはずはなかった。幼いながらも、カトリック教会の「幼稚園児」にエリート意識を持っていたのであろうか?
言うこと為すこと「こましゃくれた子ども」の片鱗をこの時分から覗かせていたようだ。
 親も仕方なく通園させることを諦め、食べ物と小遣いを渡し、本人まかせのほったらかしを決行した。

 このほったらかし方針が、子どもの自由奔放さを花開かせた。何をするにも自分の思いのままに行動するが、この自由には幼いながら自己責任があり、それをしなければ叱られることは分かりかけていた。だからみんなと行動するにも、やみくもに付いて行くことはなかった。
遊ぶグループは、その時の遊び方によって流動的にメンバーが組まれる。時には男女や年齢差を度外視されたハードルの高い遊びがある。探し物競争などがそれだ。年上の子が隠す場所は想像がつかず、幼児といえどもハンディなしで探さなければならなかった。
 このように遊びのルールや厳しさを体験したことが少年期へのウオーミングアップとなった。年齢相応の体験を積むことで成長の階段を上がり、その証がその人の「個」の形成となって行くのではないかと思う。

 振り返れば71年の長き人生の中で、「恋にときめき、恋にやつれる」恋愛がすべてのあの青春時代よりも、記憶のスポットライトを浴びるのは「愉しき幼年時代」と思えるのは何故だろうか。
恋愛は「愛憎」の交錯を孕む感情の中で、喜び悲しみを繰り返し、やがては過去の記憶として封印しまう。そして新たに歩み始める。「大切な思い出」ではあるが「愉しい思い出」として語るには、意識の転換が必要と思う。
幼年時代の思い出は無条件に愉しく語れるのである。
素地にある「気質」のキャンバスに、「性格形成」の色が薄塗りされるのが幼年時代だと思う。仲間と遊ぶ中で容赦ない自分の立ち位置を突き付けられる。遊びの輪に入るには自力を示さなければならない。それにはみんなの行動を真似ることで、輪の入り口が開かれる。それからは独自のスタイルを創り出すことで中核にも成り得る。大人社会の縮図ではあるが、裏工作や駆け引きはもちろんない。いや、物で従わせていた子どもがいたかも?
幼年を送ったあの時代は、世間と親と子との相関図がうまく引かれていたような気がする。
 あの時代ならではの子ども達の遊びの思い出を、四季折々を絡ませながら辿りたいと思う。

3. 雪遊び

 朝目覚めると、戸口を塞ぐほどの雪が積もり、どこまでも白い景色が異世界のように広がっていた。雪という大量の素材を眼前にして、いかにして遊び場を作るか頭を駆け巡る。「高い滑り台を作ろう!」と閃けば、そりを利用しての雪集めをする。
冬季の服装といえば、防寒服に毛糸編みの帽子や手袋、襟巻と、雪降ればたちまち手足はびしょ濡れ、身体の芯まで冷え込んでしまう。寒くて悲鳴を上げながら家に飛び込み、炬燵の中に潜り込むと、先客が居て「ニヤーン」と爪を立てられた。
外では犬が雪を蹴散らして走り回っているというのに・・・。
 積雪の日は人の往来はなく、私たちはそれを見定めて仲間と通路の雪固めをする。手作りの竹スキーや木そりを背負って坂道の頂上まで上がる。坂道は最高のゲレンデであり格好の遊び場となる。乗ったソリは何度もひっくり返り雪まみれになるが、それでも懲りず奇声を上げながら滑り落ちて行った。

4. カッカ鳥

 正月も過ぎ、いよいよ大寒間近な14日の夜、こどもは「カッカ鳥」と呼ばれる年中行事に参加しなければならなかった。近所の数人の子どもが家々を回り、「カッカ!カッカ!」と叫んで菓子などを貰った。現代のハロウィンのようなものである。何故「カッカ」と叫んで家を回るのか、確かな理由も分からないまま今に至っていた。
郷土史にも詳しい記述がなく、「カサドリは『喝〃』といひて家々戸口を様々なる粧をして云々」と大まかに書いてあるだけだった。   
 行事の由来は、男42歳と女33歳の厄年の家庭で「厄流れ」といって凧や風船など飛ぶものをくれたということは別資料で分かった。

 私なりの解釈は、喝〃(カッカッ)の連呼が鳥の鳴き声に似て、風船や凧が飛ぶ鳥のように空へと舞い上がるさまが、厄払い「カッカ鳥」の由来であろうかと思う。この地域ならではの風習と思われるが、今は知る人もいない。
 底冷えの夜、子どもは眠るはずの時間に、お菓子を貰いたい一心で、「カッカッカッカ」と叫び、夜の灯りを縫いながら走り回るのである。
 こんな活気な子ども達だからこそ、厄年の男女の災いを払い飛ばしてくれる、恰好の役目ではあったのだろう。

5. 春の小川で

 春になると遊びも4km先の小川まで遠出をする。
緑の水田を従えて流れる小川の水は緩み、ここかしこに若草が花をつけていた。そこには生物のあらゆる命が息吹いていた。
 小川の流れに逆らって足を入れると、フナが必死に泳いでいるのが見えた。春の自然遊びが堪能できるこの場所に、日が暮れるまでいた。
川で遊んでいると、時には上流から子猫が流れてくることがある。わたし達は子猫を拾い上げて河川敷に穴を掘り埋葬した。土盛りした墓に朽木を刺して草花を手向けた。

 後年、フランス映画「禁じられた遊び」が放送された時のことである。
ナチス戦闘機に両親と愛犬を殺された女の子は孤児となり、世話をしてくれる家の少年と仲良くなる。二人は川に捨てられた愛犬の墓を立ててやった。そして愛犬が寂しくないように他の動物たちの墓も作ってやる。懸命に墓を作る二人の姿が、河川敷に子猫たちの墓を作った、あの日の自分たちを思い出した。
 戦禍の子ども達と、戦後経て生活を取り戻した私たちとは、生命の緊迫は比にならない。だが子ども達は死を理解出来ないまま「ひとりぼっちでは可哀そう!」との憐憫の情が「お墓ごっこ」の遊びになってしまう事実は、国を超えて相通じるものがあると思えた。映画は哀しい展開ともっと深い意味をもってはいたが・・・。

6. 思いがけないパン

 駅周辺での遊びはその時によって様々に変わる。列車から慌ただしく乗り降りする人を見るだけでも面白いものである。
 ある日、年上の男の子が「駅の操車場に捨てられている銅線を、廃品配収屋に持っていくとお金に換えてくれるよ!」。
この話を聞いた数人の子どもたちは、早速駅に向かった。確かに不要な銅線がバラバラ落ちていた。夢中になって集めた銅線を廃品回収店に持ち運び、店のおじさんに重さを計ってもらった。「○○円になるよ」と言って、年上の男の子にお金を渡してくれた。おじさんは子供たちの持ってきた品物に何も言わず、正当な取引で換金してくれた。そのお金はパン代となり、みんなで店先の長椅子に座り、パンにかぶりついた。
 いっぱしの仕事をして得たお金で買ったパンを、みんなで食べた美味しさは格別であった。

7. 繭糸

 戦後30年頃までは蚕の繭から得る生糸は重要な輸出品であった。この町も製糸工場が経済の要であり、多くの女性の働く場として存在していた。
 近所に、自宅で蚕繭の糸取りを仕事としているおばさんがいた。
私は繭から糸取りするおばさんの手の動きが面白くて、しばらく眺めている時があった。   
作業板枠の下に、蚕繭を煮る大きな鍋と火鉢が置いてあった。足元のペダルを踏むと連動して中央の車輪が回転し、鍋の繭から引き出した糸を、複雑な「あやとり」をするように指を動かして、取り付けた木枠に巻き取って行く。
 成虫になることを夢見、眠りについた蛹は釜茹でにされ、自分の作った繭の部屋を徐々に奪われ、しまいには茶色に萎びて釜の底に沈んでいった。
桑葉をせっせと食べて蛹になり、口から糸を出して作ったその繭を取るために、奪われた蚕の命の儚さは、幼いながら切ない気持であった。
 私が10歳になった頃、映画「モスラ」が公開された。モスラが、当時社会を騒然とさせた水爆問題と絡ませて、人間の愚かさを警鐘するストーリーである。
繭糸が日本の経済を支え続けた蚕への敬意の現れが、日本の危機を救う英雄的意味を含む映画撮りで、蚕に報いたのではないかと想像した。
「蚕」という漢字は「天の虫」のごとく、人間には計り知れない恩恵を与えてくれた天(自然)からの恵みの虫である。人間の経済性のため家畜化されてしまった蚕は、野生に戻すことは出来ないが、せめて蚕への敬いから「蚕」と漢字で書いた。
それは家畜にも、生命の倫理を持って食す気持ちがあってしかりと思う。

8. 肝試し

 夏の蒸し暑い夜は、子どもにとってもまだ遊びたい気分がある。そこで決まるは「肝試し」である。
町外れの小高い山には墓の集落があり、日中みんなで墓の下検分に出かけた。
 墓石が立ち並ぶ中に、桜の木を抱えた立派な墓を「肝試し」の着地点とした。その墓石の後ろに隠した袋を持ち帰るというゲームだ。その間、泣いたり逃げたりしたら、弱虫と見なされる。
 実行の夜、持ち寄った提灯を照らしながら、真っ暗な山道をぞろぞろと上がって行った。しばらくすると誰かが声を潜めて「何かあそこにいる」と言い出し始めた。足は竦み寒気が走り互いにしがみつき、ざわめきながらも目的の墓に辿り着いた。みんなを脅かした男の子が袋を手にし、「取った!」の雄叫びが合図のごとく、みんなは今上がって来た道を、提灯を揺らしながら一目散に駆け下りて行ってしまった。私には「お化け」よりも、暗闇の中を蜘蛛の子を散らすように走り去った、みんなの姿の方が余程怖かった。
まだ、お化けの話が何より怖い時代であり、立ち並ぶ墓石の影に怯えながらやり遂げたことは、怖さにたじろがない度胸を示した証となるゲームの一つだった。
 今では考えられない危険の孕む許されない遊びではあるが、だからこそ成し遂げる面白さを求める時代でもあった。そこには牽引する年上の子の存在あってのことかもしれない。      
私など男の子と同線上で遊んだ体験が、冒険心の高揚感を求める性格となってしまったのかもしれない。

9. 紙芝居

 どこからか汽車に乗って紙芝居のおじさんがやって来る。「トシちゃん」と呼ばれていた。駅前に預けてある自転車の荷台には、紙芝居を入れた大きな箱が乗っていた。トシちゃんの叩く拍子木が聞こえると、子どもたちは蟻が群がるように集まって来た。1日10円の小遣の半分が紙芝居代となる。水あめを舐めながら、重なった頭の垣根から見ていた紙芝居の物語はとんと覚えていない。ただトシちゃんの高い独特の声が耳に残っていた。

 その後、テレビの普及によって紙芝居も来なくなった。まだまだテレビは高額で近所では大きなお店にあるだけだった。
この店内に置いてあるテレビ観たさに、大人は「力道山プロレス」、子どもは「チロリン村とクルミの木」の時間帯に群がっていた。
我が家にテレビが置かれたのは、1960年頃だったと思う。
その時放送されていた「怪傑ハリマオ」は人気番組であった。男の子たちはハリマオを真似て、おもちゃのサングラスをかけ首には布を巻きつけ、威勢よく走り回っていた。郷土史の当時の写真を見たところ、おじさん達までもがサングラスをかけ、自転車やバイクに跨ってポーズをとっている姿があった。

10. 水道端会議

 当時、まだ各戸専用の水道を設置している家庭はあまりなかった。一つの水道栓を共同で利用する数軒の家庭が組を作り、責任者を置いて水道栓の鍵を保管し、共同で一つの水道を利用していた。そのためその水道場は井戸端会議ならぬ「水道端会議」が、開かれていた。その水道場の下には水路があり、いつの間にか亀や沢蟹が住み着いていた。夏になると誰が置いたか、バケツの中にスイカやトマトなどが冷されていた。
とにかく貧しいながらも、物が盗まれることのない平穏な地域環境だったようだ。
 ここで遊んでいると大人の噂話を聞くことが出来た。井戸端(水道端)会議とは揶揄した意味を含むだろうが、地域の良いも悪いも必要な情報を得ることが出来る重宝な場所であったともいえる。
ここでの情報が、連係プレーを作り速やかに対処できることは、水道端会議ならではの存在であり場所であった。

11. 秋祭り

 秋の神社の祭礼が近づくと、町が祭りのために軌を一にして駆動する。この一年は祭りをするための、準備期間といっても過言ではない町民の行動が見える。
 祭りの賑わいは今も変わらないだろうが、幼年時代の祭りは太鼓台の繰り出しばかりでなく、道路の両側は露天商が埋め尽くし、サーカス、見世物小屋、旅芝居なども押し寄せて来た。
 祭りの日ばかりは私も女の子らしく、花蝶が舞う赤い振袖に首が垂れる程の大きなリボンを髪に付け、ぽっくり下駄を鳴らしながら歩いていた。
 サーカスは、円形のテントが張られ曲芸やオートバイショーなどを見せ物とした。
  見世物小屋とは、小人の曲芸、蛇女など小屋掛けの興行である。イメージは数年前に公開された映画「グレイテスト・ショーマン」が類似しているかもしれない。
蛇女とは下半身が蛇の尻尾を持つ女性である。「親の因果が子に報い~」と、おじさんの口上が始まると、女性は上半身をくねらせ蛇の尾も動きだす。女性と蛇の尾の間に何故か板が張られ、全身像は最後まで見せることはない。一瞬その姿に驚愕はするが、「ふーん」と納得せず、小屋を出てから「あれは嘘だね~」とみんなで騒ぎ出す。
 見世物小屋の興行は人道に反するものではあるが,当時は小屋の人達には明るさが感じられた。幼い私たちは小屋の人達の奇異な外見に違和感も持たず、「ショー」として見たに過ぎない。小屋の人達も、種々の仕事があるように「生きるために」と割り切っていたのではないだろうか。
それは見終えて小屋から出て来た時、小人のおばさんに声かけられ、楽しく話をしたことからも考えられる。
 旅芝居の小屋は駅前の大通りに建てられた。小屋は楽屋と高床式の舞台があり、見物人は立見である。芝居は昼頃から宵まで上演していた。演目は国定忠治など剣劇や涙を誘う母ものの人情劇である。
見物時間も長くなると抜け出し、露店から焼きそばなどを買って、立ち食いしながら見ていた人も大勢いた。
 毎年恒例の興行なため、演劇のスターにはファンが出来ていた。隣のおねえさんはスターに会いたくて、私を連れて楽屋を訪問した。楽屋では準備や食事をしている人たちが忙しく動いていた。
 町中を歩き回った私と姉は、疲れると芝居の舞台の前で首を上げて見入っていた。
演目が終わると周囲が騒めき始めた。怪訝に思っていると、音楽が鳴りだし舞台が暗くなり青や赤のライトが交差した。
すると、剣劇で町娘の恰好をしていた女の人が長い髪を靡かせ、ビキニ姿の透けた衣装で現れた。ライトを浴びながら艶やかに踊る姿にびっくりした。
見物のおじさんたちは指笛を鳴らし、大喜びで拍手を送っていた。その中には八百屋のおじさんの顔があった。いつもは店先でむっつりした顔で煙草を吸っているおじさんだが、その時ばかりは相好を崩して拍手していた。
大人の男の人がこんなにも喜ぶ顔を見ているのも楽しいものだった。
 この時流れた音楽が、サムテーラーのあの名曲「ハーレムノクターン」であることが大人になってから分かった。
旅芝居で初めて聞いた曲だが、このサックスの名曲はあの喜劇的場面を、ノーブルに変えてしまうほど心に染み、ジャズ音楽の興味を強めた。

12. わらべ歌

 わらべ歌には、数を組み込まれた遊び歌や、絵描き、手まり歌など多様にあり、女の子にとって気軽で仲良し意識の高まる遊びであった。歌詞を覚えることで学習にもなった。
 盛んに謡われたわらべ歌の中で、不思議な手合わせわらべ歌があった。
「一掛け、二掛け、三掛けて・・・私は九州鹿児島の西郷隆盛の娘です~明治十年の戦いに切腹なされた父上のお墓参りにまいります お墓の前で手を合わせ南無阿弥仏と拝みます~ ジャンケンポン!」 
歌詞からして鹿児島で謡われ、地方に伝承する過程で微妙に作り変えられていた遊び歌である。明治の新しいわらべ歌が津々浦々に広まった要因は何だったのか。  
 母から歌を教わった時に、「西郷隆盛って誰?切腹って何?」と、何々攻めをして困らせたらしい。
歌詞は「西南の役」をきっかけに徳富蘆花の「不如帰」に題材を得て作られたということである。おそらく西郷隆盛の名誉回復を機に,人徳を惜しむ国民の気持ちがわらべ歌となり、手合わせ歌の面白さもあって各地に広がったのであろう。
 わらべ歌は、言葉や数を楽しみ歌に合わせて身体機能を高め、絵描き歌、数え歌、手まり歌、縄跳び歌、手合わせ歌など、現代の歌って踊れるジャニーズJrのように、あの時代の幼児は常に歌って運動し学習できる遊びをしていたことになる。

13. 幼年時代のありかた

 幼年時代を「保護を必要とするひ弱な幼子」とイメージしてしまうと、親は子どもの自分の力で取り組もうとする主体性を抑えてしまう。わが子に目を配る余裕のない時代ゆえ、子どもは干渉されない自由の中で、自分への約束事を決めながら遊び、成長していったように思える。だからこそ愉しい時代と思えるのだろう。
 「ほったらかし」の環境の中であっても、家族のため懸命に働く親の姿や子ども社会と大人社会の在り方を、子どもの感覚で視ていたのではないか。

おわりに

 現代はVR(仮想現実)映像により、脳はVR空間を現実の世界と錯覚してしまう。VR空間で認識したまま行動した結果、現実とは全く違う行動となっていたこともありうる。そうなれば、私たちの「記憶」の求め方も変容させることが出来るということだ。
記憶の仕組みである、「脳は情報(体験)を受け取り、それを保持し必要に応じて呼び出すステップ」がどう変わって行くのか。
 それを考えたら、体験によって記憶された過去が急に愛おしくなり、愉しかったあの「幼年時代」をもっと語りたくなった。

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藤田  凛
読んでいただきまして幸せです。ありがとうございます。

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