書評|ケンリュウ「文字占い師」で膝が割れた
ケンリュウの短編集「紙の動物園」収録の「文字占い師」を読んだら、膝が割れるような感覚に陥った。
そのくらい、ケンリュウの言葉には、芯に響く力がある。
例えるならば、井上尚弥のボディブローのような。
誰でもパンチを打てるが、井上のような重いパンチは打てない。
同じように、誰しもが言葉を使えるが、ケンリュウのような重さのある言葉は書けない。
なぜ、ケンリュウの言葉は芯に響くのか?(それも、和訳という16オンスグローブ越しなのに!)ということを考えたい。
日本語版の装画が可愛い。オフホワイトの背景に、ちょこんと水彩で書かれた折り紙の虎。作中で「母の愛」の具体像として使われる折り紙。その温もりが絵に込められている。
イラストレーターは、伊藤彰剛さん。ファンになった。
『もののあはれ』のキツネの装画もとっても好きだ。読みたくなった。かつ買って手元に置いておきたくなった。
さて閑話休題。
ケンリュウの言葉に重さがある理由は何か。
私の結論は、「言葉が記号化されていない」からだ。
言い換えると、ケンリュウが使う言葉には、彼の実体験や、リアリティが込められている。パンチで言えば、腰が入っている感じだ。手打ちになってない。
僕らは、ついつい手打ちになって言葉や概念を扱っていると思う。
仕事の現場で現れる「カタカナ多用マン」など、本当に手打ちだなと思う人が多い。
「ブランド資産になります」
「生活者とのエンゲージメントを高めます」
このような言葉を、先輩の企画書で見たからといって、そのまんま書いている人がいる。浅い。
先輩たちは、リアリティを考え抜いて、ブランド資産という言葉を使っている。その場合、彼らが使うブランド資産という言葉には、即座に言い換えることができる「実態」が伴っている。
質問してみればわかる。「この場合、ブランド資産になるとは、具体的には何を指しますか?」
手打ちになってる二流の人は、言葉に詰まるだろう。
ちゃんと実態が伴っている、腰の入ったパンチとして打てている一流の人は、「この場合は、まず、御社の名前を知る人が増えます。その上で、御社の名前を見聞きした時、”手作り”という印象を抱くようになります。その印象があれば、例えば御社が化粧品事業に参入する際に、御社が発売する、というだけで、生活者からすると”きっと手作りの化粧品なのだろう”とスッと伝わります。」
糸井重里さんらは、実態を伴った言葉を使って話しているように感じる。
口達者なセールスマンは、記号化したカタカナ用語で”丸め込もう”としているように見える。
ケンリュウの「文字占い師」の短編では、
文字占い=漢字の成り立ち・語源から、今の心情・状況を推察する、という技が登場する。
つまり、ケンリュウは、その話が書けるくらい、言葉の”実態”に思いを馳せている訳だ。
印象に残っている文字占いは、
「美」
とは、「羊」+「大」。
かつて人は、大きい羊と暮らせるだけで安心・幸せであった。
という趣旨の話があった。
一つの漢字にも、その漢字を作った人たちの、実体験がある。
でも、それが数百・数千年の伝言ゲームを通して実体験と漢字がリンクせずに使う人が増える。
また、短編の中にあった
「中国が〇〇した」も「アメリカが〇〇した」も「日本が〇〇した」と書かれるが、そもそも「中国」「アメリカ」「日本」も、人間が作り出した”概念”であり、実態はない。けれど、実態があるように使ってしまう。
本当は、省略された実態の部分がある。「中国政府の構成員が会議で〇〇と決めた」みたいな現実の動きをまとめて、「中国が〇〇と決めた」と書くのであろう。
こうやって、実態を省略したり、実体験とリンクしない言葉を使うと、言葉は軽くなる。
ケンリュウみたいな響く言葉を使うには、
「言葉を記号化させない」こと。
言い換えると、
・実体験を呼び起こせる言葉を使う
・その言葉をつくった人・世界を知ること
・具体に言い換えられない言葉は使わない
あたりであろうか。
これをサボると、ほんとフレームワーク馬鹿というか、抽象論おじさんというか、口達者ではあるが実践が不得手な人になってしまうのだろう。
私は、ケンリュウや糸井重里のようでありたい。
トップ画像
UnsplashのSabrina Ellulが撮影した写真