「右翼」とは、次々に出てくる「左翼」に反対する勢力で入れ替わる〜〜(チコちゃん風)
この本を読んで勉強している話を書きましたが、読み終わりました。
定義はもとより世界史的誕生の瞬間から派生まで、影響された日本の「右‐左」の特殊性から戦後の歪み、現代の問題点までを解き明かし、ここ百数十年の世界史とそれに巻き込まれた日本の歴史がわかる画期的な一冊。
「右翼と左翼」とは何か
歴史的背景から現状まで網羅された良本でした。
目次
第1章 「右」と「左」とは何か―辞書を引いてみる
第2章 フランス革命に始まる―「右」と「左」の発生
第3章 「自由」か?「平等」か?―一九世紀西洋史の「右」と「左」
第4章 「ナショナル」か?「インターナショナル」か?―一九~二〇世紀世界史の「右」と「左」
第5章 戦前日本の「右」と「左」―「国権と民権」・「顕教と密教」
第6章 戦後日本の「右」と「左」―憲法第九条と安保体制
第7章 現代日本の「右」と「左」―理念の大空位時代
エピローグ 「右‐左」終焉の後に来るもの
言葉の意味として、フランス革命の時に生まれたくらいは知ってましたが、その定義となると明確に述べるのは難しく、また、右翼的なもの、それって右だよね、とか、パヨクとか左翼ならぬサヨクとなると、どう説明したものか、と悩んでしまいます。
冒頭で浅羽さんは、こういう定義を持ち出します。
「左」「左翼」は、人間は本来「自由」「平等」で「人権」があるという理性、知性で考えついた理念を、まだ知らない人にも広め(「啓蒙」)、世に実現しようと志します。これらの理念は、「国際的」で「普遍的」であって、その実現が人類の「進歩」であると考えられるからです。
左翼が、先に出てくるわけです。
対するに「右」「右翼」は、「伝統」や「人間の感情、情緒」を重視します。「知性」や「理性」がさかしらにも生み出した「自由」「平等」「人権」では人は割り切れないと考えます(「反合理主義」「反知性主義」「反啓蒙主義」)。
ここで「保守」すべき「歴史」「伝統」は、各国、各民族それぞれで独自のものとならざるを得ないので、「右」「右翼」はどうしても「国粋主義」「民族主義」となって、「国際主義」「普遍主義」と拮抗するようになります。
そして、それに対するものとして右翼が出てくる。
これは、思想とか対立軸の内容に関わる原理的な問題ではなくて、フランスで最初に右派と左派ができた時に、左翼側に集まった人達が出てきたから右翼にその反対派が集まったという歴史的な経緯を左翼と右翼は繰り返している事を象徴しています。
最初から右翼があるのではなく、内容はともかく、それまでの主流に対する改革派として「左翼」が登場すると、それまで中道であろうと「右翼」に寄せられてしまう。これがフランス議会で起こった権力闘争のあり方でした。当初「左翼」だった改革派もさらに過激な共産主義などが左側に出てくれば右側に行かざるを得ない。新しい改革派は常に左に、そしてそれに追いやられるように主流派は守旧派として右に移動していく。
そして、内容が異なっても、歴史は繰り返す。
左翼が起こした改革に対抗する勢力として右翼(反左翼と言ってもいいかもしれません)は存在するのです。
それをこの本では、歴史と事実に基づいて解き明かしていきます。
小泉改革は右か左か
色々な解説を加えた上で、最後に、この本では、21世紀に入って直面する課題について右と左で切り分けられるのかを問います。
護送船団方式で高度成長を遂げた日本に起きた停滞を、そうした社会主義的計画経済の裏にある規制と既得権益こそが原因であると指摘し、「自民党をぶっ壊す」と言った規制緩和と自由主義経済の小泉改革とは、右なのか左なのか。
格差を容認して「平等」を犠牲とし、「自由」を野放しとする「改革」はいわば歴史を逆戻りさせる「反動的」で「右」なものと見做されます。
共産主義国である中国はもちろん、韓国もこうした改革を「右」とするそうです。
では日本では、小泉改革を「右」というでしょうか?
どちらかと言えば進歩的な改革派であり、「反右」という評価ではなかったでしょうか。抵抗勢力は保守的で、小泉改革が正義だとしていました。結局、新自由主義に対する抵抗は根強く、色々あって民主党政権の誕生まで転がってしまうわけですね。でも民主党政権が改革的だったかというと、これもまたそうではありませんでした。反官僚主義ともいうべき、未熟な政治主導でした。その芽が実は安倍政権で花開いて官邸主導時代を生むのですが、それはまた別の話。
でも、小泉政権の誕生は、左は進歩的で右は保守的というような単純な軸では位置付けられない状況の端緒でした。
対立軸の三次元化
では、どういう対立軸で社会を見ていけば良いのか。
学問的には、左と右、つまり革新と保守の対立軸として、政治的統制、経済的統制、文化的・社会的統制の3次元がある事を唱える田中愛治教授(現早稲田大学総長)の説を本書では取り上げています。
政治的な対立だけでは論じきれず、経済における再分配や文化・社会面での保守と革新の軸を問うことで、より現状が見えてきそうです。
そして、そうした状況を紹介しつつも、多次元空間での最適解探しは、「イデオロギーの終焉」を迎えた現代社会において政策パッケージが「右」や「左」において絶対のもので無くなり、直線上の「右左」の上にない事を明らかにしていきます。
巨大な権力が現にあって、それと戦うという構図があるならば「左翼」にも力があるかもしれませんが、複雑化する力関係と世界企業による搾取の中で、日本で「自由と平等」を求めることが別の国の「自由と平等」を圧迫する可能性がある状況下で、社会改革としてSDGsを持ち出したところで、何が改善するのかわからなくなっているのが、実情ではないでしょうか。
右翼は左翼のリアクション
そうした状況下における左翼と右翼について、浅羽さんはこんな風にまとめます。
結局、「左翼」は、いまここにある抑圧や差別、「右翼」はそんな「左翼」の台頭という「敵」と対決して燃えるところに、自らの正しさ、意味を見出してきたのです。
そして、リアクションでしかなかった「右翼」を明らかにし、依存し合う「右」と「左」が見失った世界で起きているのが、宗教と民族の問題だと指摘します。
もはや、「右翼」だ「左翼」だという時代ではなく、多次元空間での政策パッケージの提出と実現を目指し、その先にある世界平和の実現にはどのような哲学が相応しいのかを見出す時代なのかもしれません。
その時に、思考の補助線となるのがマルクスだというのが、多分、この本なのですが、なんだか読みにくいんですよねえ。
なんでだろうなあ。難しいのではなく、読みにくい。
筆者の物言いが引っかかる。
まあ、読みますけど。
サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。