日本文化の継承に必要なのは、やる人ではなくて見る人なのだ
日本文化が現代日本から遠いのはなんでかを考えるシリーズです。
日本文化に接しようと思うと、なんだか気負わなくてはいけないのが、現状かと思います。歌舞伎や能・狂言を見るのは、確かにオペラやミュージカルより安いか同等かもしれませんが、会場に行くのになんだか敷居が高い感じがするとか。和服は、日本人の普段着とは言いにくい(民族衣装が普段着の先進国はないという言い方もありますが)し、何より高い。
浮世絵はどこに見に行っていいかわからない人の方が多いと思います。これが意外に原宿だったりするんですが。
なんにしても、現代日本人の日常生活の中に日本文化は根付いているとは言いにくいのではないでしょうか。
じゃ、西洋文化は現代西洋人の日常生活に根付いているのか、という問いもあるかと思います。そこは、日本よりわね、と言わざるを得ない。
ではなんで、そんなことになったのだろうか、ということをしつこく考えているわけです。
冒頭の記事では、明治における変化が、文化の担い手の変容に起因するのではないかということを考えています。
この担い手という言葉を安易に使ったのですが、よく考えると、これには、二つの方向性があるのではないでしょうか。
それは、文化継承の担い手と、文化受容の担い手です。やる側と見る側、というとわかりやすい。
日本文化の継承というと、やる側のことばかり取り沙汰されますが、見る人もいない文化を継承してどうするの、という問いもあり得るわけです。客を育てる試みが必要な文化は、本当に文化なのでしょうか? それはオワコンなだけなんじゃないでしょうか。
この問いで有名になったのは、大阪市長時代の橋下徹さんでした。
文楽の助成金、オケの存続、文化行政に対費用効果を持ち込んだと言われ、文化の無条件の維持について疑問を投げかけました。
この是非については、この項で問うことではないので、お考えいただきたいと思うのですが、ここでの問題は、なんでこういうことになったかということです。
それは、文化の継承という問題が、多くの分野で自治体の補助金に依存し、首根っこを握られているからですね。そこには、文化継承の担い手の商売下手という問題とともに、文化受容の担い手の欠落ということがあるわけです。
日本文化が、現代日本人から遠くなっている、というのは、日本文化の担い手が少なくなっている、ということ以上に、日本文化を受容する担い手=日本文化愛好者が少なくなっていることに起因していると言えます。
その原因が、日本文化を成熟させた近代日本が、現代日本へと移行する過程で、誰かが日本人の心情に大きな断絶をもたらしたことにあったことなのではないか、つまり日本が日本で無くなってしまったからではないか、いうのが、この一連のグタグダ言説の中で私が言いたいことのようです(自分の考えを自分で確認するやつ)。
その原因を文明開化に求め、明治期の西洋文化の導入によって、日本文化が廃れた、というステロタイプの答えではないことは、書きました。
確かに、西洋文化に触れた人たちからの批判によって、明治において大きな変容を求められた日本文化ではありますが、そこで強かにより感性の度合いを深めたのだというのが、この記事での結論でした。
この記事で書かなかったのは、実は、日本文化のもう一つの担い手である受容者の変容についてです。完成度を高め、昇華していく日本文化は、実は、江戸期の重要なお客さんを失っていきます。
つまり、江戸の生きた庶民です。
西洋に認められた日本独自の文物=工芸品は、日本文化の一翼を担う物だと思いますが、これらも輸出のためにデザインや技巧が洗練され、江戸期までの日常使いの品ではなくなっていきます。
確かに、武家や公家、一部の好事家が求めるトップオブトップの品々が美術品としての価値を持つことを、万国博覧会に出品して世界に認められたからこそ、日本の職人が生んだ工芸品が、世界に出ていくことになるわけです。
一方で、民芸という言葉によって、そうした美術品ではない工芸品の持つ「用の美」というものを評価する人たちも出てきます。
そこに、日本文化の揺らぎ、もしくは変容の芽を見てしまうのです。
日本文化が、江戸庶民に支えられたものだったとしたなら、明治期以降は、そうではなくなってしまったことを、「用の美」は嘆いているわけです。
つまり、文化受容の担い手の変容が、文化継承のあり方も変えてしまったのが、明治期だったのではなかったでしょうか。
そして、日本は戦争に向かってひた走っていくことになり、あらゆる文化が忘れ去られていきます。